「ねぇ、ダメ?」
理香が俺の身体に手を巻きつけて、囁いた。
耳元に熱い息がかかり、身体の一点を目がけ甘い刺激が走る。
鏡の中の女が薄く笑った。
計算された巧みな誘い。
こういうところで男を感じてもな、と自分の股の辺に目を落とし正直に反応する自身に呆れて、ため息を漏らした。
「長谷川さん。今、シェーバー使ってるんですけど?」
危ないだろ。
離れてくれるように、言葉だけでも抵抗してみる。
鏡を覗き込みシェーバーで顎を撫ぜながら、後ろにいる理香を一瞥する。
「匠。もう、理香って呼んでくれないの?」
「は? ……長谷川さん、だから?」
それがなにか?
仮にも俺らは今、職場にいて、親密になってもいけないでしょうよ。
「ねぇ、……もう、あたしはいらない?」
熱を孕んだ瞳で、俺に訴える。
危険すぎる。
コイツには近寄るな。
頭の奥でチカチカと点滅が始まった。
引き寄せられる香りにもおかしくされ、流されそうになる。
これは、ランコムのトレゾア。
控えめにつけられているけど、間違いなく理香の香りだ。繰り返し嗅いだことのある匂い。
近づいた時に感じる、体臭が混じりあった独特の芳香に目が眩みそうになる。
抱き合うたびに嗅いだ匂い。愛しいと感じたこともある匂い。過去に引き戻されそうだ。
刷り込まれた脳は、この香りを嗅ぐだけで俺の官能をじゅうぶん刺激する。たぶん、性的な昂りを起こすのはこれに因るものだろう。
なんせ、ここんところ異性との交渉からは遠ざかっているから。
胸の中で言い訳してふて腐れる。
それにしても、この香り、仕事中につけるなんてな。
仕事柄、香水類をつけるのは、タブーとされている。
毎日顔を合わすけど、久しぶりに嗅いだ香りに、無意識にも心が揺れていた。
下着の中のモノが、異様に熱を持ち膨れ上がるのを感じ、位置を直そうと手を伸ばす。
苦しい。
理香の唇が、卑猥に開くのを見つめる。
「あたしが欲しい、でしょ?」
ゆっくりと、確信的に唇が動く。
俺よりも先に、理香の手のひらが俺のモノを探し当てた。
唇が勝ち誇ったように笑みを作っている。
理香の顔が近い。吐息がかかり、どんどん迫ってくる。
途端に息が詰まってくる。
俺は、ガキかよ。
酸素を求めるように唇を開けて、今更ながら気づく。
いつの間にか押し付けられた柔らかな女の身体に、くらり、と平衡感覚が薄くなっていた。
濡れた唇に吸い寄せられる前に、シェーバーを前の棚に放るように置いた。
「ねぇ、匠。内線、鳴ってる」
理香の唇が目の前に現れ、はっとする。
聞こえなかった音が耳に入ってくると、止まっていた現実が急に動き出した。
今、俺はなにをしていた?
考える余裕なんてなかった。
相手は、けたたましく主張している。早く取ってくれ、とだんだん大きくなっていった。
うるさく叫ぶコール音に、苛立ちを隠さないで受話器を奪い取った。
「精神科」
ぶっきらぼうに言ってから、大きく息を吐き出した。
『あ、杜原先生? まだそちらでしたか』
もしかして今日は休講でしたか? なにかありました? お忙しければ……何とか、かんとか。
電話の相手が勝手に喋り続けた。
耳の奥で感じる心拍動がうるさい。
自分の犯した間違いに気づき、酷く慌てていた。完全に自分を見失っていた。
「せんせ?」
囁き。甘えた声。確信犯。
悪女の笑みに、突き当たった。
理香のはかりごとが成功したらしいことをその顔から窺い知り、ちっと舌打ちして、素気無く身体を離した。
『どうかされました?』
電話の向こう側は、こちらの事情など知らない。のんびりした声だ。そのせいで、やたらに憎らしく聞こえ、当り散らしたくなった。
まったく、俺も大人気ない。
「ああ。すまない。大丈夫だよ。申し訳ないけど、講義室に行って一五分ほど遅れる、ってうまく伝えてくれないか。それと、仕事を作って悪いけど、本日期限のレポートを集めておいてくれないか? 頼むよ」
焦りが伝わらないように、言葉をつなぐ。
『わかりました』
電話の相手、TA(教育補助員)は、講義に遅れる理由を聞かなかった。
この状態で、何が言えただろう?
