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 第二章 4.     by 栞

 言葉では届かない、私の想い。
 苦しくて、どうしようもない。
 雄吾を見つめた。
 目の前にある唇をじっと見つめた。
 いっしょに帰ろう、って、言ってほしかった。
 嘘でもいい。言ってほしかった。
 『死ぬ』ことを告げられて、私の頭の中は真っ白だ。
 生きて欲しい。何としても。
 このケガは治せないのだろうか?
 どうしても、死を止められないのだろうか。
 恐怖と絶望。
 そのふたつが目の前でちらちらと揺れ動く。
 どうしても生きることが叶わないのなら……。
 想いを伝えたい。
 私の想いを。
 言葉が届かないのなら、どうすればいい?
 どうしたら届くのだろう? そればかりを考えた。
 私の想いが届いたら、雄吾は私の想いに応えてくれるだろうか?
「キス……したい」
 雄吾の唇を見ていたら、ひとりでに口から零れ出た。
 今まで、唇へのキスを許してはくれなかった。
 頬へのキスは何度となく触れ合わせたけど。
 それでもとても気持ちが安らかになったし、お互いが必要と確認するには大切な行為だと思っていた。
 だから、キスしたかった。
「雄吾、……キスしてもいい?」
 否定しないでと、ただ願い。
 焦がれるような想いで雄吾を見つめた。
「……駄目だ。……それは最愛の人とだけ……するんだよ」
 雄吾は声を震わせながら、ゆっくりと諭すように私を見た。
「最愛の人なら、雄吾だけ。私には雄吾だけだから! そんなの、そんなの雄吾が一番わかっているでしょ!? いいよって言ってよ!」
「……っ……」
 雄吾は肩で息をして何かを言いたそうにしたけど、私はかまわなかった。
「もう、我がままなんて言わないから、今だけ我がままを聞いて! ねぇ、雄吾!!」
 必死にすがり、そして乞うた。
 雄吾の顔は間近で。
 口唇までほんの少しの距離。
 駄目だって言っても、もうくっ付いてしまいそうだよ。
 ねぇ、いいでしょ? 雄吾!
 雄吾は苦しげに息をひとつ吐き出すと、静かに微笑み、目を閉じた。
 許された合図だと思った。
 雄吾の口唇に私の唇をかぶせていった。
 触れ、そして重ね合わせた。
 触れ合った瞬間、身体の奥底にある何かが弾け、熱い想いが込み上げた。
 雄吾!!
 雄吾の唇はとても柔らかで、愛情が溢れていた。
 震えた。
 心がどうしようもなく震えた。
 自分の唇がどんどん熱くなって、雄吾への想いが弾け飛ぶ。
 想いを伝えたくて、重ね合わせた唇だけど、雄吾の想いもまた、私の心に流れ込んで、私の中を満たしていった。
 それを感じ、浸った。
 甘くて静かなふたりだけの時。
 幸せだと思った。
 とても、とても幸せだった。
 触れ合わさっているの。ねぇ、分かる?
 雄吾!
 知らず知らずの内に身体までもが震えた。
 胸がぎゅうっと掴まれたみたいに、苦しくなって。
 苦しくて、苦しくて、どうしようもなかった。
 苦しさから抗いたい思いと、幸せだと感じる心が激しくぶつかり合う。
 幸せを実感したからだろうか?
 同時に、悲しくもなった。
 悲しくて、途方に暮れた。
 何度目かのキスで、合わせた口唇の温度のちがいにハッとした。
 温かさは自分の熱ばかり。
 雄吾の熱をどんどん奪い取っているんじゃないかと思うくらい。
 雄吾の冷たさに思わず怯えた。
 雄吾に触れた今、残りの時間も僅かだと知らされた気がした。
 忍び寄るものから、雄吾を救えたら……。
 思えば思うほど、自分は無力であると思い知らされる。
 幸せが長くは続かないことに気付いても、それでも触れずにいられない。
 初めてのキスは、いろいろな感情が複雑に交じり合って、言葉にはできない何かを私に残した。
 雄吾の口唇が動き、離れがたい気持ちでそっと離れた。
 雄吾は目を眇めるように私を見ると、ふわりと微笑んだ。
「しお……り、……あ…………」
 声にならない声を懸命に振り絞り、噛みしめるようにゆっくりと唇を動かす。
「……い……」
 唇の動きを辿った。
『愛してる』
 と、そう動くのを手繰り寄せるように見つめた。
 雄吾の美しい顔を、ただ見つめた。
 胸がいっぱいで、言葉にはならない。
 雄吾も私だけを見つめて。
 愛しいという気持ちを互いに確認し、愛を交わした瞬間だった。
 満足気な表情と、口の端っこを小さく上げて微笑んだ顔は、とても雄吾らしいと私は思った。


