どこを歩いているんだろう?
分からないまま、高い木々を横に見ながら坂道を上っていた。
砂利の小気味よい音が響く。
どこまで歩くんだろう?
目的地の見えない不安を胸に、ときおり匠を伺い見た。
「見えてきた。墓地の入り口だ」
私の方を振り返って言う匠の肩越しに、木々以外の景色が飛び込んできた。
うっそうと茂る緑の中には、階段状に作られたお墓が広がっていた。
突然開かれた景色の変化に驚き、立ち止まって全体を眺める。
整然と並ぶお墓に圧倒され、ざわりとした感触が背中を撫でる。
「この場所、木に囲まれてるだろ。入り口が見えてくるまでお墓があるってわからないんだよな」
息を吸いながら見上げると、雲ひとつない空があった。
私はそこに安心感を見いだし、ゆっくりと息を吐き出した。
病院からも見えるおんなじ空が続いているんだ、と。
また歩く。
墓地の入り口に足を運ぶと砂利道は途切れ、茶色い地面に変わっていた。
アスファルトでもコンクリートでもない柔らかな歩き心地に足踏みし、茶色の土の感触を確かめた。
あ。
何かがいる。
足元に動くものを見つけ、土の上に目を凝らした。
「待って。この黒いのは? 虫?」
繋いでいる右手を引っぱって、歩みを止める。
私の視線を追うように振り向いた匠に、これ、と指差した。
「ああ。アリ。コイツは大きいな。ふつうのは、もうちょっと小さい」
「……アリ」
歩きながら注意して見ると、あっちにもこっちにもアリはいた。
アリはこちらの存在を認めていないように、動いている。
踏んでしまいそうなほど小さな存在に、下を見ながら歩く。
匠は気にも留めない様子で無造作に足を運び、私の手を引っぱる。
匠の興味はアリにはないんだ。
だって、ぜんぜんちがう話をするんだもの。
そろそろ夏が来るな。今年も暑いだろうな。高卒認定の勉強をしよう、とか。
なんてことない話をしてくる。
もっとも、私はアリが気になって、相槌を打つだけだったけど。
ゆっくりとした歩調で、坂を上っていく。
こんなに歩いたのは初めてで、息があがってくる。身体は酸素を求めている。
額に汗がにじむ。身体も熱い。
なのに一点だけは冷たかった。匠と繋いだ手はひんやりしていた。
緑に囲まれている空間の中にすっぽり入ったお墓は、外からの侵入を拒んでいるようで、木々に遮られ日の光が届かないここは、ひんやりとした重い空気が漂う。
「匠の手、冷たいね」
匠は繋いだ手をちらっと見て、なにかを言おうとした。でも、べつに答えがほしいわけじゃない。私は首を振って制し、指先に力を込めて匠の手を握りしめた。
「静かだね。ここは」
言って、視線を絡める。匠はゆるく息を吐きながら笑った。
「ああ。都会の中にあるとは思えないよな」
握り返された手に、私は顔を緩めた。
人は死ぬ。
予測もできなければ一分の猶予も与えられない。
楽しい思い出も、悲しい出来事も、辛い過去も、幸せの記憶も。
死んでしまえば、そこで途切れてしまう。
終わりだ。
そのすべてが跡形もなくなってしまうのだ。
ここは、その欠片までもが眠る場所。
残された人は、それらをしまい込むように土に埋め、沈黙を見守る。
だから静かなんだ。
寂しい。
冷たさを感じて、どうしようもない。
お墓の入り口からしばらく歩くと水汲み場があった。
匠はふたのない薬缶を蛇口にあてがい、水道をひねる。
古びた取っ手を忙しく回すのに、水量は頼りなく細い。
「出ないね」
「ああ。水圧が低いんだろ」
少しずつしか出ない水に、匠はため息を吐いて私を見た。
やれやれだね。視線で返す。
水が溜まるまで、しばらくかかりそうだ。
あ。
人がいる。
そんな気配はなかったのに、ほど近い朽ちかけた木の椅子に人が座っていた。
黒髪がひとつも混じっていない白髪頭のおじいさんがひとり。膝には花束がのっていた。
ひとりなのに口が動いている。誰に話す風でもなく。
その姿はとても痛くて、見てはいけない、と直感した。
見ない振りをすることがいいことか、悪いことか、私にはわからない。
ただおじいさんを見てはいられなかった。
すぐさま俯き、薬缶の中に入っていく水に意識を移す。注がれる水の音に耳を澄ました。
けれど、聞こえてしまった。
「ばあさんが好きだった」
やけにはっきりと聞こえて驚いた。
耳を塞いだわけでもないのだから、当然だけど。
ああ。
亡くなったおばあさんのことが好きなんだ。
顔を上げて見ると、おじいさんは花びらを触っていた。
膝の上の白い花。
ああ、花のことか。冷えた頭で思った。
おばあさんは白い花が好きだった。
そうか。そういうことか。
花を見つめるおじいさんの視線。
愛おしそうに撫でる手。
見ているだけで、苦しかった。
喉の奥から熱さが込み上げてくる。
それとともに、ちがうんだって気づいた。
言葉は短くとも単純ではない。響きはもっと奥が深かった。
おじいさんは、白い花が好きだったおばあさんのことを、今でも想っているのだ。
今はいない人を、好きでいる。
おじいさんの気持ちが私に伝わって、とても痛かった。
心が寄り添うような、おんなじ痛みを知っているような、そんな気がして、見ない振りどころか、おじいさんから目が離せなかった。
「おおっ、と」
