蒸し暑さに熱風がまつわりつく。不快に感じる季節になった、と思いながら、病院から程近い建物の前で、天を仰いだ。
日暮れ前。
まだ部屋の灯りは点いていない。
病院から徒歩数分の距離にある重厚な造りのマンションは、いつ来ても拒絶されているような雰囲気を持っている。
このマンションに理香が住んでいなかったら、用もない。
一般人には居心地が悪いっていうか、あまり近寄りたいとは思わないところだ。
以前、住人の話題になった時、理香の口から政界人、大手企業のトップの名がつらつらと出てきて以来、苦手意識がいっそう強くなった。
セレブな住人のためのセキュリティーが万全に整い、二十四時間体制で警備員が常駐して徹底的に管理されているのだという。
きっと今もモニタリングされているのだろう、不躾な見えない視線を感じ視線をさ迷わせた。
正直気分が良くない、と思いながら作動しているカメラの前に立った。
番号を押して、理香を呼び出す。
看護師の給料ではとても買えそうにない部屋は、もちろん親のすねかじりだ。
もともと仕事をしないでも食べていける資産家の生まれで、看護師の職業に就いたのが不思議なくらい経済的には恵まれている。ひとり娘で甘やかされたせいか常識知らずの面も持ってはいるが、それを感じさせない生真面目な働きぶりと、情に厚く面倒見のいい人柄から、後輩からも信頼されている。
だから理香にいいように利用されているとわかっていても、腹の底から憎めないのだろう。
呼び出しの電子音の後、間もなく、応答の際の微かな雑音がスピーカーから聞こえてきた。
『今、開ける』
理香の感情の篭らない声がインターホン越しに聞こえ、自動ドアが開かれた。
足を運び、玄関をくぐりエントランスの中を行く。
広くて高い空間に重厚な応接セットが三つ、配置されているのが見えてくる。
今は誰もいない静寂の中、やたら大きく靴音が反響している。
何度か訪れたこともあり、システムについて途惑うことはないが、毎回居心地の悪さを感じるのは、自分がこれから先もセレブな住人にはなりえないとわかっているからだろう。
どんどん足早になる。
エレベーターに乗ってからも、理香にロックを解除してもらう。
ここは多重オートロックシステムが採用され、不審者が簡単に入り込めない仕組みになっている。
面倒っちゃ、面倒だ。
だけど理香の親は、ここだから安心して独り暮らしを許しているんだろう。
スムーズな上昇にそれほど高速ではないのかもしれない、と思いながらエレベーターの壁にもたれ掛かった。
これからあとにある理香の要求を思い、自然とため息がこぼれた。
動きが止まり、エレベーターの扉が開く。
視線を上げると、目の前で、理香が待っていた。
「来ないと思ってた」
理香は一瞬だけ笑みを浮かべた後、拗ねた顔をして俯いた。
そんな顔をしても長居はしない。
さっさと切り出してしまいたい。
「――話がある」
俯いたままの理香の頭を見ながら短く言った。
「それって、いい話? ……って、ちがうか、……そんな感じじゃないもんね」
理香は俺の顔を見ないで、どこか上の空で訊き呟いた。
俺は答えないまま佇んでいると、腕をふいに引かれた。
背中でエレベーターの扉が閉まるのを感じ、後戻りはできないと気持ちに踏ん切りをつける。
部屋の前まで歩くと、理香が指紋照合で部屋の鍵を解除した。ドアを開けると、また引っぱられる。
しぶしぶ華奢な背中の後に続く。
緩やかなウェーブがかかった豊かな髪が揺れるのを視界に入れ、玄関ホールから続く廊下の先から日の光りが漏れるのが見えた。
と、同時に華やかさを感じさせる匂いが俺の嗅覚を刺激した。
濃い薔薇の香り。
部屋の外では感じなかった匂いに気づかされる。
住む人や家庭によってそれぞれ違う匂い。自分の家だと案外わからないが、この匂いは嗅いだことがある知った匂い。
理香の匂いだ。
香水と化粧品の匂いが混じったような……で、あまり生活臭がしない澱みのない空気。
俺の部屋にはない匂い。
最近はほとんど帰っていないから、きっと埃っぽく篭った匂いがするはずだ。
ああ、そうだ。栞を迎えに行ったマンションの部屋で、初めて感じたのは、食欲をそそる食べ物の匂いがした。
監禁されていたにしては、清潔な匂いがしていた、と思う。
栞は、田崎さんのために食事を作って待っていたのだろうか。
今思えば、栞と田崎さんの暮らすマンションの部屋は、事件を連想させるような饐えた臭いでも澱んだ空気などでもなかった。
きちんと生活していただろう、そんな匂いだった。
実際に部屋の中に入った訳ではないからわからないが。
ま、あのあと、警察が入っただろうから、マンションの部屋の中はとっくに片付けられているのだろう。まさか、そのままになっているとは考えにくい。
栞のいたマンションは、田崎さんの持ち物だったらしいが、あの部屋は今、どうなっているのだろう?
