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 第四章 4.     by 匠 

 理香のまなざしが俺に突き刺さって離れない。
 痛かった。
 もちろん殴られたわけではないから、皮膚感の痛みではない。
 だけど、ズシリと身体に感じる鋭い痛みに固まっていた。
 辛い沈黙。凍りついた空気。
 色が付いているなら真っ黒な中。
 突然に、理香が大きなため息を落とした。
 たったそれだけで一歩後ずさっていた。玄関のドア扉に背中をぶつけて止まり、脱力する。
 俺って、こんな小さかったっけ?
「……そうよね、いきなり『妊娠した』だなんて聞かされて、びっくりしたでしょ。びっくりしないわけ、ないよね。ほんと、あたしだって、びっくりしたんだから。……引いちゃった?」
 ため息とともに、自嘲したような笑いが理香の口から苦しそうに漏れた。
「ほら。こんなとこに立っててもしょうがないからさ、部屋に入って入って」
 無理に明るい声をよそおった理香に背中を押された。

 リビングに入ったところで部屋を見回す。
 前に来た時と、とくに変わりはない。
 ソファーセットとテレビがあって、雑誌と新聞が置いてあるだけだ。目を引くのは、淡いピンクのひざ掛けが、そろそろ夏本番を迎えるというのにソファーに掛けられているくらい。
 理香に座るように促され、言うとおりに腰を下ろしてからも居心地の悪さに二度座り直して、顎に手を当てる。
 ああ。どうしたらいいんだ。
 混乱する頭を無理に働かせ、さっきの場面を思い出してみる。
 やり直したいという理香の気持ちを聞いたところから始まった。
 さらに妊娠という、とんでもない告白を受け、思った以上に俺はショックを受けている。
 現実を受け止めたくないって頭が拒否した中で、ただ、今は落ちつくべきだ、と自分に言い聞かせた。
 理香の精神状態が普通でないのなら先走らない方がいい。
 よく観察するんだ。意識を集中させる。
 視線で理香を追いかけた。
 理香は座らずにキッチンに入っていき、食器棚の扉開けた。その横顔は迷いない。カップを取り出すと俺の方に視線を寄こして口を開けた。
「コーヒー、飲むでしょ?」
「ああ」
 と、頷く。
 そういえば、薔薇の香りとは別にコーヒーの香ばしい匂いが漂ってきていた。
 対面キッチンの向こう側にいる理香が、コーヒーを注ぎながら、ふふ、と笑う。この場に似合わない軽い笑い。
 こっちの気も知らないで、よくも笑える、と思った。
「あたしみたいな女が、子どもなんて産んじゃいけないのはわかってるんだけど。どうしてなんだろ。どうしても産みたくなったんだよね。べつに好きな相手の子どもってわけでもないのに、ね。……なんで、あたしのところになんかコウノトリが来ちゃったんだろ」
 そうぽつぽつと呟いた理香の頬が涙で濡れていくのを遠目から見つめた。泣き笑う顔は、妙に痛々しかった。
「ほんと、うそみたい。……たった一度のセックス。……たった一度の過ちで、妊娠しちゃうなんて」
 溢れ出る涙をティッシュで押さえ、細い息を何度も吐いて、理香はなんとか落ちつこうとしているようだった。
 『過ち』と言った。
「過ちって……」
 なんだよ。
「匠。……じゃない」
 は?
「匠の子どもじゃない――」
 はい?
「ほっとした? 安心した? 自分の子どもじゃないってわかって。……もう、あたしとは関係ないって思った? でもね、そんな簡単に思ってほしくないから! あたしは、匠に抱いてほしくって、匠だと思って……匠の子どもだったらいいって、何度も何度も思った。今だってそう思ってるよぉ……っ」
 匠の子どもだったらよかったのに。
 掠れた声をしぼり出し、苦しげだ。
 理香は涙をいっぱいに溜めた瞳で俺を見つめていた。


