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 第二章 2.     by 栞

 私は抱き上げられ、タクシーから降ろされた。
 外は見渡すかぎり、広かった。
 暗いからだろうか。外の世界は果てしなく続いているように見える。
 地上との境目のない真っ黒な空を見上げた。
 チカチカと、時おり光るのは星の瞬きかな?
 こんな風に夜空を見上げることを、今までしなかったな、と思った。
 すべてが新鮮な、はずなのに。?
 美しい夜空なのに、震えが走るのは、寒さのためだけ?
 間近で感じる呼吸と腕の中の温もりに、しがみつきたくなった。
 匠の首に腕を回して、身を寄せるように抱きついた。
「寒い?」
 私はどう言っていいか分からなくて、曖昧に頷いた。
「ここが病院だよ。建物の中は暖かいから。さぁ、田崎さんが待ってる」
「病院?」
「ああ」
 見ると、所々明るくて、真っ暗闇に浮かぶ巨大な建物が照らし出されていた。
 病院。
 大きな入り口には『時間外』の文字。ロープで閉鎖されていた。
 その下には矢印で夜間窓口が案内してあって、その前を通り過ぎ、電気が白く点っている小さな入り口から中に入った。
 また、ぶるりと震えた。
 建物の中は暖かい。匠の言う通りだった。
 ちょうどいい暖かさなのに。
 背中からはぞくぞくと言いようのない冷たい感触が這い回る。
 震えが止まらないのだ。
 横抱きされた私の体は、匠が足を運ぶたびに揺れて安定感はない。
 けれど、全然怖くはなかった。
 ただ心細い。そう感じた。
 どうして?
 地に足が着いていないから?
 なぜこんなにも不安になるのか、分からなかった。
 その気持ちを振り切りたくて、虚勢を張るように辺りを見つめた。
 ……だけど、駄目。
 その気持ちもすぐに折れてしまう。
 下りたい。
「私、歩ける」
 下りれば、不安が解消されるかもしれない、と思った。
 そうだ、靴!
 早く下ろしてほしいけど、靴がない。
 靴か……持ってないし、……履いたこともない。
 スリッパならあるけど。
 毎日、ベランダで洗濯を干したり、日光浴する時に履いていた。
 あのスリッパがあったらよかったのに。
 きっと横抱きしている方も重いはず。
 靴下のまま歩いてもかまわないなら、それでもいい。
 それに、下りたい理由はほかにもあった。
 腕の中は私の好きな匂いが感じられなかったし、煙草の臭いがして嫌だった。
 男からする移り香とはちがう、強烈な臭いが鼻を突いていた。
 これは喫煙する人の匂いだ、と思った。
「匠、臭い。煙草の臭いがする」
 匠は酷く驚いた顔をした。
「……栞っていうんだったな?」
 私を意外そうな顔で見た匠は、苦笑いして聞いた。
「そう。私の名前は、栞」
「悪かったな。……煙草、嫌いか?」
「うん、嫌い。臭いが嫌いなの。煙草は体に悪いんだよ。吸わない方がいいよ」
 私の言葉に分かってるよ、と匠は言って。傷ついた顔で私から視線を外してしまった。
 悪いことを言ってしまったの?
「ねぇ、下ろして? 重いでしょ?」
「いや、重くはない。下ろしてやりたいけど、靴がないだろ? ……黙って抱かれてろ」
 匠はそう言った後、急に頬を赤くした。
 なぜだか、その顔は男と違って幼く見えた。
 しゃべるたびに表情を変えるのだ。
 ああ、そうか、匠は男よりも若いんじゃないのかな?
 そう思って、尋ねた。
「ねぇ、匠は何歳?」
「えっ? 歳?」
 匠は素っとん狂な声を出した。
 年齢を聞くことはそんなに驚くこと?
「うん。そう。匠って、いくつ?」
「あーっと、……二十九」
 上を向いて考える振りをしたが、すんなり答えがでた。
 二十九歳。……男は四十九だから、匠は二十も若いんだ。
 今まで人を比較する必要もなかったから分からなかったけど、男はぐっと落ち着いている大人なんだと思った。
 そう言葉を交わしている間も、匠は私を抱かえながら建物の中をずんずんと歩く。
 途中止まって、壁にあるボタンを押した。
 匠は『エレベーター』と教えてくれたけど、もちろんエレベーターに乗ったことも見たこともない。
 一応どんなものかは教えられていたから、知識としてはある。
 実際、目の前のエレベーターは機械仕掛けの箱という感じだった。
 音もなく扉が開いたのには驚いたが、隣に見えた階段の方がいい、とは言えなかった。
 今は、じっと大人しくしていることしかできない。
 不本意ながらも匠の腕の中にいる方が、安心できるのかもしれないと思った。
 その中で、私はなんともいえない空気を感じ取っていた。
 病院の中に入ってから、煙草の臭いと共に別の匂いにも圧されていた。
 臭い。この匂いも嫌いだ。
 外の空気とまったく違う。
 なんだろう? このツンとした匂いは?
 さらに苦手な匂いだと思った。
 匠の煙草の臭いとこの空気が混じって、鼻をおかしくする。
 あれこれ思っていたら、エレベーターの扉が開いた。
「目の前のI C Uに田崎さんが待っている」
 匠は指を差しながら、止まることなく足を運ぶ。
 奥には巨大な扉が見えた。
 いるんだ ――。
 男がここに。
 心ばかりが、私の中で騒いだ。

(2008/04/17)


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