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 第三章 5.    by 栞

 どこを歩いているんだろう?
 分からないまま、高い木々を横に見ながら坂道を上っていた。
 砂利の小気味よい音が響く。
 どこまで歩くんだろう?
 目的地の見えない不安を胸に、ときおり匠を伺い見た。
「見えてきた。墓地の入り口だ」
 私の方を振り返って言う匠の肩越しに、木々以外の景色が飛び込んできた。
 うっそうと茂る緑の中には、階段状に作られたお墓が広がっていた。
 突然開かれた景色の変化に驚き、立ち止まって全体を眺める。
 整然と並ぶお墓に圧倒され、ざわりとした感触が背中を撫でる。
「この場所、木に囲まれてるだろ。入り口が見えてくるまでお墓があるってわからないんだよな」
 息を吸いながら見上げると、雲ひとつない空があった。
 私はそこに安心感を見いだし、ゆっくりと息を吐き出した。
 病院からも見えるおんなじ空が続いているんだ、と。
 また歩く。
 墓地の入り口に足を運ぶと砂利道は途切れ、茶色い地面に変わっていた。
 アスファルトでもコンクリートでもない柔らかな歩き心地に足踏みし、茶色の土の感触を確かめた。
 あ。
 何かがいる。
 足元に動くものを見つけ、土の上に目を凝らした。
「待って。この黒いのは? 虫?」
 繋いでいる右手を引っぱって、歩みを止める。
 私の視線を追うように振り向いた匠に、これ、と指差した。
「ああ。アリ。コイツは大きいな。ふつうのは、もうちょっと小さい」
「……アリ」
 歩きながら注意して見ると、あっちにもこっちにもアリはいた。
 アリはこちらの存在を認めていないように、動いている。
 踏んでしまいそうなほど小さな存在に、下を見ながら歩く。
 匠は気にも留めない様子で無造作に足を運び、私の手を引っぱる。
 匠の興味はアリにはないんだ。
 だって、ぜんぜんちがう話をするんだもの。
 そろそろ夏が来るな。今年も暑いだろうな。高卒認定の勉強をしよう、とか。
 なんてことない話をしてくる。
 もっとも、私はアリが気になって、相槌を打つだけだったけど。
 ゆっくりとした歩調で、坂を上っていく。
 こんなに歩いたのは初めてで、息があがってくる。身体は酸素を求めている。
 額に汗がにじむ。身体も熱い。
 なのに一点だけは冷たかった。匠と繋いだ手はひんやりしていた。
 緑に囲まれている空間の中にすっぽり入ったお墓は、外からの侵入を拒んでいるようで、木々に遮られ日の光が届かないここは、ひんやりとした重い空気が漂う。
「匠の手、冷たいね」
 匠は繋いだ手をちらっと見て、なにかを言おうとした。でも、べつに答えがほしいわけじゃない。私は首を振って制し、指先に力を込めて匠の手を握りしめた。
「静かだね。ここは」
  言って、視線を絡める。匠はゆるく息を吐きながら笑った。
「ああ。都会の中にあるとは思えないよな」
 握り返された手に、私は顔を緩めた。


 人は死ぬ。
 予測もできなければ一分の猶予も与えられない。
 楽しい思い出も、悲しい出来事も、辛い過去も、幸せの記憶も。
 死んでしまえば、そこで途切れてしまう。
 終わりだ。
 そのすべてが跡形もなくなってしまうのだ。
 ここは、その欠片までもが眠る場所。
 残された人は、それらをしまい込むように土に埋め、沈黙を見守る。
 だから静かなんだ。
 寂しい。
 冷たさを感じて、どうしようもない。


 お墓の入り口からしばらく歩くと水汲み場があった。
 匠はふたのない薬缶を蛇口にあてがい、水道をひねる。
 古びた取っ手を忙しく回すのに、水量は頼りなく細い。
「出ないね」
「ああ。水圧が低いんだろ」
 少しずつしか出ない水に、匠はため息を吐いて私を見た。
 やれやれだね。視線で返す。
 水が溜まるまで、しばらくかかりそうだ。