 カチン、という硬質な音に顔を反射的に向けて、ハッとする。
 目の前にコーヒーが置かれて、理香がそばに来たことに気づく。
 理香も向かい側にカップを置くと、ソファーに腰を下ろした。
「コーヒー、ちょっと温くなっちゃったかも。ごめん。…………ごめんね。驚かせた、よね?」
「ああ」
 驚きがすぎて、気が動転している。我を忘れるほどに。
「ねえ。ひょっとして、自分の子どもじゃないかって、思ってくれた?」
 返事をせずに、理香を睨む。
「自分の子どもじゃなくて、よかった?」
 まだ言うのか。視線を外す。
 正直、自分の子じゃなくてよかった、と思う余裕なんてぜんぜんない。
「あ〜あ。匠ったら、反応薄すぎ。医者だから? 見事に何にも言ってくれないよね。ほんと、冷たいったら」
 理香の目には俺の心は映っていないのか。
 本当に、今はマニュアルなんてものがあったとしても、対処のしようがないほど、俺はみっともなくすくみ上がっている。
「いや、何て言ったらいいのか。……驚いて」
 そのあとが続かない。
 理香の目が何か考えるように細くなり、視線をテーブルに落とした。すん、と洟をすすって息を吸った。
「あたしだって驚いたよ。妊娠したってわかって、初めは産むことなんてひとつも考えられなかったし、刹那的に快楽に走った自分を許せなかった。妊娠なんて間違えであってほしいって思って、現実から目を逸らしてみたりして。……でも、考えれば考えるほど命の重たさに打ち震えて、失くすことなんて考えられなくなった。仕事あがりとか休憩時間、気がつくと産科に足を運んでてね。ガラス越しの小さな命を目の前にすると、可愛くて可愛くて、しかたがないの。今はもう、産みたいってそればっかり考えてる。……どうしても結婚できない相手だから、未婚の母になってしまうけど。絶対に産みたい!」
 理香の激しさはどうにも止まりそうになかった。 
 結婚できないってことは、親に反対されるような相手か、もしくは――。想像して、そうでなければいいと、考えるのをやめた。
 理香は、ある一点を見据え睨んでいる。
 意思をもつ理香の顔は力強い。その瞳を俺に動かし真っ直ぐに向けてきた。
「協力してほしいの。匠に。匠しかいないの。……だって、匠にしかこんなこと言えない。ほかに打ち明けられる人なんて、いない」
「協力、ってなんだよ。産みたいって言うけどさ。理香。おまえ、本当にわかって言っているのか?」
 表情を動かさない理香に聞かせる。 
「子どもを産むっていうのは、人の一生にかかわる大事なことだ。おまえも腹の子も、明るい未来があって幸せになれるなら言うことなんてないけど、そうじゃないだろ。理香の話を聞いていると自己完結にしか聞こえない。俺は簡単に結論を出さない方がいいと思う。相手のオトコには、きちんと相談したのか?」
「相談、なんてできる相手じゃないの。……法的に不利になるのはあたしの方だから。バレたら、まずいことになんの」
 ああ。やっぱり。
 相手は結婚しているオトコってことだよな。
 薄々感じていた答えが、理香の口からするりと出て、納得する。
 同時に、『不倫』という言葉も過ぎった。
 もしかして、認知も難しいヤツが相手なのかもしれない。
 どうすりゃいいんだ。
 それにしても、な……相手のオトコの立場で考えると、相談もなく、妊娠したから産みました、などと、さらっと済まされたとしたら、とんでもない話だ。
 もしも、知らないところで自分と血の繋がる子が生まれたとしたら、どうだろう。
 身震いする。
 俺なら、ありえない。あってほしくない。
 そう思って、重く感じる後頭部に手をやった。
「あ〜あ。ヤだな。あたし、こんな泣き虫なんかじゃなかったのに」
 もう、っと理香は呟き、ティッシュで目頭を押さえたまま、身体を縮めて小さくなった。

(2010/11/5)


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