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 第三章 4.      by 栞

「その服、似合ってる」
 わずかに視線をずらして私にそう言った。匠の顔は赤い。
 それは匠が車を病院玄関に回して、私を助手席に座せてから最初に言った言葉で、車の外にいるまるちゃんには聞こえないほどの小さな声だった。
 笑みを噛み殺そうとして失敗したような顔が、居心地悪そうにあるのを私は見つめた。
「ありがとう」
 褒めてくれて。
 匠はときどきこんな顔で私を褒める。雄吾やまるちゃんの手放しで褒めるのとはちがうやり方で。
 いつだったか、まるちゃんに、
『杜原先生は照れているのよ。まだまだ恥ずかしい年頃なのよね?』
 そう言われて匠は怒ったような困ったような顔をして、まるちゃんを睨みつけていた。
 耳の辺りが赤いのは、あの時といっしょ。照れているから?
 褒められると、やっぱりうれしい。
 同じことを褒められても、匠に言われるとうれしい気持ちのほかに、背中がうずうずするような恥ずかしい感覚があがってくる。
 喜怒哀楽。
 言葉にすると簡単な感情の表現は、じつはさらに細かくてたくさんあることも気付けた。
 雄吾といる時には見られなかった表情を見つけるたびに私は戸惑い、人が作る感情の起伏を読み取ることは簡単でない、と思い知らされる。
 それだけ複雑にできているのかもしれない。
 果たして私はその感情をどのくらい表現できているんだろう。

 出発の時。
 まるちゃんの顔が近づき、私のいる窓をノックした。
 窓ガラスがするすると下りていく。
「杜原くん、シートベルト。栞ちゃんにしてあげなきゃ!」
「あ、やべっ」
 忘れてた、と。シートベルトをしてみせ、こうするんだ、と教えてくれた。
 身体の温度が急上昇するのを感じる。
「じゃ、行ってくるわ」
「はいはい。行ってらっしゃい。運転、気をつけてよぉ〜」
 栞ちゃんも、しっかりね、と。まるちゃんは言った。
 そのあと、窓は閉じていった。
 ガラス越しのまるちゃんは、頬に手を当て、意味深な顔をしている。
 私の顔が赤いって?
 手のひらを自分の頬に当ててみる。
 指摘されると、さらに温度が増してくる。
 熱い。
 泣きたくなってきた。
 窓のノックに顔を上げる。
 まるちゃんは、いつも見せてくれるまあるい笑顔で手を振っていた。
 送られるのは初めて。
 エンジンの唸りと身体が後ろに持っていかれるような感覚とともに、車が走り出した。
 手を振る、まるちゃんが小さくなっていく。
 まるちゃんが見えなくなってもずっと感じている、このじりじりと落ちつかない気持ち。
 さみしさや緊張からじゃない。ちがう気持ち。
 きっと、まるちゃんのせい。
 まるちゃんがあんなことを言うから。
『栞ちゃんが可愛すぎて杜原くんの照れる顔が浮ぶわ。今日は杜原先生とデートだもんね』
 あれからずっと、私の中は匠でいっぱいになっている。
 思い出す。茶化すようなまんまるの瞳を。
 まるちゃんが、匠のことを言い当てたから。
 だからこんなにも意識しちゃうんだ。
 ついさっきシートベルトを着けてくれた匠を、いつも以上に近く感じて、鼓動が加速した。
 匠の顔が近くまで迫って、吐息がかすかにかかった。
 それだけで私の身体は強張り、息を詰めてしまっていた。
 恥ずかしくて、逃げ出したい気持ちになった。
 見られていると思うと、身体がとても熱くなって、のぼせたようになる。
 気持ちをもてあますとは、こういうことなんだ。
 まるちゃんに教えてもらったおまじないをこっそりとやってみる。
『い〜い。吸って、吐いて〜、吸って、吐いて〜。ゆっくりと繰り返してごらん』
 深呼吸。深呼吸。

 いつもの自分を取り戻しつつある時。
 車が止まった。
 病院のゲートの手前。バーが上がっていくのを見つめた。
「車、どう? 怖くない?」
 匠はハンドルを握ったまま、私の方を見た。
 どきどきしてくる。匠の真っ直ぐな視線は私をおかしくする。
 ようやく落ちついたのに、これだもの。
「だいじょうぶ。怖くは、ない」
 動揺は隠せない。
「そうか。ま、わからないことは、なんでも聞いて」
 火照った頬の意味を悟られなければいい、と思いながら頷いた。
 匠はなにかを読み取ろうと私の顔を見ていたが、それ以上は訊いてこなかった。
 撫で下ろすとともに余計な感情の高ぶりに蓋をしたくて、わざと窓の外に視線を当てた。
 景色が、ゆっくりと動いていく。
 病院から眺める景色の中に自分がいると思うと、不思議な気分になる。
 反対側からの景色もあるんだ。
 自分がいつもいる病院の建物は、ずいぶんと大きい。
 ゆっくり見る間もなく、遠ざかっていく。
 なにもかもが目新しい。
 横長だった景色がだんだん変わっていく。
 街路樹の切れ間に背の高いビルが立ち並ぶ中、車はスピードを上げて走っていく。
 景色が、目まぐるしく動いて変わっていく。
 平坦に見える道も左右に曲がりくねり、ところどころ段差がある。
 身体が揺れる。
 私、体感しているんだ。
 これが――。
 雄吾の言っていた外の世界。
 想像していた外の世界が私の中で繋がり、立体的に形をつくっていく。
『百聞は一見に如かず』
 薄っぺらな知識だったことに気付かされる。
 心地よい揺れに身を任せ、車のエンジン音を耳に入れながら、景色を楽しんだ。

