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 第三章 6.     by 栞

『目的地、周辺です』
 お知らせとともに、電子音が短く鳴った。
 車の助手席から見えるモニターにも、目的地を示す旗印まで来たことを教えてくれている。
 緊張からか身体が固まり辛うじて座っている状態。心臓はますます早まった。
「この辺か」
 ぼやきともとれる呟きといっしょに車の速度が落ちる。
 匠も初めて来る場所ということで、カーナビを使ってここまで来た。
 音声は人の声でいて、機械的に聞こえるのを不思議に思いながら、案内通りにたどり着いた風景を見た。
 ここはマンションやビルといった縦長の建物がない住宅街の中。
 『聖母マリアの家』を探す。
「あ、あれかな? 右側の茶色の壁の……」
 車の右前方に『聖母マリアの家』の表札。
「ああ、あれだな。ふ〜ん、レンガ造りの塀に囲まれてるんだな」
 塀だけで建物は見えない。
 駐車場を探し、塀に沿ってのろのろと一周する。
 それらしい場所は見つからない。
 ちょっと降りて聞いてくる、と言った匠と顔を見合わせたところで、誰か人が門から出て来るのが見えた。手を振っている。
 あ。
「さなえさん、だな」
 さなえさんの間近まで車を寄せると運転席側の窓が下がった。
 匠が言うより早く、
「ようこそ! いらっしゃいました」
 跳ねるような明るい声が車の中で響いた。
 心臓に悪い。今はどんな音でも私を驚かせる。
「遅くなりました。今日はよろしくお願いします」
 匠はそつなく挨拶する。
 丸い眼鏡。目尻の下がった満面の笑みが私の座る助手席を覗き込んだ。
「こんにちは。栞さん」
 さなえさんの呼びかけに頷き返し、頭を下げた。
「杜原さん、今、門を開けますね。車はここから入って突き当たりにでも止めてください」
 ややふくよかな身体が揺れる。力を入れて引っぱらないといけないのか、ところどころ錆びついた茶色の門が重い音とともに開けられた。
 車ごとゆっくりと乗り入ると、中にある建物が見えた。
 平屋の赤茶色の三角の屋根に、十字のマーク。
 教会の建物そのものを見るのはもちろん初めてで、道すがら見てきたものとは異なった風合い。目が離せなくなった。
 さなえさんの誘導で駐車する間、私は先に車を降りて匠を待つ。
 その間、ずっと外周りを眺めていた。
 レンガ造りの塀は私の腰高くらいでそんなに高くはない。ただ塀沿いに植えられた木が高く育ち、外からは建物自体をすっぽりと覆い隠し、中からも外の様子が分からなくなっていた。
 ややもすると遮断された空間は、どこかちがう国に来たようにも思える。
 建物は古びたといっていいのか、本来は白かっただろう壁はくすんでいて、それは長くこの場所にあることを示し、マンションの四角い建物しか見たことがない私には、絵本で見たままの三角の瓦屋根の家が本当に存在することに安堵を覚えた。
 けれど正直にいうと、ここまで来るまでが辛かった。車で一時間ほどの距離。途中、気分が悪くなり、匠から車酔いをしたのだ、と知らされた。
 それが顔に浮んでいたのか、
「遠かったでしょう? よく来てくれましたね」
 さなえさんは労うように私の手を握りしめた。
 匠を見ると、神妙な顔をしている。
 ここが入り口よ、と振り返ったさなえさんの後ろには、たくさんの子どもたち。
 開け放された窓には顔、顔、顔。
 覗き込むようにざわざわと蠢き、口々に何かをしゃべっている。
 さなえさんは、ここにいる全員、わたしの大切な子たちよ、と。
「さぁ、皆、外に出ていらっしゃい!」
 朗らかに呼びかけた。
 続々と出てくる子どもたち。
 指をくわえている子もいれば、大騒ぎして大きな子に頭を叩かれる小さな子もいる。小さな子を抱っこしている大人びた子もいる。
 小さい子から中学生まで、総勢十二人の子どもたち。