自己逃避するように思いをめぐらせた。
事件扱いで、部屋に入ることも許されなかったから、栞の着る服さえも自由に持ち出せなかった。
それからすぐだった。事故の現場にあった遺留品が届けられたのは。
「ねぇ、なにを考えてるの?」
声が直接耳に入ってきて、思考を止める。顔を顰めて理香を見る。
考えが中断されたことへの不満と、耳朶を濡れた感触が這う気持ち悪さに怒りが込みあがってくる。
「やめろよ」
身体を捻って抵抗する。
背伸びして俺の体に巻きつけた理香の腕は思ったよりも力強く、固い意思を持った瞳が俺を見据えていた。
「心ここにあらずね」
アーモンド形の目は離してあげない、と言葉を持つほど、強さを滲ませていた。
これから出かけるために入念に施された化粧は、間近で見ても完璧だ。
どうしてこんな色気仕掛けで誘うような行動をとるのだろう。
不可解で仕方がない。
「離せよ。こんなことをするために俺を呼んだんじゃないんだろう?」
すでに耳から理香の唇が離れているにもかかわらず濡れた感触がいまだに残っているようで、自分の手のひらでごしごしと擦ってみる。どうにかして消し去りたい。
「ヒドイのね。……拭うなんて」
「子どもみたい」と、理香が不機嫌に呟く。
嫌なものは嫌。
子ども地味た行動と笑われようと、理香にどう思われようと関係ない。
俺は無言の返事で、強引に理香の腕を取って引き剥がした。
「で、今日はどう演じればいい?」
なんでも言ってくれ。
今夜で最後だ。
「……」
わずかに理香の顔が歪んだ。
俺はただ理香に負けるわけにはいかない。その思いだけでここに来たつもりだ。
理香に気持ちを残していないことをわからせなくてはならないのだから。
冷たい男と言いわれようがかまわない。
「また、いつものようにオトコに言い寄られているのか? それとも、お見合い相手が引き下がらない? どっちにしろ、そいつに諦めて貰うために俺が必要なんだろう。だけど、今日だけだ。……今日で最後だ。もう二度とやるつもりはない」
きっぱりと言い切った。
「……それが、匠の話なの?」
「ああ」
そうだ。
理香の瞳が俺の気持ちを読むように揺れた。
「あたしじゃ、駄目? あたしじゃ、匠を癒せない? ……彼女には戻れない?」
掠れた声。自信のない顔色のなか唇が震えている。
その震えが理香の心の弱い部分そのものに見えて、簡単に出る答えを、喉元で詰まらせた。
癒せない。戻れない。
その言葉を飲み込んだ。
俺は理香に気持ちはない。
はっきりさせなくてはならない、と思いながら、こんな、今にも崩れそうな女性だっただろうか、と振り返る。
脆さを隠し持っていながら強い仮面をかぶっていただけなのか。
俺の見てきたモノは何だったのか。
息詰まりを感じ、大きく息を吐いた。
俺は顔を横に振り、恋人同士には戻れないことだけを伝えるしかなかった。
「もう俺たちはとっくに終わっている。それは理香が一番わかっていることだろう?」
理香の視線が俺から離れ、虚空を彷徨った。
「そんなことない。終わってても、何度だってやり直せる。……そうだよね?」
つぶやきに似た言葉が疑問系となって弱弱しく発せられた。
なにを言っている。
それは一時期、恋人同士になった時もあった。
だけど、時間の合わないすれ違いから、付き合いをやめよう、と話し合い、円満に別れたはずだ。俺と理香の父親同士が会社を興した関係で切れはしないし、ときどき言い寄られるオトコや見合い相手を諦めさせる駒として使われることがあったとしても。
「ねぇ、そうでしょ? ……やり直したいんだもの。あたし……」
視線が交わった。
理香の瞳には俺が映っている。
さっきまではなかった激しい感情が、隠しきれないままキラリと光った。 理香の頬に涙がぽろぽろと零れる。
「欲しいんだもの。あたし、どうしようもないんだもの。……匠のことが欲しくて欲しくて堪らないの。あたしね、わかったの。もうほかの誰かなんて考えられない! 匠の代わりなんていらない――」
突き放していた理香の身体が激情に揺れ、ヒステリックな声があがった。と、同時に強く縋りつかれていた。
嗚咽ともつかない叫びが直に伝わり、そのままはね返すことなく受け止め、立ち竦むだけだった。
反射的にも動くことができなかった。
涙を見せられると弱いものだ。
脳が痺れたように働かなくなる。
でも、いくら酷い男と言われても、やり直すことはできない。
「やり直すとか、俺が欲しいとか、そういうのは違うだろう?」
緩慢な言い方になってしまう。
言っておいて、ほんとうにやり直すことはないのか? 言葉とは裏腹のことを自分に問いかける。
ああ、理香じゃない。それだけは確かだ。
俺の想い人は、栞だけ――。
栞は……。
患者と医者を越えた感情は…………。
いや、いまは考えることじゃない。
急に胸が苦しくなって、ため息を故意に吐き出した。
想うべきではない。
わかっているけど、欲しいのは栞だけ。
俺を欲してほしいのは、栞だけ。
すとん、と落ちた。気持ちがいいくらいに心が決まっていた。
「理香、悪い。やっぱり今日はここに来るべきじゃなかった」
胸の中で、すん、と洟をすする理香が俺を見上げ射抜いた。
「もういい。部屋に入って。……匠にも関係があるんだから。とにかく付いて来て!」
は? 何がもういい?
俺が関係している?
理香をいぶかしむ。
答えを急かしたくて睨みつけた。
理香は諦めたような顔でひと呼吸溜めたあと、口を開けた。
「あたし、妊娠してんの」
乱雑でいて、ふて腐れた言い方だった。
『妊娠』
思いがけない言葉に度肝を抜かれ、何度も頭の中で繰り返し反芻した。
真っ直ぐな理香の視線に捕まりながら、次の言葉を待った。
理香の手が俺の手を掴み、膨らみさえわからない柔らかなところに持っていった。
「……七週目、だって」
他人事のようにも聞こえる言葉なのに、やけにリアルだった。
手のひらに、体温が伝わる。
俺の子、なのか……。
一瞬、男として最悪な疑問が浮かび、喉の奥深くで引きつれを覚え、身体がじっとりと汗ばみ始めた。
(2010/07/30)