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 第2章 7.     by 匠  

 その時。
 ううん、としゃがれた咳払いが上がった。
 水を差すような間合いと、わざと出したような不快な音に眉をひそめた。
 そこには、栞とさなえさんの間に割り込もうとする、ひとりの男がいた。
 無精ひげに白髪混じりの髪は伸びきっていて、清潔感からはほど遠い。おそらく数日は頭を洗っていないような脂の浮いた髪は毛束になって固まっている。
 同じく顔もギラついていて、顔の造作を語るまでもない。そんなおっさんがソファーから乗り出すように座っていた。
 その男はのけ者にされたと思ったのか、自分の存在をアピールするように、とってつけたような笑みを浮かべている。
 けして、笑ってなどいない鋭い目は、人をバカにしたような冷ややかさを持っていて、ひと目で心の距離を置きたいタイプの人間だと思ってしまう。
 そんな目を向けられた栞を思い、文句のひとつでも言ってやろうかと思った。
「私は、警部補の上田だ」
 そう名乗った上田という男は、尚も横柄な態度で栞を見遣る。
 敵視している目はあからさまだった。
 嫌な奴。
 できれば、一番栞と関わらせたくないと思うような人間だ。
 栞は警戒したような瞳で、僅かに体を後ろに引き、唇を噛みしめていた。
 ああ。なんてこと言うんだ!
 この場が凍りついてしまったじゃないか。
 まったく、なにしてくれんだよ! この上田って男はよ!
 せっかく、さなえさんのおかげでいい雰囲気になってきていたのに。なんだよ。 あーあ、うさぎみたいに怯えちゃって。
 小刻みに震える小さい手に、大丈夫だと重ねる。
「栞?」
 栞は俺の顔を見てから、反射的にぎゅっと俺の手を握りしめた。
 その目は何も見たくないと拒絶しているようだ。
 上田警部補の態度で、ほぐれてきていた緊張が、一気に増してしまっていた。
 敵意むき出しの人とこういう形で対面するのは、まだ無理だったか。
 思わず、ため息を吐きそうになった。
 だけど、俺の方が気持ちを落ち着けないと、と思い直し、今の状況を客観的に見つめることにした。

