top

 第三章 7.     by 栞

「さぁ、お昼をいっしょに食べましょうね」
 さなえさんの一声で、私を取り合っていた子どもたちは嘘のように散っていく。
 すっかり話題は昼食に取って変わっていた。
 さなえさんはウインクして、いらっしゃい、と私を手招きした。
 私の右手を握るのは、あゆちゃん。
「栞おねえちゃん。今日のお昼ごはんはね、カレーライスなの!」
 カレーライス。
 ずいぶん、うれしそうに教えてくれる。
「みんなで力を合わせて作ったんだよ」
「超ウマイんだぜ」
「カレー、おいしいから大好き!」
 次々に声があがった。
 人気のあるメニューなのか、皆から笑顔が絶えない。
 ぞろぞろと歩いていく。ぺったんぺったんとしんちゃんのサンダルの音。
 私もあゆちゃんに手を繋がれて歩く。
 そろっと匠を伺うと、私の後ろを着いてきてくれていた。
 視線が合わさる。
 匠はちょっとだけ口元を崩して、行けよ、と顎を前に突き出した。
 私はわかってる、と頷き、ほっとした顔を隠さず前に向けた。

 教会の広場にあるブドウ棚の下に大きなテーブルが三つと椅子がずらりと並べられていた。
 それも子どもたちだけで運んだの、と誰かが言った。
 小さい子も、椅子運びを手伝ったよ、と胸を張っている。
 コップとスプーンの準備をしましょう、と言われれば、どの子も迷いなく働く。大きい子は、自分よりも年下の子の動向を追いながら、フォローも忘れていない。
 すごいね。それが当たり前のように動いている。
 私はしてもらうばかりなのに、と思う。
 
