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 第四章 1.     by 匠

 昼食の後、病棟の廊下をひとり歩いていた。
 無意識のうち顎に手をやり、撫でていたことに気づき、ため息を吐く。
 栞に、またひとり、深く関わりを持つ人間ができた。
 それは喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
 ふとそんなことを思い、栞にとって良いことに違いない、と考え及んだところで足を止めた。
 栞のことになると、てんで駄目なんだな。俺はさ。
 『恋は盲目』って言葉が浮かび、慌てて苦笑する。
 ときどき、栞を閉じ込めて独り占めしたい気持ちが湧き上がり、なにを都合よく考えてるんだ、と心に押し込める。
 また何かの拍子に、栞のことを考えている自分に気づき、ぐっと堪える。
 患者としての範囲をとっくに超えた想いが交錯し、また否定する。
 これの繰り返し。
 ここのところ、そんな感じだ。
 俺は自分を持て余してしょうがない。
 情けねえよ。ほんと。

 栞はあの外出以来、目に見えて変わった。田崎さんの墓参り、『聖母マリアの家』の一件から、驚くほどの吸収をみせた。
 病院での生活にも慣れ、病棟内を自由に歩けるようになった。
 いきいきとしている。
 それとともに栞の隣の病室に入院する松本さんという患者と会う機会もでき、仲良くなっていった。
 年は六十八歳、女性。人懐っこい笑みと、真っ直ぐな立ち姿が印象的な、年を感じさせない不思議な魅力を醸し出している。
 入院は、骨折による治療のため。
 その原因を作ったのは、突然眠りに襲われる病気によるもので。
 ナルコレプシーという、睡眠障害の一種。
 一日に何度も強い眠気の発作が起きる精神疾患で、それは場所や状況を選ばない。
 自分の意思とは関係なく起こり、コントロールすることができないため、社会生活に支障をきたす、やっかいな病気である。
 笑ったり、怒ったりの感情の変化が誘因となって、体の筋肉の力が突然抜けてしまう発作を伴う。
 それはどんな時にも起こりうる。
 たとえば、食べている時、お風呂に入っている時、歩いている時、眠いという自覚が眠りとともに突然やってくる。
 座っている時なら、それほど気にすることもない。
 でも、歩いている時や車の運転をしている時であれば、こけて怪我をしたり、事故に遭ったり、起こしたり。大事になる。
 予測のできない発作なので、予防ができないのが実情だ。
 今回も睡眠発作が原因で転倒。左手首と大腿部骨折で、三ヶ月ほど入院している。あと一週間ほどでようやく足のギブスが取れそう、というところだ。
 本来、整形外科病棟に入院するところを、精神科病棟に入院しているのには訳がある。
 栞といっしょで、外部との繋がりを遮断したいから。
 松本さんは日常化する転倒のせいで、一年に何度も病院にかかり、入院期間も長期に渡っている。
 長くいる、というのは困ったことに見舞いにくる家族も同じ期間だけ長く必要になる。言い換えれば、ほかの患者ないし患者の家族や友人の目に触れてしまう。目に触れるということは、おそらく騒ぎに発展すると推測される。
 それは、松本さん自身ではなく、見舞いにやってくるひとりの人間が問題なのだ。
 その人間とは、タケルこと、 松本 深雪 まつもと みゆき という。
 モデル出身でこの春にドラマデビューを果たし、夏公開の映画で今話題の青年といったらいいだろうか。
 このタケルが、松本さんの孫にあたる。
 松本さんが頼りにする身寄りのひとり。
 そのタケルがこの病院に見舞いにやってくると分かれば、大騒ぎになるだろう。
 だから、直接関係する医師と、ごく少数の看護師のトップシークレットになっている。
 知られれば、ファンだけでなくテレビレポーターや雑誌記者が張り付き、大混乱を招くから。
 それを避けるためにも、この病棟に入院してもらっている。
 と、いうのも現在、精神科病棟は正確には機能していない。
 四年前、郊外に精神科を移設してから、ここは外来専門となった。
 それにともなって使わなくなった病室を、松本さんと栞が使っているのだ。
 マスコミや一般人から隔離するのに必要な者には、恰好の場所である。
 なんと言っても精神科というだけで、ほかの患者が来たがらないし、入り込めない空気も手伝って、外部から遮断できるという利点がある。
 また、もうひとつの名目もある。
 タケル自身も、病気を抱えているのだ。
 ストレスとトラウマから、眠れないでいる。
 祖母とは逆に、不眠の悩みをもつ。
 うまい具合に眠れても夜中に中途覚醒といった不眠の症状に苦しんでいる。
 週に一度の診察にやってきて、睡眠導入剤を服用している。
 で、ここのところ、そのタケルが栞に急接近。
 俺としては、ぜんぜん面白くない。
 そこのところはいい大人だから、まったく顔には出してないけど。
 栞には男だとか女だとかいう性別の垣根がなく、男は危険という認識を持っていない。
 純真無垢な心をもっている、と言えば聞こえはいいが、悪く言えば騙されやすい。
 気の優しい人間と知るや、たちまち懐いてしまうのではないか。
 まさか、すべての人間を疑ってかかれ、とは言えない。
 少なくとも、心配していることを面と向かって言えれば、気を揉むこともないのに。
 なんだろうな、このはっきりしない、この辺のもやもやは。首を捻り、自分の胸をとんとん、と叩く。
 俺から歩み寄ることは簡単だけど、べったりと引っ付いてしまってもいけないから、少し離れた立場から見ようと、夜の時間だけ栞のために空けているってところだ。
 栞としては順調に社会復帰への道を進み、高卒認定に向け勉強しつつ、大学の入学試験への意欲も見せている。
 この夏には試験があるため、朝から晩までひたすら勉強に打ち込んでいる状態だ。
 タケルは栞と同じ年で、都内の私立高校に通う三年生。
 このまま芸能界にどっぷり浸かると思いきや、将来の夢をもち、大学進学を目指しているらしい。
 仕事と学校の合間をぬって、栞と勉強している。
 いや、正確には栞に勉強を教えてくれている、だな。
 秋からは仕事をセーブして受験に専念する、と言っていて、ますます用心しなければならない存在といえる。