「はまった、な」
 ぼそり、と小さく聞こえた。
 はまった?
 はまるって、のめり込む、型にはまる、騙されるっていう意味だよね。
 前を向いて運転している匠を見ながら、しばらく考えた。
 でも、わからない。
 そのあと、匠は何も言わないので、黙って聞き流すことにした。
 そうだよね。
 なんでも聞いて、と言われてもどこまで訊いていいものか? 躊躇う。
 ……でも、やっぱり気になっている。
 はまったって、何に?
 私に関係あること?
「はまったって? ……私に?」
「え? ……ああ。はまったってのは、……いきなり、捕まるなんてなって思って」
 運転に集中しているのか、そっけない言葉。
 嫌そうな表情が横から見ても分かった。
 その顔、聞き返しにくいよ。
 はまった、のほかに、捕まるって言ったよね?
 捕まるって、取り押さえられて逃げられなくなるっていう意味だよね。
 ますますわからなくなる。
 今ある言葉を、くっ付けてみる。
「……私に、はまって、捕まるのが嫌ってこと?」
 恐る恐る問う。
 私のことを鬱陶しいと思っている。もしくは、私のことが嫌い。
 そういうこと?
 前を見ていた匠がこっちを見た。
 訝しげで驚いた表情は私に説明を求めているように見える。
 おもいきって、聞いてみようか。
「私に、はまったのが気に入らないっていうこと?」
 匠は一瞬、目を大きく開いた後、喉になにかを詰まらせた時のように、ごほっごほごほっ、と咳き込んだ。
 なに?
「――はまったって、車が渋滞にはまったって意味で、俺は言ったんだけど? どこをどう取ったらそんな風に思うんだよ。……って、分からないよな。……っていうか、いいか? ――よーく聞けよ! ……俺は栞にはまってる。逆に捕まって縛られたいって思ってる。わかったか!」
 ああ! もう、俺に何を言わせんだって。やめろよ。恥ずいって。
 最後の言葉はよくわからなかった。
 匠はハンドルをバンバン叩きつけ、うつ伏せて激しく身悶えている。
 顔が赤い。言葉もおかしい。
 プップップー!
 大きな警告音に、ハッと顔を上げた匠は小さなミラーを気まずそうに見てから、耳まで赤く染まった顔を背けるようにして私を見た。
 横目がちょっとだけ怒っている。
 プップッププップーー!
 匠は大きく息を吐くと、ハンドルを握り直した。
 車が動き出す。
『俺は栞にはまってる』
 たしかにそう言った。
 ああ、私ったら、なんて大胆なことを聞いちゃったんだろ?
 恥ずかしい。
「……ごめんなさい」
 匠にそんな顔をさせるつもりはなかった。
 私は罰が悪くなって、自分のひどい思い違いを胸の中で責めた。
 でもね、うれしかったんだよ。私は。
 思い違いでも、匠の気持ちを聞けて。
「いいさ、分かれば」
 うん。
 そっか。
 車のことか。
 車が渋滞にはまったっていうことか。
 そう言われれば、病院を出た時とちがって車はのろのろとしか動いていない。
 車って、こんなにも走っているんだ。
 色も形も大きさも、さまざま。
 ああ。車だけじゃない。人も。
 歩道には、おかあさんらしい人と手をつなぐ子供。
 反対側にも並んで歩く、男の人と女の人。ふたりは恋人かな?
 その前は三人の女の子たち。なにを話しているのか、笑っている。
 人も驚くほどたくさんいて、誰ひとりとして同じ人はいない。
『栞も外に出てみるといい。外は広いぞ。美しいも汚いも、良いも悪いもたくさんあるからね。いろんなものを見たらいい』
 そうだね。
 外は広い。
 雄吾の言っていたことを、少しでも分かりたいと思う。
 雄吾のいた外の世界を私の目で見てみたい。

 私の世界が色彩を帯び、動き出す。
 止まってはいられない。
 知らずにはいられない。
 見て、触れて、感じたい。
 私は外で生きていくんだ。
 もう止まりたいとは思わない。
 知らなかったことを、知りたい、と強く願う。
 行く先の信号が赤に変わった。
「田崎さんのところ、ここからわりとすぐだから」
 硬い声は用意していたような言葉で、私を気遣う声色だった。
 田崎 雄吾。
 雄吾を想うと涙が出ない時がないくらい、私は弱い。
 だから、匠は警戒しているんだ。
 心配そうな視線と絡んだ。
 大丈夫。
 涙は出ない。
 ようやく会える。
「早く、会いたい」
 その逸る気持ちが、私を強くし、後押しする。

(2009/09/01)


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