匠の声に引き戻された。
薬缶には水がいっぱいになって、溢れ出ていた。
匠を見ると気まずそうに口元を上げて、おじいさんを一瞥した。
見ていたんだ。匠も。
すれすれまで入った薬缶の水はちゃぷちゃぷと音を立てている。
たった今まであった溢れそうな気持ちが、すーっと引いていくのを感じた。
薬缶の水に先を越された。
おかしな言い方かもしれないけど、薬缶が私の分も泣いてくれたって思った。
匠はおじいさんのことには一言も触れず、行こうか、と言った。
繋ぎ直された匠の手は、とても力強く、熱かった。
歩きながら、左手に持つ花が見えるように抱え直した。
ここに来る前に寄った花屋で、お墓の花を選んでもらった。
夏菊の白、黄色と朱色の小花、三色の花束。
この花を雄吾は気に入るだろうか。
雄吾の好きな花を、私は知らない。
もう訊くこともできない。
一歩、一歩階段を上り、上まで来ると右に折れた。
手は私を迷いなく引っぱる。
ふいに止まった匠を見上げた。
視線の先を辿ると、大きなお墓があった。
ほかのお墓よりも少しだけ小高い場所。墓石も見上げるほど大きい。
「ここに田崎さんが眠っている」
匠は墓石に水をかけると、くぼみに水を注ぎ始めた。
眠っている。
そう言ったけど、私は知っている。
もうすでに雄吾の身体はなくなって、骨だけになっていることを。
知っても不思議と悲しみは湧かなかった。
匠は深緑色をした細長い棒の束に火を点け手をかざして消すと、棒の先から煙が立ち上った。
ゆっくりと上る煙の向こうに、種類も色もちがう花がたくさん手向けられていた。
「花がいっぱいだな。これでもかってくらいだな」
匠の言うとおり、花筒にはこれ以上入らないくらい、ぎっしりと活けられていた。
そのほかの花は左右の石の上に直接置かれている。
新しい花とわかる物も、少し元気のない花も色とりどりに。
「賑やかだな。……そうだな、ここの間に花を手向けようか」
頷いて、匠の指差すところに花を置いた。
賑やか、という言葉に眉を寄せた。
嫌。そぐわないから。
花のことだって分かっている。
匠の言葉の裏側で、雄吾は寂しくない。そう言いたいんだって。
私の気持ちを知らないで、と。つい、口から出そうになった。
合掌する匠の姿がなかったら、止まらなかったかもしれない。
膝を折った匠は俯いて合掌し続ける。
しばらくして立ち上がると、私のかぶっていた帽子を取って背中を押した。
私も腰を落として手を合わせる。
ここに雄吾がいるんだね。
雄吾、聞いて。
私、今日初めて自分の足で外に出たの。
ここに来るまで、いろいろと気づいたんだよ。
知らないことがいっぱいだ、って。
雄吾の言ったことを考えてみたの。
それでね、私、分かったんだ。
雄吾に甘えてた。
優しさにずっと浸っていた、って。
ようやく気付いたの。それはいけないことだった、って。
甘えちゃ、いけなかったんだ、って。
私は雄吾の手を離すのが怖くて、長い間、雄吾を縛ってきた。
駄目だったのは、私。
雄吾の言うことを聞けばよかった。
後悔してる。
ごめんなさい。
私はとても大切な人を失ってしまったんだ。
お墓を見つめながら、覚束ない足で立ち上がった。
「匠、私は……ね、可哀想な子なんかじゃない。私は監禁なんかされてない。雄吾は私を何度も何度も外に連れ出そうとした。外の世界にいつ出てもいいように、勉強も仕事も、困らないようにして」
「……」
「警察は雄吾を悪者にしたでしょ? 私、知ってる。雄吾の悪口ばかり書かれた本を読んだもの。どうしてすべてを分かったように、まるで見ていたかのように書いてあるの? 雄吾はぜんぜん悪くないんだよ。悪いのは私。ぜんぶ私のせいなの。私がそうさせたの。私のわがままで外に出なかっただけなの」
言葉の途中で、後ろから抱きしめられていた。
「言わなくてもいい。もうなにも言うな! もういいから。……栞」
「ううん、聞いて。――雄吾はいつだって私に優しかった。乱暴なことだって、何ひとつなかった」
匠のいない夜。眠れなくてふらふらと部屋を出た。
飲み物を買う目的で歩き、病院の談話室にある週刊誌を誘われるまま読み耽った。
そこには雄吾のことが酷く悪く書かれていた。
誘拐。監禁。
黒く踊るような文字に、愕然とした。
胸を激しく引き千切られたみたいに痛んだ。
ちがう。全部、全部、全部、嘘。
――大嘘。
あんなに優しい人はいない。
あんなに私を愛してくれた人はいない。
両親のことも。
唇を噛んで読んだ。
雄吾のことは私が知っている。
悪い人じゃない。
悪いのは、私。
私が弱かったばっかりに。
ごめんなさい。
雄吾。
雄吾が死んで、私が外の世界に出るなんて。
これがきっかけだなんて。
罰が当たっちゃったんだね。
がっくりと力の抜けた私を支えようと、回り込んだ匠にすっぽりと包まれた。
背中に感じる強い腕と、私の頭に乗せた匠の顎がかすかに動いた。
心配はいらない。俺が田崎さんの代わりになる。約束する、と。
匠の手は私を慰めるように動く。
雄吾。
見てて。
私はもう逃げたりしない。
雄吾の言っていた外の世界でがんばるから。
いままで。
ずっと守ってくれてありがとう。
そして。
さようなら、雄吾。
(2009/09/10)