 あ。
 人がいる。
 そんな気配はなかったのに、ほど近い朽ちかけた木の椅子に人が座っていた。
 黒髪がひとつも混じっていない白髪頭のおじいさんがひとり。膝には花束がのっていた。
 ひとりなのに口が動いている。誰に話す風でもなく。
 その姿はとても痛くて、見てはいけない、と直感した。
 見ない振りをすることがいいことか、悪いことか、私にはわからない。
 ただおじいさんを見てはいられなかった。
 すぐさま俯き、薬缶の中に入っていく水に意識を移す。注がれる水の音に耳を澄ました。
 けれど、聞こえてしまった。

「ばあさんが好きだった」

 やけにはっきりと聞こえて驚いた。
 耳を塞いだわけでもないのだから、当然だけど。
 ああ。

 亡くなったおばあさんのことが好きなんだ。

 顔を上げて見ると、おじいさんは花びらを触っていた。
 膝の上の白い花。
 ああ、花のことか。冷えた頭で思った。

 おばあさんは白い花が好きだった。

 そうか。そういうことか。
 花を見つめるおじいさんの視線。
 愛おしそうに撫でる手。
 見ているだけで、苦しかった。
 喉の奥から熱さが込み上げてくる。
 それとともに、ちがうんだって気づいた。
 言葉は短くとも単純ではない。響きはもっと奥が深かった。

 おじいさんは、白い花が好きだったおばあさんのことを、今でも想っているのだ。

 今はいない人を、好きでいる。
 おじいさんの気持ちが私に伝わって、とても痛かった。
 心が寄り添うような、おんなじ痛みを知っているような、そんな気がして、見ない振りどころか、おじいさんから目が離せなかった。
「おおっ、と」
 匠の声に引き戻された。
 薬缶には水がいっぱいになって、溢れ出ていた。
 匠を見ると気まずそうに口元を上げて、おじいさんを一瞥した。
 見ていたんだ。匠も。
 すれすれまで入った薬缶の水はちゃぷちゃぷと音を立てている。
 たった今まであった溢れそうな気持ちが、すーっと引いていくのを感じた。
 薬缶の水に先を越された。
 おかしな言い方かもしれないけど、薬缶が私の分も泣いてくれたって思った。
 匠はおじいさんのことには一言も触れず、行こうか、と言った。
 繋ぎ直された匠の手は、とても力強く、熱かった。


