私は抱き上げられ、タクシーから降ろされた。
外は見渡すかぎり、広かった。
暗いからだろうか。外の世界は果てしなく続いているように見える。
地上との境目のない真っ黒な空を見上げた。
チカチカと、時おり光るのは星の瞬きかな?
こんな風に夜空を見上げることを、今までしなかったな、と思った。
すべてが新鮮な、はずなのに。?
美しい夜空なのに、震えが走るのは、寒さのためだけ?
間近で感じる呼吸と腕の中の温もりに、しがみつきたくなった。
匠の首に腕を回して、身を寄せるように抱きついた。
「寒い?」
私はどう言っていいか分からなくて、曖昧に頷いた。
「ここが病院だよ。建物の中は暖かいから。さぁ、田崎さんが待ってる」
「病院?」
「ああ」
見ると、所々明るくて、真っ暗闇に浮かぶ巨大な建物が照らし出されていた。
病院。
大きな入り口には『時間外』の文字。ロープで閉鎖されていた。
その下には矢印で夜間窓口が案内してあって、その前を通り過ぎ、電気が白く点っている小さな入り口から中に入った。
また、ぶるりと震えた。
建物の中は暖かい。匠の言う通りだった。
ちょうどいい暖かさなのに。
背中からはぞくぞくと言いようのない冷たい感触が這い回る。
震えが止まらないのだ。
横抱きされた私の体は、匠が足を運ぶたびに揺れて安定感はない。
けれど、全然怖くはなかった。
ただ心細い。そう感じた。
どうして?
地に足が着いていないから?
なぜこんなにも不安になるのか、分からなかった。
その気持ちを振り切りたくて、虚勢を張るように辺りを見つめた。
……だけど、駄目。
その気持ちもすぐに折れてしまう。
下りたい。
「私、歩ける」
下りれば、不安が解消されるかもしれない、と思った。
そうだ、靴!
早く下ろしてほしいけど、靴がない。
靴か……持ってないし、……履いたこともない。
スリッパならあるけど。
毎日、ベランダで洗濯を干したり、日光浴する時に履いていた。
あのスリッパがあったらよかったのに。
きっと横抱きしている方も重いはず。
靴下のまま歩いてもかまわないなら、それでもいい。
それに、下りたい理由はほかにもあった。
腕の中は私の好きな匂いが感じられなかったし、煙草の臭いがして嫌だった。
男からする移り香とはちがう、強烈な臭いが鼻を突いていた。
これは喫煙する人の匂いだ、と思った。
「匠、臭い。煙草の臭いがする」
匠は酷く驚いた顔をした。
「……栞っていうんだったな?」
私を意外そうな顔で見た匠は、苦笑いして聞いた。
「そう。私の名前は、栞」
「悪かったな。……煙草、嫌いか?」
「うん、嫌い。臭いが嫌いなの。煙草は体に悪いんだよ。吸わない方がいいよ」
私の言葉に分かってるよ、と匠は言って。傷ついた顔で私から視線を外してしまった。
悪いことを言ってしまったの?
「ねぇ、下ろして? 重いでしょ?」
「いや、重くはない。下ろしてやりたいけど、靴がないだろ? ……黙って抱かれてろ」
匠はそう言った後、急に頬を赤くした。
なぜだか、その顔は男と違って幼く見えた。
しゃべるたびに表情を変えるのだ。
ああ、そうか、匠は男よりも若いんじゃないのかな?
そう思って、尋ねた。
「ねぇ、匠は何歳?」
「えっ? 歳?」
匠は素っとん狂な声を出した。
年齢を聞くことはそんなに驚くこと?
「うん。そう。匠って、いくつ?」
「あーっと、……二十九」
上を向いて考える振りをしたが、すんなり答えがでた。
二十九歳。……男は四十九だから、匠は二十も若いんだ。
今まで人を比較する必要もなかったから分からなかったけど、男はぐっと落ち着いている大人なんだと思った。
そう言葉を交わしている間も、匠は私を抱かえながら建物の中をずんずんと歩く。
途中止まって、壁にあるボタンを押した。
匠は『エレベーター』と教えてくれたけど、もちろんエレベーターに乗ったことも見たこともない。
一応どんなものかは教えられていたから、知識としてはある。
実際、目の前のエレベーターは機械仕掛けの箱という感じだった。
音もなく扉が開いたのには驚いたが、隣に見えた階段の方がいい、とは言えなかった。
今は、じっと大人しくしていることしかできない。
不本意ながらも匠の腕の中にいる方が、安心できるのかもしれないと思った。
その中で、私はなんともいえない空気を感じ取っていた。
病院の中に入ってから、煙草の臭いと共に別の匂いにも圧されていた。
臭い。この匂いも嫌いだ。
外の空気とまったく違う。
なんだろう? このツンとした匂いは?
さらに苦手な匂いだと思った。
匠の煙草の臭いとこの空気が混じって、鼻をおかしくする。
あれこれ思っていたら、エレベーターの扉が開いた。
「目の前のI C Uに田崎さんが待っている」
匠は指を差しながら、止まることなく足を運ぶ。
奥には巨大な扉が見えた。
いるんだ ――。
男がここに。
心ばかりが、私の中で騒いだ。
(2008/04/17)