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 第一章 5.     by 栞

 朝、目覚めると、男は仕事に出かけた後だった。
 ほとんど毎日が、そんな感じだ。
 男は通勤の関係で朝の六時過ぎには出かけて行く。
 早い時間だから、と、私を起こさずに。
 朝ごはん用に用意されたサンドイッチを一切れだけ食べて、ぼんやりと考えた。
 ん。紅茶でも淹れようか。
 ティーバックをマグカップに垂らし、ポットのお湯を注いだ。
『栞、熱湯には気を付けるんだよ』
 小さい時に何度も注意するように言った男の言葉が、私の頭の中で必ず生き返る。
 不思議なものだ。
『栞、淹れたての紅茶は熱い。火傷には気を付けるんだよ』
 男がそばにいなくても、とても大切にされていると感じながら過ごす。
 今日も最初のひと口を注意深くすすり、ゆっくりと温かい紅茶を飲む。
 う〜ん、おいしい。
 朝のこの時間がとても好きで、お行儀悪くも、本を片手に食べるのだ。
 一口食べて、一口飲んでを繰り返す。また、手を伸ばし。……あれ? ひらひらと手を動かした。
 空を掴んでから、徐にお皿を見た。
 で、気づく。
 ああ。ないのか。
 からっぽのお皿。
 本を読むのに夢中で、いつの間にかサンドイッチがなくなっていた。
 無意識に口に運んでいたことに気付き、苦笑い。
 空腹だった体はすっかり満たされて、おなかがあったかくなっていた。
 一日の始まりは、こんな風に自堕落に過ごすことが多かった。
 朝ごはんが終わると、ベランダに出て洗濯物を干して、しばらく外の世界を眺める。
 ベランダから見下ろす世界は、車が行き交い、道行く人はとても小さい。それは、それは、遠い、遠〜い世界。
 こちらからは見えるけど、道からは見えないのだろう。誰も私を見つけることはない。
 ただ皆、急ぐように目的の場所に向かって、歩いていく。
 私はそれを見て、安心する。
「さ、よ、う、な、ら」
 と、知らない人に向かって、呟きかける。返事は当然ないけれど。
 それに見飽きたら部屋に入り、掃除を始める。
 埃を取り、フローリングを水拭きするのだ。
 固く絞った雑巾で丁寧に拭いていくと、さらっとした板の感触が気持ちいい。靴下を脱ぎ捨て、裸足でひたひたと歩いてみる。
 ああ。気持ちいい。
 音のない世界。人のいない世界。
 誰もいない部屋をひとりで楽しむ。
 そんな風に過ごしていても、大体九時頃には家事は終わる。

 それから。
 翻訳の仕事に取りかかる。
 パソコンの電源を入れて、指先を忙しく動かし、打ち込んでいく。
 空想に耽りながら。作家の気持ちを想いながら。なるべく忠実に訳していく。
 やがて、お腹の虫が騒ぎ出すまでその作業を進める。
 気が付けば、とっくにお昼を回っていたりもするけど、それも楽しくて夢中になる。
 一年前に、自分で翻訳したものが本になった。
 もちろんブックカバーには、私の名前。
 それから、さらに二冊ほど本になり、現在では三冊の本が売られている。
 私を知らない人が、私が訳した本を読む。なんて、不思議なことでしょう。
 これも男にいろいろと教えてもらったからできたこと。
 とても感謝している。しきれないくらいに。
 勉強だけしていた頃に比べて、とても充実しているから。
 世の中に必要とされていることを実感できる、と言ったらいいだろうか。
 この部屋で過ごしている時間が無駄ではない、と感じてから、とても気持ちが楽になった。
 男は、私に生きる意味を与えてくれた。
 だから、私はこれからも生きて行ける。
 これからも、ずっと、ずっと、ずっと……。

 そうだ、今日は私の十八回目の誕生日。
 十八歳、か。
 男はきっと、早く帰って来てくれる。
 毎年、綺麗な花束とケーキでお祝いしてくれるんだ。
 だから、今夜もきっと買ってきてくれる。
 そうだ! 今夜のメニューはなんにしようか?
 考える。
『何でもいいよ』
 男なら、きっとそう言うだろう。
 その顔を想像して小さく吹き出した。
 たしか冷蔵庫には、シイタケとえのきと鶏肉があった。
 きのこのパスタとチキンと野菜スープにしようか、あと……。
 食後には、ケーキにロウソクを灯して、吹き消すでしょ?
 で、ケーキ切り分けて、と。
 食べるところを想像しては、笑いが零れそうになるのを堪えながら、お鍋の中をくるくるとかき回した。
 お肉と野菜をコトコトと、柔らかくなるまで煮込んだ。
 部屋中にスープのいい香りが漂い、幸せの時間が近いと胸を躍らせた。

 夜の七時。
 そろそろ男が帰って来る時間だ、と思った。
 スープを温め直し、お風呂も準備した。あとは待つばかり。
 浮き足立つ、なんともいえないこの気持ち。
 こんな風に男を待つことが、一年前の自分にはなかったな、と思った。
 少しだけくすぐったい気分になった。

 時刻は十時。
 男はまだ帰って来ない。
 どうしたんだろう?
 早く帰るって言ったのに。
 壁時計は、十時十五分を指している。
 テーブルにはパスタ用のお皿とスープ用のカップが伏せてあって、準備は万端だった。
 静かだった胸の鼓動も、ざわざわと波立ってきている。
 嫌なこの感じ、なんだろう?

『栞 ――――』
 頭の中で私を呼ぶ声がして、一瞬、身を硬くした。


 けたたましく感じるチャイムが鳴った。

 玄関から、ドア扉を叩く音も響いて聞こえた。
 ドキリと心臓が跳ね上がる。

 男じゃない。
 男なら鳴らさないもの。
 緊張で全身が強張るのを感じた。
 何かあったんだ。
 普段、どんなにチャイムが鳴っても気にしたことがなかったのに。
 今日だけはちがうと感じた。
 私は廊下の電気を点けると、廊下の壁を伝い、恐る恐る玄関に進んだ。
 玄関の靴置き場に立つと、鍵が回される硬質な音がした。
 誰?
 息を呑む。
 ドアが開けられるのを固唾を呑んで見つめた。
 けれど、待ち望んでいた男ではなかった。
 そこには、男とはまったく違った顔の人が立っていた。
 初めて見る人。
 見上げるほどに背の高い人は、ひどく慌てた様子で、息を荒げていた。
 私をじっと見ている。
 顔は今にも泣きだしそうだ。泣きたいのは私の方なのに。
「君、栞さん? 田崎さんのご家族だね? 田崎さんが、事故に遭われた。大学病院まで一緒に来て欲しい」
 目の前の人は、必死の形相で、説明を繰り返した。

 『車が突っ込んだこと』 『酷い怪我だということ』 『自分は大学病院の医師だということ』 『タクシーが待っていること』
 パズルがつながっていく。
 それのどれもが現実的ではない。
 だけど、きっと現実に起こったことなのだろう。
 足元をすくわれた。
 ガラガラと男と私の世界が崩れていく。
 頭の中で大きな警告音が鳴り響き。
 立ちすくんだままの体は、自由に動かない。
 その内ぐるんぐるんと目の回る感覚の中、浮遊し始めた。
 聴覚だけが鮮明で。急激な吐き気に襲われた。
 ぎゅっと目を瞑る。
 頭の中がすごく煩い。
 どうしよう、どうしよう? どうしたらいい?
 そう思った時、平衡感覚を失くした。

 事故、事故、事故、――――――。

 その言葉の中に、私は巻き込まれるように沈んでいった。

(2008/04/01)


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