 歩きながら、左手に持つ花が見えるように抱え直した。
 ここに来る前に寄った花屋で、お墓の花を選んでもらった。
 夏菊の白、黄色と朱色の小花、三色の花束。
 この花を雄吾は気に入るだろうか。
 雄吾の好きな花を、私は知らない。
 もう訊くこともできない。
 一歩、一歩階段を上り、上まで来ると右に折れた。
 手は私を迷いなく引っぱる。
 ふいに止まった匠を見上げた。
 視線の先を辿ると、大きなお墓があった。
 ほかのお墓よりも少しだけ小高い場所。墓石も見上げるほど大きい。
「ここに田崎さんが眠っている」
 匠は墓石に水をかけると、くぼみに水を注ぎ始めた。
 眠っている。
 そう言ったけど、私は知っている。
 もうすでに雄吾の身体はなくなって、骨だけになっていることを。
 知っても不思議と悲しみは湧かなかった。
 匠は深緑色をした細長い棒の束に火を点け手をかざして消すと、棒の先から煙が立ち上った。
 ゆっくりと上る煙の向こうに、種類も色もちがう花がたくさん手向けられていた。
「花がいっぱいだな。これでもかってくらいだな」
 匠の言うとおり、花筒にはこれ以上入らないくらい、ぎっしりと活けられていた。
 そのほかの花は左右の石の上に直接置かれている。
 新しい花とわかる物も、少し元気のない花も色とりどりに。
「賑やかだな。……そうだな、ここの間に花を手向けようか」
 頷いて、匠の指差すところに花を置いた。
 賑やか、という言葉に眉を寄せた。
 嫌。そぐわないから。
 花のことだって分かっている。
 匠の言葉の裏側で、雄吾は寂しくない。そう言いたいんだって。
 私の気持ちを知らないで、と。つい、口から出そうになった。
 合掌する匠の姿がなかったら、止まらなかったかもしれない。
 膝を折った匠は俯いて合掌し続ける。
 しばらくして立ち上がると、私のかぶっていた帽子を取って背中を押した。
 私も腰を落として手を合わせる。
 ここに雄吾がいるんだね。
 雄吾、聞いて。
 私、今日初めて自分の足で外に出たの。
 ここに来るまで、いろいろと気づいたんだよ。
 知らないことがいっぱいだ、って。
 雄吾の言ったことを考えてみたの。
 それでね、私、分かったんだ。
 雄吾に甘えてた。
 優しさにずっと浸っていた、って。
 ようやく気付いたの。それはいけないことだった、って。
 甘えちゃ、いけなかったんだ、って。
 私は雄吾の手を離すのが怖くて、長い間、雄吾を縛ってきた。
 駄目だったのは、私。
 雄吾の言うことを聞けばよかった。
 後悔してる。
 ごめんなさい。
 私はとても大切な人を失ってしまったんだ。
 お墓を見つめながら、覚束ない足で立ち上がった。
「匠、私は……ね、可哀想な子なんかじゃない。私は監禁なんかされてない。雄吾は私を何度も何度も外に連れ出そうとした。外の世界にいつ出てもいいように、勉強も仕事も、困らないようにして」
「……」
「警察は雄吾を悪者にしたでしょ? 私、知ってる。雄吾の悪口ばかり書かれた本を読んだもの。どうしてすべてを分かったように、まるで見ていたかのように書いてあるの? 雄吾はぜんぜん悪くないんだよ。悪いのは私。ぜんぶ私のせいなの。私がそうさせたの。私のわがままで外に出なかっただけなの」
 言葉の途中で、後ろから抱きしめられていた。
「言わなくてもいい。もうなにも言うな! もういいから。……栞」
「ううん、聞いて。――雄吾はいつだって私に優しかった。乱暴なことだって、何ひとつなかった」
 
 匠のいない夜。眠れなくてふらふらと部屋を出た。
 飲み物を買う目的で歩き、病院の談話室にある週刊誌を誘われるまま読み耽った。
 そこには雄吾のことが酷く悪く書かれていた。
 誘拐。監禁。
 黒く踊るような文字に、愕然とした。
 胸を激しく引き千切られたみたいに痛んだ。
 ちがう。全部、全部、全部、嘘。
 ――大嘘。
 あんなに優しい人はいない。
 あんなに私を愛してくれた人はいない。
 両親のことも。
 唇を噛んで読んだ。
 雄吾のことは私が知っている。
 悪い人じゃない。
 悪いのは、私。
 私が弱かったばっかりに。
 ごめんなさい。
 雄吾。
 雄吾が死んで、私が外の世界に出るなんて。
 これがきっかけだなんて。
 罰が当たっちゃったんだね。

 がっくりと力の抜けた私を支えようと、回り込んだ匠にすっぽりと包まれた。
 背中に感じる強い腕と、私の頭に乗せた匠の顎がかすかに動いた。
 心配はいらない。俺が田崎さんの代わりになる。約束する、と。
 匠の手は私を慰めるように動く。
 
 雄吾。
 見てて。
 私はもう逃げたりしない。
 雄吾の言っていた外の世界でがんばるから。
 いままで。
 ずっと守ってくれてありがとう。
 そして。
 さようなら、雄吾。

(2009/09/10)


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