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 第四章 5.     by 匠

「そんなに難しい相手なのか?」
 理香は眉を寄せたまま、こくりと頷いた。
「誰?」
「え?」
「相手のオトコって、誰?」
「ああ。……」
 気まずそうな顔をした理香は、続けずに俯いた。
 そして、言えない、とゆるく首を振った。
「じゃ、さ。これは答えられる? 大学病院の関係者?」
「違う」
 理香は間を空けずにきっぱりと答えた。
 と、いうことは、同僚でもなく、病院に出入りする人間でもないってことか。
 その表情を伺う。沈み込んだ理香は俺を見ているようで見てはいなかった。
「じゃあ、誰?」
 言えよ。
 沈黙の後。二度首を振ってから「教えられない」と、理香は言った。
 ふん。口が堅いのな。深く息を吐く。
 おそらく、俺の顔見知りではないのだろう。
 きっと理香の交友関係者であることが濃厚ってとこか。
 しばらく黙って見ていたが、ほしい答えが返ってきそうにないので方向を変えることにした。
「で、俺の協力が必要っていうのは、どういうこと?」
「うん。ただ、いっしょに食事をとってほしいの。週に一度か二度。あたしと付き合ってる振りをしてほしい」
 はい?
「振り? それは、付き合っている相手とは別れる、ということ?」
「べつにぃ、ぜんぜん付き合ってないから」
 は? こっちには理香の言っている意味が分からない。俺には、まったく愛情もないのにセックスだけしましたって聞こえるんだけど。
「まぁ、待て。そのオトコと付き合っていないのなら、おまえの妊娠に気づかないんじゃないのか? だったら、俺と理香が付き合う振りなんてぜんぜん必要ないだろ? それこそ意味がない」
 理香は持っていたカップを置き、慌てて胸の前で手を振った。
「そうじゃない! あたしはいつも親から監視されてて自由なんてない。気がつかないところで見張られてるし、親にはいちいち報告が行く――」
 理香の話をよく聞くと、マンションと病院の行き来すら、事件に巻き込まれないように身辺警護が付いているらしい。
 まだ今のところ、親は理香の妊娠には気付いていない、という。
「だからと言って、そう簡単には隠しきれないだろ。時間が経てば腹だって大きくなる。そうなった時、どうするんだ?」
 理香は顔をくしゃっと顰めて俺を見据えた。
「ただ、あたしは産みたいだけ。できるだけ時間稼ぎをしたいだけなの。産める時期までは絶対に隠し通したい。匠と親密にしている間なら騙せおおせる。だからお願い。あたしと付き合ってる振りをして!」
 分かってないな。
 理香は産むことばかりを主張するけど、問題はそんなに簡単なことじゃない。
「じゃあ。俺と付き合う振りをして、産んで、どうするんだ。理香のやろうとしていることは、相手のオトコや親を騙すだけじゃない。生まれてきた子をも騙すことになるんだぞ。父親を知らない子にしてもいいのか」
 エゴじゃないのか。そんなの。
「……それは――」
 それ以上は、言わせない。
「それに、出産した後のことは考えているのか? 親にはどうやって話をするんだ。俺と付き合っている振りをするっていうことは、俺の子だと想像するに固いだろ? なのに、俺の子じゃないと否定して、親をすんなり納得させられんのか?」
「親は説得する。時間がかかっても絶対に。匠には迷惑かけないから! それくらい、あたしにだってできるから!」
 口を尖らせて叫んだ。
 いざとなったら、DNA鑑定でもなんでもする、って。
 呆れて物も言えない。なんて勝手な言い草だ。迷惑ならもうすでにかけられているというのに。
 理香の瞳を見た。
 ぜんぜん人の話を聞けない顔をしている。
 今は駄目だ。何を言っても平行線を辿る。
 そんな理香といて、俺も平静ではいられない。
 理香の秘密を聞いてしまったことによる粘り気を含んだ逃れようもない空気にすっかりと飲み込まれてしまっている。
 持って行き場のない憤りに、俺は自分の頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
 なんとしても知られる訳にはいかない、妊娠の事実。
 なんの手立ても打たないまま、秘密を共有するという新たな関係を否応なしに結んでしまったのではないか。
 まだ見えない複雑に絡み合う人間関係に頭を突っ込まざるを得ない、切るに切れない理香との関係を、ただの腐れ縁と片付けるのか。
 片棒を担ぐには、重すぎだ。
「時間をもらえないか。考える時間を。それと、……理香、おまえは結論を急ぎすぎてやしないのか? 相手のオトコに話すことも考えてみろよ。おまえのことを愛した結果授かったんだろ。もう一度よく考えてみろ」
 理香は眉をひそめ唇をくっと噛みしめると、不機嫌に視線を逸らした。
 もうこれ以上、話をしても無駄だろう。
 俺はとっくに冷えてしまったコーヒーを、一気に喉に流し込んだ。
 ―― 何だっていうんだ。やり切れない。
 空になったカップをやや乱暴に置いた時。
 テーブルを挟んで座っている理香のカップの中が、ふと目に入った。
 液体は白かった。
 白い飲み物って言ったら、ミルク。
「なあ。それってミルクか?」
 理香はカップの中に視線を移すと頷いた。
 涙で充血した目を細め、両手で包んだカップを揺する。
「うん、ホットミルク。すこしだけお砂糖も入れて甘くしてるの。こうすると案外飲みやすいのよ」
 カップを持ち上げて、口に含んで見せた。
 肩から流れるようなウエーブヘアーは髪の根元から茶色にカラーリングされ、泣いたばかりなのに化粧もそんなに崩れなくキレイに施されたままだ。女性の色香が漂う雰囲気は、都会的で洗練されていて文句のつけようもない。そんな理香を、俺は首を傾げて見るしかなかった。
 母になるようには、とても思えない。
「初めてじゃないか? ミルクなんて飲んでるとこなんか見るの。そんな風に足を組んで澄まして座っているおまえが、ホットミルクなんて。ぜんぜん似合わないんだけど」
 コーヒーはブラック。一日に何杯もガンガン飲む理香が。
 可笑しくて笑いそうになってから、気づく。
 ―― 理香、おまえほんとうに本気なんだな。
「似合わなくって悪かったわね。でも、わりと美味しく飲めるもんよ。だって、三月にはママになるんだから。自覚も徐々にだけど芽生えてきたし。タバコだってすっぱりやめたし。アルコールももちろん。ねぇ、前のあたしだったら考えられなかったでしょ?」
 照れ笑いを滲ませた理香は、自分の腹を愛おしそうに撫ぜた。その仕草はまさに母性を感じさせるもので。
 俺は唸った。
 すっかり母の顔になって見えたから。
 理香が、ね。人の親になるのか。女は変わるもんだね、と感心した。

(2010/11/12)


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