安堵の胸を撫で下ろす。
背中に汗が伝う感触に、後悔が広がった。
受話器をゆっくり置いて、振り返る。
理香が勝ち誇ったように嫣然と微笑み、手を伸ばしてきた。
「匠。講義遅れちゃ駄目じゃないの。オイタしちゃあ」
俺の唇を理香の親指がぬぐう。何往復かされるままでいると、そんな怖い顔しなくてもいいじゃない、と失笑された。
理香の指にはピンクベージュの色がべっとりと移っていた。腹いせに理香の手を掴み上げると指を口の中に含み込んだ。
看護師にしては爪が長い。口の中で爪の固い感触が癪に触り加減して噛んでやった。
「ん……なぁ、に?」
顔を歪める理香の中に不安の色を見つけたが、かまわず親指を扱き上げた。
脂分を含んでいる口紅はなかなか取れない。
キレイにとれるまで、何度も吸いとった。
理香の瞳に官能の色がはっきりと映るのを見て、再び唇を重ねていった。
さっきの性急で食べるような口付けではなく、啄ばむように角度を変え、ときどきは下唇を甘噛みする、ゆっくりと深い口付けに変えて、理香を追い込んでいった。
吐息と唾液を移し合う音が医局に響き渡る。
渇いた心と、冷えた頭が徐々に戻ってきた。
途中から、腰を支える腕に重みがかかってきた。
理香はくたり、と俺に体重を預け息を荒げている。赤らめた頬が上下していた。見上げる顔が悔しい、と語っている。
いや、負けを認めなくてはならないのは俺の方か。
わざとらしい咳払いをして、理香をそばのイスに座らせると、自分のデスクまで行った。
下手に言い訳もすまい。
自転車の鍵をデスクの中からひったくるように掴み、大またで部屋の出口に向かった。
その間にも、どんなに馬鹿らしいことをしたのか、どんなに自分が浅はかだったか、悔しさがせり上がってくる。
ぶつけどころがなく、乱暴にドアを開けた。
「今夜、部屋に来て! 待ってるから」
必死な声が、俺を追いかけてきた。
答える気はなかった。
振り返って、睨んだ。
「理香。食堂のハヤシライスなら、残り六食になってた。食べたけりゃ早く行くんだな」
理香はむっとした顔で、そんなのどうでもいい、必ず来て、と。俺の有無など関係ないって口ぶりで言い放った。
俺は理香から顔を背けた。
行く、とも、行かない、とも返さなかった。
俺は、ズルイ。
心の中で行かない、と思いながら、大学まで自転車を飛ばした。
夕方の五時。
早く上がった俺は、常に用意しているスーツに着替え、医局を出た。
行きたくはない。……なら、行かなきゃいい。
俺は相反した気持ちを繰り返しながら、足を前へと運んだ。
ついさっき、夜は病院にいないことを栞に伝えると、栞は何も聞かないで、寛容な様子で頷いた。すこし寂しそうな顔で俺を見ただけだった。
行かないで欲しい、とは言わなかった。
ただ、まるちゃんの所在だけを訊いてきた。
物足りなさと、寂しさを隠せなくなって、俺は栞から逃げてきた。
「栞ちゃんのことなら任せて。いってらっしゃ〜い!」
まるちゃんが訳知り顔で俺を見た。
たっぷりとお楽しみくださいね、とも言った。
理香が言う筈はない。
オンナの勘なのか? それには苦笑で誤魔化した。
まんまるの笑顔の隣にはまるちゃんの恋人で、救命医の渡井が立っていた。
「悪いな。また、丸山を借りることになる」
「おう、こっちのことは任しとけって。たまには、ゆっくりしてこいよ」
渡井は小指を立ててウインクすると、これが待ってるんだろ? 早く行けよ、と手で追い払われた。
バシン、と背後ですごい音がした。
叩かれた衝撃に背中を押さえる。振り返ると歯をイシシっと見せたまるちゃんがいた。
まんまるの顔。わたしは知ってるんだよ、という顔に、俺は表情を作ることができなかった。
丸山ぁ〜、栞には言うなよ。
本気で口止めしたくなった。
行く前から後悔しているのに、それでも俺は行くのか?
渡井のイヤらしい笑みにも見送られ、なんとも言えない気分にさせられた。
やっぱり止めとく。
そう言ってしまおうか、散々迷って病院を後にした。
往生際が悪いって。
(2009/11/17)