 あれこれ思って廊下に佇んでいると、目の前に栞がやってきた。
「匠。深雪、見なかった? お昼いっしょに食べようって言ってたのに、まだ来ないんだよ。知らない?」
 あ〜あ、これだもんな。
 せっかく顔を突き合わせても、午後一番に、文句垂れることはないだろう?
 しかも、深雪って? なんだよ。
 深雪っていうのは、タケルのことだけど。
 関係者はみんな、タケル、と呼ぶのに対し、栞には本名で呼ばせている。
 祖母の松本さんまで、タケル、なのに。
 俺はそれが気に喰わない。
 あからさますぎんだろーよ。
 栞は俺の気持ちを逆なでするとは思ってもみない顔でいるし。
 ぽわん、として無邪気なもんだ。
 だから、わざと不機嫌に答えてやった。
「タケルは、げーのー人だから、忙しいんだろ?」
「で、でも、深雪は約束を破ったことなんて、ないんだもん」
 口を尖らせて、拗ねている。
 また、深雪って言ったな。このヤロー。
 この口が言うか?
 栞の唇を摘まみ引っぱってやった。ごくごく軽く。
「ん〜。……ったーい。なにするのよ」
 どうせ、俺は約束を守れない男ですよ。
 外に連れ出してやるって約束しても、すぐに実現してやれねえし。
 勉強を教えてやるって言いながら、一度も見てやれてない。
 くっそー。
 心の中だけで愚痴をこぼした。
 痛かったのか、栞は唇を押さえている。
 頬を赤くしちゃってさ。
 ふん。カワイく口を尖らせてんのがいけないんだよ。
「……で、なんだ、勉強か? どこか分からないところでもあるのか?」
「ん、うん。……そうだけど」
「どこだ? 見てやろうか」
「え、いいよ。匠はお仕事で忙しいでしょ?」
 どこから、そんな知識をつけてきたのか、一端に遠慮を見せる。
 物分りの良さはときどき物足りなくも思えるし、もっと頼りにしてほしい、甘えてほしい、と強欲な気持ちにさせられる。
 俺から迫ってはいけないが、栞から迫られるのは大歓迎だ。
 俺はぐりぐりと栞の頭を撫ぜ回した。手のひらに癖のない滑らかな髪を感じて心地よさに声をあげて笑う。
 今のところ、栞とのスキンシップのとり方だ。
「やだぁ、おもしろがってるでしょ。髪がくちゃくちゃになるぅ」
 栞は俺から腕を突っ張らせると、髪の毛を手ぐしで整えてみせた。
 なに? 色気づいてきたか。コイツ。
 顔を真っ赤に染めた栞が可愛くて、さらに構いたくなる。
 このヤロー、可愛い顔してんじゃないよ。
 栞を腕の中に入れ、さっきよりも乱暴に髪をかき混ぜた。