 病院とちがって、とても騒がしい。
 声と声が重なり合ってなにがなんだか分からない。
 ここがどういうところか、イメージしてきたのに、まったく重ならなかった。
 親のいない子どもや、ネグレストといわれる育児放棄、そのほか事情があって親と離れて生活する子どもが、共同で生活する場所だ、と。
 けれど想像していたような、寂しそうな顔や悲しい顔をした子は、見つけられなかった。
 顔の表情に違いはある。はにかんだ顔。屈託のない顔。興味津々の顔。
 その顔には私を拒む負の雰囲気はなかった。肩の力が抜けていくのが自分でも分かる。
 匠から送られる気遣うような視線にも、さなえさんの視線にも頷いたりして、ときどきは笑顔で返すことができた。
 ここに来る前に、車の中で無口になり匠に心配されるくらい緊張していたのに。
 子どもたちの弾む笑顔に囲まれてくすぐったい気持ちになっていた。
 どうしていいのか分からない私に、ひとりひとり進み出て自分の名前を言い、手を握ってくる。
 人懐っこい子どもたち。
 大きくても中学生。身体も私と同じくらいか、小さい。
 はっきりと顔と名前が覚えられたか不安になるくらい、次々と子どもがやってくる。
 一通り挨拶が終わったのか、声が止みかけた時。
 ほら、言えよ。だいじょうぶだって、という声が聞こえた。
 声を辿ると、恥ずかしそうに頬を染めた女の子が私を見上げていた。
 耳の左右で結わえた髪がふわふわと揺れている、小花柄のワンピースを着た印象的な大きな黒目。
 とても大人しそうな女の子は、大きな男の子に背中を押され立っていた。目を瞬かせ今にも泣き出しそうな顔をしている。
 ふと浮んだ。
 こんな時、雄吾なら……。
 私と同じくらいの背になるように屈んで、頭を優しく撫ぜてくれた。
 そうされると落ちつけるし、とても気持ちがよかった。
 すこし近づいて膝を着き、目線の高さを同じにしてみた。
 笑わなくっちゃ、と固めていた顔を緩めようとした途端、不安げな黒い瞳が、ぱっと変わった。
 ふっくらとした頬っぺにひとつ、えくぼが浮んだ。
 可愛い。
「えっ〜と……あのね、……あれ? なんだっけ……しんちゃん」
 女の子は、大きな男の子を振り返って助けを求める。
 しんちゃん、と呼ばれた子は、しょうがないな、という顔で女の子の耳元にこそっと言葉を落としてやった。
 女の子は、そうだった、と言うように身体を反らせて照れ笑い。
「あのね、あゆちゃんね〜、栞おねえちゃんって呼んでもい〜い?」
 もじもじと、首を傾げる女の子。
 ひとつひとつの仕草がとてもコミカル。
 あどけない顔に、頬が緩む。
 私は、うん、と深く頷いて返事をする。
「いいよ。……あゆちゃん、っていうの?」
「うん。……あゆ、です。四さい、です」
 練習したのか、小さな親指を折り曲げ、四つと手で作る。
 あゆちゃん、四才。
「うん。よろしくね」
 すっかりと気を許したらしいあゆちゃんの頭を撫ぜて、ぎゅっと抱きしめると、わたしも、わたしも、と子どもたちが詰め寄ってきた。
 口々に、あゆちゃんだけずるい、と腕をあちこちに引っぱられる。
 容赦しない子どもたちに私は閉口する。
 だからと言って、子どもたちは察してくれる訳ではなく、飽くまでも貪欲だ。
 私はたくさんの目と歓声に包まれ、揉みくちゃにされた。
 すこしだけ疲れを感じて、匠を目で追った。
 匠は笑みを浮かべていた。
 そばにいてくれてよかった。
 すぐに言葉にはできないけれど、子どもたちがいて、匠がいて、この状況はぜんぜん悪くない。
 なんとも言えない高揚感が私を包み込んでいる。
 病院から出て、ここに来れてよかった、と思った。
 私はもう一度、『聖母マリアの家』を見上げた。

(2009/10/13)


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