 ここは面談室。
 六畳ほどの部屋には、四人が対面して座れる応接セットが置いてある。
 四方に囲まれた壁には、一面だけ天井近くまである腰高の窓があり、日中の日の光が柔らかに差し込んできていた。
 窓は三十センチほど開いていて、春風が時おり薄いカーテンの端を揺らしている。
 こんなうららかな日に昼寝ができたら、最高だろう。
 で、窓側を背に、さなえさん。隣に上田警部補が座り。
 向かい側に、栞と俺が並んで座っている。
 上田警部補の鋭い目は、斜向かいに座った栞にだけ向いていて。
 栞はその視線を避けるようにして項垂れ、視線のさきは膝の上の俺と栞が繋いだ手を見ている。不安そうな横顔に、落ちた背中。
 黙って見ているのもここまでだと思った。
 今は単なる付添いだけど、栞は俺の患者に違いない。ここは口を開けて助けなくてはならない場面だろう。
 俺は栞の手に力を込めると、真ん前の上田警部補に向き直った。
「上田さん、でしたか? 栞が怖がっています。怯えさせるような態度は止めていただきたい」
 ちら、と視線を俺の方に移した上田警部補の顔は俺の言うことなんかちっとも聞いてないような顔をしてまったく動揺を見せない。改めるどころか、ぜんぜん引く気はないらしい。
「ふん。この場は私が立ち会わないといけなくってね」
 そのせせら笑いが、堪らない。
 そして、さも面倒くさいというように上田警部補は唸りながらのっそりと口を開けた。
「外がだいぶ煩く騒いでいてね。この病院もそうだろう? どうせ、君も迷惑しているんだろう? マスコミの連中ときたら、好き勝手なことを並べ立て、どこまでも追いかけて来やがる。このまま見張られたままじゃあ身動きも取れやしない」
 そうだろう? と、ニヤリと口端を上げる。
 いけ好かない奴、と思った。
 そして栞に向き直って続けた。
「お前さんもさ、このままでは、外に出るに出られないんだぞ。出たら出たで、知らない奴に付きまとわれるのは目に見えてんだ。そんなことは嫌だろ? え? ……そこで、今日は児童福祉士で身元引受人でもある橋本 さなえさんの紹介と、これから先、お前さんが生活していくにあたっての相談に来たって訳だ。私の言っていることは分かってもらえるかな?」
 威嚇するような言葉尻は、さっきと変わることはなく、いい感じがまったくしなかった。
 俺は真ん前の憎たらしい顔を思いっきり睨みつけてやった。
 気づいた上田警部補も、睨み返してくる。
 出方を伺うようなギラリとした目。
 だけど、俺の方はぜんぜん負ける気がしない。
 ピンと張り詰めた空気が、ぷつんと切れる瞬間を待った。
 そこへ。
 手がかざされた。
 不穏な空気を見かねたように、さなえさんは上田警部補を制止ししていた。
「上田さん。よろしかったら、わたしにその話を進めさせていただけませんか?」
 穏やかだが思いのほか強い口調で上田警部補を捕らえていた。
 俺のように睨みつけるようなことはしなかったが、軽く怒りの篭った目で上田警部補を見つめている。
 俺といっしょで、栞に対する態度を快く思わなかったのだろう。
 上田警部補は、ちっと小さく舌打ちして見せた。
 そして、
「別に。かまいませんけどね」
 と、面白くなさそうに腕を組み、お手並み拝見というように隣を一瞥した。
 さなえさんの方は、まったく上田警部補に怯むことなく、至って穏やかな態度で視線を栞に向けた。
 とにかくやわらかい言葉で、これからを提案するように、話し始めた。

 マスコミから逃れるために、名前を変えること。
 名前を変えるために、さなえさんの養子になること。
 『聖母マリアの家』で、暮らすこと。
 それから、今後、何かしたいことを見つけること。

 さなえさんの話はおおよそ、こうだった。
 栞はさなえさんの言うことを静かに聞き、ゆっくりと口を開いた。
「名前は、とくに、変えたくは、ありません。父と母の子供であることを否定したくはありません。それから、私は匠と暮らしたい。それと、これから、勉強をたくさんしたい。学校に行ってみたいし、翻訳の仕事も続けたい」
 初めはぽつぽつと言いにくそうに。だが、話す内にスピードは増し、次々に繰り出された。
 その言葉には栞の意思がはっきり表れていた。
 強い、と思った。
 栞は思っているよりもずっと大人だ。
 見た目、儚げで。それでいて、見惚れるほどに美しい容姿。
 そのために誤魔化されそうになるが、しっかりとした言葉を持ち、自分自身をきっちりと表現できる強い人間だと改めて思い知らされる。
 ほー、と。
 さなえさんの方からため息が零れた。
 驚いたのだろう。栞のあまりにきっぱりした言葉に。
 俺も、ここまで意思表示をするとは思わなかった。
 ただ、やはり違和感はある。
 極端に閉鎖された場所で生活してきたせいだろう。限られた人間とだけ接してきた、特有のものを感じる。
 人に対する態度にしても、ふつうとはちがうと感じるのだ。
 人対人って感じで、ぶつかり合おうとする冷たい印象というか、入り込ませない頑な態度、というか。
 その違和感の正体は、おそらく人との関係を理解できていないというところから来ているのだろう。
 人を敬う気持ち。目上の人に対して穏やかで優しい気持ちを表現することを知らないのかもしれない。
 要するに、敬語が使えないということだ。
 違和感を感じさせないようにするためにはやはり、言葉とコミュニケーションの勉強をした方がいい。たくさんの人と係わり合いを持ち、たくさん話すことだ。
 その中で、変わっていくだろう。
  だけど、俺と暮らしたいって――。

(2008/10/07)


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