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 第三章 1.     by 栞

 雄吾が死んでから、四週間が経ってしまった。
それを早いというのか、恐ろしく時間が流れないというのか、曖昧な感覚の中に、私は漂っている。
 身体だけは生き、心をなくしてしまった状態というのだろうか、ただ人に生かされていると感じながら生きているんだ。
 けれど、私はこれでほんとうに生きているっていうんだろうか。
 私が今、生きようが死のうが、どうだっていい。……そう思っている。
 だから、生きるより死んでしまった方がいいのでは? と、思わずにはいられない。
 いっそ、雄吾が死んでしまった時に、いっしょに逝ければよかった、とさえ思う。
 それを匠に言ったら、ひどく悲しそうに見て、そのことには触れず、私の頭を撫でてから、もう休むように、とだけ言って私をベッドに寝かせた。
 言ってはいけない言葉だったのだろう。
 でも、その言葉を口にしても自分の言葉でないような感覚で使っているようにも思えて、どうしようもないんだ。
 ただ、まったく生きている心地がしない。
 雄吾の後を追いたい。死なせてほしい。
 私の心は、しきりにそう言うのだ。雄吾のいない世界には、私の身の置き所がないって。
 バラバラに散ってしまった、感情。
 それらが、私の制御できないところで勝手に動き回る。
 悲しい。苦しい。楽しい。面白い。うれしい。
 その感情すべてが正常でなく、自分は壊れてしまったんじゃないかって思えるんだ。
 ご飯が運ばれてきて、さぁ、食べようと口を開けると、涙の穴から水分が流れ落ちてくる。
 トイレに行く時も、歯をみがく時も、勉強の時も、だ。
 それが、何かを始める時に起きる現象だ、と初めのうちは思っていたけれど、そうじゃなかった。
 感情そのものが、すべて泣くことに直結していることに、最近気づいた。
 翻訳しているアメリカの童話を読んでいる時も、楽しくて面白い場面なのに、泣いてしまうのだ。
 けして、悲しいとか、苦しいとか、感じていないのに。
 だから、そういう水分は涙とは言わないのだろう。
 けれど、その水分は止まることを知らないらしい。
 止まらないと、なんだか自分は本当に悲しくって泣いているって気分にさせられてしまう。
 それが呼び水となって、本当の悲しみの涙になり、雄吾を想って泣くんだ。
 待っても帰って来ない、雄吾を思い出して泣くんだ。
 おかしいでしょ? 私。
 泣き過ぎて、溶けて死んでしまえばいいのに、と願い、また泣く。
 やっていることは、悪循環と言えるのに、やめられない。
 あんまり長い間泣いていると、看護師のまるちゃんが飛んできて、私の頭を優しく撫ぜて、慰めてくれる。
「今、杜原先生は、入院患者さんの診察をされているから、あたしで我慢してね」
 なんて、ウインクする。
 日中の匠は、多忙で私の相手をしていられない。病院の外来診察のほかに、大学の授業も受け持っているから。
 いつの間にか、日中はまるちゃんで、夜は匠が私の担当になっていた。
 それほど、私は泣いているんだ。
 まるちゃんは、看護師の仕事が休みの時も私服姿でやってくる。
「こんにちは! あらぁ、まるちゃんがいなくて、悲しかったのかなぁ?」
 おどけ顔を傾げてみせる。
 まんまるの顔をくしゃっとさせて笑顔を向け、いつものように私の頭を撫でるんだ。
 泣きやまない私を、優しく包み込んで抱きしめてくれる。
 時には、背中を擦ってくれたり、それでも駄目なら、歌いながら背中をとんとんしてくれたり。
 落ち着くまで根気よくそばにいてくれる。
 泣き疲れ、そのまま眠ってしまうまで。

 そして。
 眠った後、終わらなければいい、と願う夢を見るんだ。
 雄吾との優しく甘い濃密な時間を、夢の中で私は過ごす。
 夢心地で、何度も繰り返す。
 雄吾と過ごす何気ない毎日が、毎回少しずつ替わって夢に出てくる。
 それが、私の唯一の楽しみ。
 その夢の中で、私は何度だって乞うんだ。
『ねぇ、死ぬ時はいっしょに死のうね。絶対だよ。私を置いて逝かないでね』
 夢の中の私は、雄吾の死を知っているから、それはそれは悲壮なまでに必死にお願いしている。
 それにちっとも真剣に取り合おうとしない雄吾は、毎回笑って誤魔化す。
 それが、すっごくもどかしい。
 私は雄吾が約束してくれる、と言うまで、がんばるのだ。
 根負けするまで。
『わかったわかった、いっしょに死のう。約束だ』
 そう指切りするのを見届けるまで。
 それなのに朝、起きると、それは叶わなかった、と思い知らされる。
 苦しくて、悲しくて、どうしようもない気分になって、また同じことを繰り返しちゃった、と笑いが込み上げてくる。
 自分を嘲笑うつもりが、涙の洪水となって、私を苦しめるのだ。
 ああ、またいっしょに死ねなかった。
 雄吾は逝ってしまったのに、自分はまだ、生きている、と。
 隣には匠がいて、私の手を握って眠っている。
 匠が私を引き止めるから、逝けなかったんだ、と心の中で罵倒する。
 そばにいてくれる匠を憎みながら、ひどく欲しているのだ。
 矛盾している。
 私はこの世界ではひとりではいられなくて、どんな時も、匠を欲しているのに。
 この世界にいるしかないのなら、ずっと匠のそばにいたいのに。
 少しずつ、匠に侵食されるのを拒みたくても、喜んで受け入れる自分が愚かだと思っても、匠を手放すことはできない。

(2008/11/05)


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