「杜原せんせ?」
 名前を呼ばれ、現実に引き戻される。
 振り返ると、 長谷川 理香 はせがわ りか が立っていた。
 眉を寄せ、明らかに馬鹿にしたような態度で。
 これまでだな、と栞と顔を見合す。
「これ、やる。『草加せんべい』」
 俺の白衣のポケットから、せんべいの個袋を取り出して渡す。
 栞は、手の中のせんべいを見て、『草加せんべい』と復唱する。
「そう、よくできました。それ、硬いけど、ざらめが甘くて食べやすいって。まるちゃんからね」
「あ、ありがとう」
 栞は頷くと、理香を見て一歩下がった。
 じゃあね、と。栞が手を振って部屋に戻って行くの見て、きびすを返す。
 理香について行く。俺のことを呼んだのには何かあるな、と踏んで。
 促されたのは、医局。入ってすぐ壁の時計を見ると、一時を指していた。
 ああ。もうそんな時間か。
 今から講義の準備をして、大学の方に移動しなくてはならない。
「匠」
「ああ。なに?」
 理香は看護師で、二十七歳。
 まるちゃんとは同期で親友。
 女にしては背が高く、一七〇センチくらい。背の高いタケルと並ぶと美男美女でなかなか見応えがありそうだ。
 まるちゃんとは見た目も性格も違い、スラリと細く、直情型。
 でも似ている点もある。面倒見が良いってところ。
 ちなみに元カノでもある。
 理香のことは昔からよく知っている。俺の父親が理香の家の主治医で、理香の妹の 智香 ちか と俺の弟の たすく とは婚姻関係にあり、家族ぐるみの付き合いだ。
「あ、ハヤシ食べたでしょ。あたしもお昼、ハヤシライスにしようかな?」
 人の顔見て、くんくん鼻を引っ付けてくるか?
「なんだよ」
「ヒゲ、汚いよ!」
 理香は遠慮もなく、俺の両頬を擦ってきた。
「お、おまえな、やめろよ!」
「ふん、ほかには誰もいませ〜ん」
「……にしても、だ」
 もうちょっとは遠慮しろよ、と。不満をあらわにする。
「……また、泊り込み?」
「……ああ」
 いまだに栞は夜をひとりでは過ごせない。付きっきり。
 そのために、ほとんど家には帰っていなかった。どうしてもって時は、救命のまるちゃんのスケジュールと合わせて、病院から離れている。
「そんなことしてたら、疲れない? いい加減やめたら? そのうち倒れるわよ」
 ここのところ、何度か同じことを指摘されている。
 やめられない、とは一度も言ってないけどな。
 医局の中の洗面スペースで、ヒゲを剃り落とす。
 三日振りか。
 毎日は必要ないくらいに少ないが、それでも長くなってくるとむさ苦しい。
 身なりを構わなさすぎ、と理香に小言を言われてから、シャワーを小まめに使うようになった。
「匠。今夜、つき合ってほしいんだけど。いい?」
 鏡の中に、理香の媚びた笑みが映りこんだ。
「なに、また?」
 喋りながら、シェーバーを動かす。
 理香は、いいとこのお嬢さんで、見合い話がちょこちょこやってくる。相手が簡単に引き下がらないヤツだとデートの振りを手伝わされる。
 別れてからも一年ほど、それは続いている。
 外で付き合っている振りをするだけだ。
 まぁ、過去に付き合っていたことも、別れたことも、病院内では知られていない。
 それは同じ仕事場をもつ者として、オンとオフは切り離すという意見が同じだった。
 俺は独身で、ずっと女はいないってことになっている。
「久しぶりに、ねぇ、いいでしょ?」
 白衣の上から、俺自身を撫ぜられた。
 理香の誘うような目と絡み、まぶたを落とす。
 忘れていたセクシュアルな部分を想起し、くっと笑いが込み上げた。

(2009/11/12)


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