午前中の診療が終わった時間。
西口で待っていて、と匠に言われて、まるちゃんと私は病院の出口へ向かって歩いていた。
部屋を出てすぐのナースセンターの前を通り、これからエレベーターで一階に下りる。
ゆっくりと歩く。まるちゃんもゆっくり、私に合わせて足を運んでくれている。
この息が詰まりそうになる感覚と、喉の奥から胸にかけて感じる重たさに、足が思うように動かない。
臭い。臭いのせい。消毒液の臭いが嫌い。
できるだけ空気を浅く吸う。
この病院の臭いに慣れることはないのだろうか。
そのせいかこれから、雄吾のところに行くというのに。気分が上向かない。
今朝まで楽しみにしていたのに。
外に出るために着替えた頃から、気持ちが付いていかなくなった。
お天気の良い日は、病院の屋上に出て日光浴もするようになった。それなのに、まだ外では楽しい気持ちにはなれない。
慣れない。
部屋にいる方のがずっといい。
匠もまるちゃんも、練習、練習、と言って部屋から連れ出そうとするけど、なにかに急き立てられるようで不安になる。
外の何が嫌なんだろう? どうして出たくないんだろう?
自分のことなのに、よく分からない。
行き交う人はまばらで、誰も私を気にすることなくすれ違う。
「この時間は嘘みたいに静かでしょ」
まるちゃんは私の顔を覗き込むように見ると、ふふふっと笑った。
私は言葉にできず小さく頷いて、また一歩踏み出した。
緊張するということも、いままで経験することがなかったもののひとつだ。
嫌だ。なんとなく、嫌。
静かだと言っても、時々は人に会う。入院患者とお見舞いに来ているらしい人たち。
エレベーター前で、病院着のおばあさんと黒っぽい眼鏡をかけた背の高い男の人がいた。ふたりはなにか話しているみたい。声までは分からないけど。とてもやさしい雰囲気。
今は面会時間中。
私は外から出入りしている人を避けるため、ほとんど部屋から出ていない。だから同じ階に入院している人のことを知らない。知っているのは人の名前。それもネームプレートで知っているだけ。面会時間が終わった夜、部屋からそっと出て自販機で牛乳を買ったりする。そんな時に暇にまかせて各病室のドア横にあるネームプレートを見ながら歩く。
あ、おばあさんがこっちを見た。
優しい笑顔。
「松本さん。お孫さん? カッコイイ! どこかのモデルに間違えそう!」
喜々として、横にいるまるちゃんはおばあさんの前で足を止めた。私も一歩後ろで立ち止まる。
松本さん。
知ってる。私の隣の部屋の人だ。
ことり、とも音がしないから、どんな人がいるのかと思っていた。
おばあさんの向こう側にいる男の人はうっとうしそうな前髪の奥から睨むようにして、まるちゃんから顔を背けた。
なにが気に入らないのか。これも私には分からない。
おばあさんはまるちゃんと男の人を交互に見て、笑みを貼り付けたまま肩を竦ませた。
この子ったら、しょうがないわね。そんな笑顔だった。
おばあさんはそのあと私に気づき、
「退院ですか?」
私の服を見ながら言った。
緊張する。言葉が出てこない。
初めて見る人だと思うと、なんて返事をしていいのか分からない。
首を横に振るだけでいっぱいだ。それすらもうまく出来ていないかもしれない。
エレベーターから音がした後、
「ばあちゃん。もう、行くから」
そっけない低い声で、そのままこちらを見ることもなく、来たエレベーターに乗って行ってしまった。
「ごめんなさいね。まるちゃん、さっきの当たりよ。孫はモデルをしてるの。眼鏡で変装してるつもりなのにピタリと当てられちゃったもんだから、気まずくなったのよ。まったく、挨拶もしないで、ごめんなさいね。ほんと、あんな態度とって、いや〜ねぇ……」
「ええ? ほんとに? わたしったら余計なこと言っちゃって。ごめんなさ〜い」
まるちゃんは真っ赤な顔で。やっぱり? なんかカッコイイって思っちゃったのよね、と呟いている。
「栞ちゃん、よね。お隣の部屋に入院されている。……栞ちゃん?」
松本さんは私を知っていた。
「……はい」
松本さんに覗き込まれたみたいで、俯いたままで返事をした。
「今日はお天気がいいから、外は気持ちがいいわよ。きっと」
きっと、というところが強調されていて、思わず視線を辿り瞳に吸い寄せられた。
あ。目尻のしわ。笑いじわ? その微笑みがきれいで見つめ返してしまった。
「可愛い人ね。さぁ、手を出して!」
手?
ほら、と下ろしていた手を取られ、松本さんは青い小箱を私の手のひらに乗せた。
「あげる。こういうのは若い人の方がよく知ってるから、ね。私の孫はタケルっていうの。ときどき来る時にこうしておやつを持ってくるのよ。おすそ分け。中はチョコレートよ」
「あ。それ、高級チョコですよね? 一粒、千円くらいする」
一粒、千円?