 あ。
 大きい。
 私は巨大な鍋に目を丸くした。
 こんなに大きいものがあるなんて……。一度に何人前作れるんだろう。
 鍋をかき混ぜている女の子は、汗を拭っている。
「栞おねえちゃんは、ここに座って」
 あゆちゃんの小さな指が差すところに座る。
「杜原さんも、栞さんといっしょにお座りください」
 さなえさんが促す。
 目の前のテーブルに、水とスプーンが入ったコップが、ことん、ちゃぷん、と音を立てた。
 カレーライスのお皿も真ん前に置かれた。
 しんちゃんが、どうぞ、と笑顔つきで、隣の匠の前にも置く。
「サンキュ! しっかりしてんな。しんちゃんは中学何年生?」
 匠は、しんちゃん、と呼んだ。
「ああ。中三。オレのことは、新也(しんや)でいいから」
 匠にそう呼んでよ、と私にも目配せして言った。
 ここの年長と言う、しんちゃんこと、新也はリーダー的な存在らしい。
 私よりも少し大きいくらいの背の高さで、日によく焼けた腕は逞しそうに見える。
「新也! こっち手伝ってよぉ」
 鍋の前に立つ女の子に呼ばれて、新也は離れていった。
 それにしてもすごい匂いだ。
 初めて嗅ぐ匂いは、ここら辺一帯に広がっている。
「さぁ、いただきましょうか」
 さなえさんの呪文のような挨拶とともに、一斉にいただきます、の声が上がった。
 カレーという料理。
 ごはんの上にカレーをかけて食べるんだって? ちょっと意外な食べ方。
 お茶漬けは食べたことがあるけれど、これはない。
 カレーライスを前に緊張する。
 コップの中の氷水をスプーンでかき混ぜてみる。
 カララン、と軽やかな音。
「辛くないから、だいじょうぶだ」
 匠の声に、スプーンですくってみる。
 ニンジンと玉ネギ、鶏肉かな? と、確認できる。
 だけどな……。
 黄色と茶色が混ざった複雑な色に途惑う。
 匠にだけ聞こえるように近づき告げる。
「これ、初めてなの」
 病院のメニューにはなかった。
 もちろん料理の本を見たことがあるから、存在は知っている。
 写真で見るのとよく似ている。
 でも、写真にはどろりとした感触も、匂いも感じられなかった。
 きっといっしょのものなのに、スプーンは口からほど遠い。
「おなか、すいた〜!」
 誰かが叫んだ。
 私たちを待っていてくれたので、遅いお昼を待ちきれないのだ。
「……無理はしなくてもいいけど、ひとくちだけがんばってみれば? 甘口でおいしいから」
 匠が助けるように言う。
 言うだけでなく、食べて見せる。
 スプーンでごはんをカレーと混ぜて口に運ぶ。匠のひと口は大きい。
 たしかに美味しそうに食べる。
 けれど、甘口、という言葉に引っかかり、思わず怯んで手を止めていた。
 どろりとした液体が、砂糖の塊のように見えて、ひゅー、と息が漏れる。
 緊張のあまり、呼吸が速くなる。
 甘いんだ、これ。……嫌だな、……どうしよう。
 苦手なものとわかって口にすることがつらいことと知ってから、口に運び入れるまでの時間、葛藤でぐらぐらと揺れる。
 カレーライスが私を煽ってくる。食べてごらんなさい、と。
 朝、松本さんにもらったチョコの色にも心なしか似ている。
 きっと、すごく甘いんだろう……。
 しかも、こんな甘いのがごはんの上にのっているっていうのがわからない。
 ごはんまで甘くなっちゃうじゃないの。
 だけど、せっかく子どもたちが作ってくれたのだから、文句は言えない。
 この際ごはんだけ食べようか、って気持ちも打ち消さないといけないだろう。
 ぐるぐる考えた。
 だけど……答えなんかでないし。
「栞おねえちゃん?」
 隣に座るあゆちゃんの声がか細く聞こえた。
 顔を動かすと、心配そうにあゆちゃんが見ていた。
 まわりの子どもたちも私を見ている。
 しーん、と静まり返ったテーブル。
 スプーンを構えたままの子。カレーライスをスプーンで突いている子。大きい子はスプーンにも触れていなかった。
 私はその目に恐れおののき、目の前のお皿に慌てて視線を戻す。
「栞。ここでは招かれた客がひとくち食べないと食事が始まらないんだ。皆、お腹を空かせているから、食べてみようか」
 そう言って最後に耳元で、真似でもいいからさ、と小さく落とした。
 そっと匠の顔を見ると、私を試すように、くっと笑った。
 意地悪な顔。
 ほんのときどきだけど、匠は人を嘗めた顔をする。
 雄吾とちがって、ひどく子どもっぽい。
 大きな口を開けて食べてみせる匠に、むっとする。
 だって食べる振りをしろ、と言うんだもの。
 そんなこと、できないよ。
 私の気も知らないで、と。カレーをすくうとスプーンを一気に頬張った。
 皆の見ている前で食べる。このどきどき感。
 子どもたちの視線が、私に突き刺さる。
 あ、あれ?
 口の中が、喜んでいる?
 甘い、と言った匠の言葉がなんだったのか……。
 意外に美味しかった。
 口に入れた瞬間、複雑な香りと味わい深さ。見かけに騙されていたことを知り、思わず唸ってしまった。
「……美味しい」
 わぁ〜、と歓声が上がった。
 私の、美味しい、の一言で一気に音が戻った。
 騒がしい。
 食べ始めた子どもたちの顔は、一様に美味しそうな顔をしている。
「よかったわ〜」
 声は前から。
 テーブルを挟んで座るさなえさんが笑顔をこぼす。
 私も笑みを返し、食べ進む。
 本当に美味しい。
 子どもたちが作ったというカレーライス。
 外で食べるっていうのも、気持ちがいい。
 見上げればブドウの緑の葉が棚を覆い、涼やかな木陰を作っている。その下で賑やかに食べる食事はとても楽しい。
「栞。今日はたくさん食べるな。カレー、気に入ったか?」
「うん。美味しいね。……それにここは気持ちがいい」
 さなえさんはずっとにこにこしている。周りを見て、おかわりの子によそってあげたり、お水をコップに足してあげたりして、よく動く。それでいて、ちゃんと食べてもいる。
 お母さん、というのはこんな感じなのか。
 隣のあゆちゃんもよく食べている。
「あ〜あ、あゆの口、すっげえ汚れてっぞ」
 新也が、あゆちゃんの顔を拭いてあげている。
「しんちゃんも、頬っぺについてるよ」
 げらげらと笑い合う、ふたりのやり取りは微笑ましかった。
 さなえさんを見ると、見守るように笑っている。
 