 雄吾は再び目を閉ざした。
 その時。
 瞼から、透明な雫がこぼれ落ちた。
 一粒、二粒と伝っていく。
 とめどなく流れるのを見つめた。
 ―――― 綺麗……。
 まるで時間が止まってしまったみたい……。
 その雫に吸い寄せられた。
 雄吾の涙の美しさに見入った。
 不意に握られていた左手の力が弱まった。
「雄吾?」
 握って欲しくて、雄吾の掌の中で、自分の手を小さく揺すった。
 でも、反応を見せてはくれなかった。
 力の抜けた手からは、重みだけが残されていた。
 眠ってしまったの?
 閉ざされた瞳を開けようと瞼に触れた。
 呼んだら目を覚ます?
「雄吾、……ねぇ、雄吾?」
 頬に手を這わせ、何度も呼びかけた。
 それでも開かれることはなかった。

「ここから下がって!」
 有無を言わさない厳しい声が響いた。
 それまであった静かな空気が一転、緊迫したものに変わった。
 匠が雄吾にすがりつく私を制止し、立ち上がらせると私の両肩をグッと押した。
 瞳には涙を滲ませ、悲痛にも見える表情の匠が映った。
 振り返る間もなく、ひとりの看護師が私の体を抱き寄せるようにしてベッドから離れさせた。
 白衣の人と看護師が慌しく雄吾に駆け寄ると、ベッドの周りのカーテンが引かれ、閉ざされた。
 目隠しされたカーテンの中では何がされているのだろう。 無機質な雑音が響いて、聞こえる。
 白い布を穴の開くほど見つめた。
 けれど、人が慌しく動く音と、雄吾を呼びかける声が何度も繰り返されているのが伝わってきた。
 騒然とした空気が、外までも漏れ聞こえた。
 私はその間中、看護師に背中を擦られ、手を握られている。
 ざわざわとした言い知れない恐怖がどんどん覆い被さってくる。
 自分が自分でなくなるように感じながら時を過ごした。
 もう立っていられないと思ったその時、カーテンがゆっくりと開かれた。
 カーテンの中は酷く静かで空気さえ止まってしまったみたいだった。
 先ほどと同じくベッドがあって、両脇には白衣の人と匠、そして看護師がふたり。
 皆、直立して雄吾の方を見ていた。
「栞」
 私を呼ぶ声がした。
 けれど、それは雄吾のものじゃなかった。
 もう一度、呼ばれた。
 それは抑えた静かな声で、私は呼び寄せられるように進んだ。
 ベッドには変わらない雄吾の姿があった。
 目は閉じられ、眠っているようだった。
 柔らかな優しい表情は、とても美しく、強ささえ感じられた。
 そっと手を伸ばして触れてみた。
 手だけでは足りなくて、唇も這わせた。
 髪の毛も、眉毛も、目も、頬も、鼻も、唇も。
 ああ。雄吾……。
 その身体を感じた。
 雄吾をもっともっと確かめたくて、何度も触れた。
 触れ合わせたふっくらした身体からは雄吾の匂いがした。
 安心させてくれる大好きな匂いだ。
 意識をして吸い込む。
 大好きな雄吾だ。
「雄吾、帰ろう、ねぇ」
 その感じるすべては雄吾のもので、身体全体を包んで抱き締めた。
 柔らかで温かで優しい雄吾、そのものだった。
 ただ、いつもとちがうことは、私を抱き締めてくれないことだけ。
 いつからか、私の右手は大きな手に包まれていた。
 その右手が痛いくらい強く握られていて、その先を見上げた。
 匠の心配そうな瞳があった。
 目が合わさった時、微かに頷いた気がして、私も頷き返した。
 同時に白衣の人から臨終を言い渡された。
 それまで規則正しく打っていたはずの機械の音は消え、ツーという細い音だけがひと際大きく響いた。

(2008/06/17)


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