横にいるまるちゃんを見ると、また余計なことを言っちゃった、と口に手を当ててうな垂れている。
松本さんはぷっと吹き出しそうな顔をして堪えている。
私はその様子が面白くて笑ってしまった。
笑いが激しすぎたのか、止まらない。
止まらないよぉ。
涙目になりながら見ると、まるちゃんと松本さんが目を丸くして私を見ていた。
あ。と、思っているうちに、まるちゃんに抱きしめられていた。
「カワイイ。栞ちゃん。笑顔もできるじゃん!」
できる……じゃん?
まるちゃんは、ときどき言葉がおかしい。
「さっきまで浮かない顔をしてたから心配だったけど、もうだいじょうぶね。それに、杜原先生がいっしょだから」
だいじょうぶ。だいじょうぶ。
まるちゃんのすこし高めの明るい声が耳に心地よく響いた。
外は快晴。
窓から見える青空よりも広く高く感じられる。
この病院に来て、地上の景色を見るのは二度目だ。
前は夜中だった。漆黒の闇が無限に広がって見えた黒い空も、今はべつの世界に見える。
雲がほとんどない真っ青な空に、太陽が降り注ぎ、光があちらこちらに反射している。
目の前にはタクシーとバス乗り場の看板があり、道路が二本ある。そのすぐ向こう側に緑の芝生に眩いほどの光が落ち、緑色が微妙に濃くなったり薄くなったりと色が変わって、空気が揺れて見えた。
「きれい。緑がきらきらしてて」
口からこぼれ出た。
「そうね。ほんときれい。見慣れてよく知ってるはずなのに、ね。なかなかそれに気づけない……」
横にいるまるちゃんを見ると、ちょっとさみしそうな顔をしていた。
すこしだけ風が私を撫ぜつけて吹き、髪の毛が頬にかかった。
くすぐったい。
こんなことも、私には新鮮に映る。
「帽子、かぶってよっか。まぶしいでしょ?」
まるちゃんが帽子を差し出した。
帽子に手間取っていると、こっちを向いて、と言われて、まるちゃんは私の髪の毛を後ろに梳かして、身体全体を確認するように角度を変えて見て頷いた。
「栞ちゃん、帽子も似合う〜」
まるちゃんは、いつも褒める。
これも、くすぐったい。
ときどき、まるちゃんはこんな風に私を見て褒めてくれる。
「わたしの服なのに、栞ちゃんが着ると雰囲気がまるっきり変わるから、不思議……栞ちゃんは背も高くってスタイルがいいからなんでも似合うよね。この格好を見た杜原先生の顔が楽しみだわ」
まるちゃんは悪戯を仕掛けたみたいな顔をした。
楽しみ?
「え?」
「ふふふっ、栞ちゃんが可愛すぎて杜原くんの照れる顔が浮ぶわ。今日は杜原先生とデートだもんね」
茶化すようなまんまるい瞳が私を見上げている。まるちゃんは、ときどき私をひやかす。
「デート……」
デートって?
喉まで出た問いを引っ込める。
なんとなく、聞いてはいけない気がして。
「栞ちゃんったら可愛い。真っ赤になっちゃって。ふふふふふふっ……」
もうっ。やだ、くすぐったい。
私は緑の芝生をじっと見つめた。
ギーッコ、ギーッコ、ギーッコ――
聞いたことのない音に耳を澄まし見ると、自転車が来るのが見えた。
ハンドルから片手を離し、手を振っている。
あれ。匠が乗っている?
だんだんぼやけたシルエットから、顔がはっきりしてきた。
「杜原先生、大学の方に用事があるって言ってたから。まだ自転車なんだね」
まるちゃんは、手を振り返しながらそう言った。
近づいてくるとスピードを落とし、ごめん、と手で合図しているのが分かった。
「悪い! 教授に捕まって時間くったんだ。すぐに車取って来るからもうちょっと待ってて!」
匠は止まらずに、スピードを上げて私たちの前を通り過ぎて行った。
走る自転車も初めて。
乗ってみたい。いつか。
「ここの敷地の中には病院と大学がいっしょに建っているの。杜原先生は、大学の心理学の講師もしてるから一日に病院と大学を行ったり来たりしてるの。ここってけっこう広いのよ。だから移動は自転車が便利なんだって」
匠は忙しい。すごく。
今日だって忙しいのに、私に付き添って雄吾のお墓参りに連れてってくれる。
「……がんばらないと」
『聖母マリアの家』にも行って、さなえさんにお父さんとお母さんの話を聞きたい。
泣いてばかりじゃいけないから。
手の中にある青い小箱を開けた。さっき松本さんからもらったチョコレート。
薄紙を開けると、四粒、チョコが鎮座していた。
甘そうだな。……ひと粒、目をつぶって口の中に放り込んだ。
やっぱり、あっまっ。甘すぎっ、これ。
「これ。まるちゃん、あげる」
「ええええっ。いいの? 高いのよ。とっても貴重なものなのに? いいの?」
「うん。ひと粒で十分。きっと味の分かる人に食べてほしいってチョコも思ってるよ」
「栞ちゃんったら、ほんっとに可愛い! 大好きよぉ〜」
また、まるちゃんに抱きしめられた。
(2009/08/13)