 遅いお昼が終わって、小さい子たちはお昼寝の時間になった。
 さなえさんが布団の用意をしてくれて、あゆちゃんといっしょに眠ることになった。
 眠る習慣はない。ときどき眠たくなってうたた寝はするけれど。
 目を瞑って、寂しさを紛らわすように小さい身体を抱きしめる。
 カレーのかすかな匂いとともに、甘い匂いが鼻先をくすぐる。
 穏やかな気持ちで、柔らかい髪の毛を梳かす。
 すーすーと息がして、眠ってしまった顔はゆるゆると幸せそうだ。
 でも眠くはない。
 眠りに引きずられることはなかった。
 離れてしまった匠がずっと気になっていた。
 匠は中学生の子とサッカーを始めてしまって外にいる。
 ボールを蹴る音。笑い声。
 あゆちゃんから離れて窓を覗けば、ボールを追いかける匠がいた。
 二人の男の子といっしょに楽しそうにボールを蹴っている。
 正直にいうと離れるのが怖かった。
 でも、あゆちゃんは私を離さなくて、私を欲していた。
 あゆちゃんを見れば、規則的に息を繰り返すのが離れていてもよくわかる。
 さなえさんが反対側の布団から起き上がり、
「あゆちゃん、眠ったわね。眠くなかったら起きてわたしとおしゃべりでもしましょうか」
 張り詰めていた心も柔らかになったところで、さなえさんは私の両親のことを話して聞かせてくれる、と言った。
 両親の小さい頃のことを。
 たくさん。
 幸せだったのかは分からないけれど、きっと父と母は肩を寄せ合って生きたのだ、と。
 ここの教会で育った中学生頃の写真がアルバムに挟まれていた。
 どの写真も父と母が隣合って写っている。
 仲が良かったんだ。
「今の新也くんとあゆちゃんのように、雪ちゃんを俊くんが守っていたのよ」
 教会のブドウ棚の下で食事をしている写真を見つけた。
 今日のようにテーブルが並べてあり微笑み合うように写っている。
 同じ時ではないけれど、同じように過ごしたことがある、と思うと不思議と心があたたかくなった。
 かといって、どこか自分とは関係のない人のように感じられ、冷たさとあたたかさが交じり合い、複雑な気持ちにもなった。
 どう表現していいのか、言葉が見つからない。
 経験不足のせいだろうか。それとも私が薄情だから?
 手を握られて肩を撫ぜられている今しか感じられない。
「栞さん?」
「……父と母のこと、なにも覚えてないんです。私には雄吾だけで……」
 雄吾のことが心から離れない。
「……そうね、……ゆっくりでいいと思うのよ。焦らないで。すこしずつ慣れて、受け入れていけばいいのよ」
 さなえさんはのんびりと言って、私になにも押し付けなかった。
 それから、これから生きていく未来のことを話した。
 さなえさんが母親代わりになってくれることも、大学進学を目指して勉強することも。
 できる限り力になりたい、と言ってくれた。
「栞さんは、雪ちゃんととても似ているのに、心が強いわ。しっかりしているのね。甘えたところがちっともないんだもの」
 雪乃という母、俊樹という父の存在は、私にとっては写真の中だけのものだった。
 母に似ているといわれても、私に繋がっているものが見つからない。
 父と母。
 言葉自体は知っていても、ほかに何の感情も湧かない。
 それはおかしいことかもしれない、と思う。
 もしかして、この場所に来たら何かを感じ、変わるかもしれないという望みを持ってきた。
 期待してきたのに。
 もう会うことはない人。写真をじっと見つめ続けた。
 それはあまりに感情が入らなくて、心が凍りついたままで……。
 握られた手に力が込められた。
「あまり思い詰めないで。誰も経験したことがないんですもの。むずかしく考えないで、栞さんの思ったように、感じたように、それでいいと思うのよ」
 写真から顔を上げて、さなえさんを見た。
 ほわっと柔らかな笑顔が咲いていて、私は泣き出しそうだった顔を開放させた。

(2009/10/14)


back ← 目次へ → next




top

inserted by FC2 system