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 第四章 6.     by 匠  

 とうに空になったカップは乾いてコーヒー色が染み付いていた。
 長居しすぎた。こきこきと首を左右に動かしてみる。
 今からどうするかな、とうんざりな気持ちを持て余しながら理香に顔を向けた。
「で、夕食はどうする? つわりは? 気持ち悪いとか、食べられないもんとか ――」
 ここにきてどうして優しいこと言ってしまうのか、自分でもおかしいと思いながら問いかけた。
 同じく空のカップを弄んでいた理香の手が止まり、視線を探るように寄こしていた。目を瞬かせてから、首を小さく横に振った。
「ううん。大丈夫。つわりって言っても、ちょっと嗅覚が敏感になったくらいで、とくに食べられないものなんてないから。それよりもいいの? あたしなんかといっしょにいて」
 大きな問題をぶつけてきたくせに、こうして引き下がったりもする。おかしなヤツだ。
「ああ。べつに。今夜はそのつもりで来たんだし」
 一応最後と思って来たのだけど。
 俺の気持ちを知ってか知らずか、理香はみるみる本来の調子を取り戻していった。
「じゃ、久しぶりにフレンチでも行く? 美味しいとこ知ってるから」
「まぁ。いいけど」
「野菜がたっぷり食べられるし」
「――」
 んだよ。野菜かよ、と憤慨する。
 空腹を感じていたところに、野菜なんて言われたからがっかりだ。野菜のフレンチをイメージしてみても、きっと訳もわからない高級な皿に、お上品に料理された彩のキレイな野菜がちょこんとのって、トリュフとむずかしい名前のシェフ特製ソースが見栄えよくかかっている。おおよそそんなものが頭に浮かんだ。
 ため息が出る。
 時間をかけて食べたわりに腹には溜まらず。結局、はしごすることになる。なぜか必ずラーメンが恋しくなって足を運ぶのだ。行く前から目に見えている。
 野菜じゃ腹が膨れっかよ、と。
 理香を無言で睨む。
 それを受け取った理香は肩をすくめ、ぷっと吹いた。
「そんなイヤそうな顔しなくても――。わかりやす過ぎ」
「ふん。野菜って言うからだろ。どうして、野菜? 俺にイヤがらせ?」
 野菜なんて、そう好きじゃないって知っているくせに。
「違う。あたしたちの健康のために。でしょ?」
 はあ? 健康イコール野菜? 安直だね。まったくバカらしい。
「それより、もっと、こう肉汁が滴った厚切りステーキとか、肉の甘みがじゅわっと溢れるハンバーグとか、霜降り肉のしゃぶしゃぶとか、そういうもんをがっつり食いたい!」
「ええ? それって全部、お肉じゃないのよ」
 そう。そう。俺は真剣に頷く。
「なんかさぁ、匠って揚げ物とか苦手って言うわりに脂肪ぎっとぎとのお肉が大好きだよねぇ。変なの」
 なにが変なものか。できるだけ食材をシンプルに食べる料理の方が断然美味いって。なにも油にドボンと漬けなくてもよくないか? 油まみれのものなんてごめんだし、野菜よりも肉。食った気のしない野菜なんてもの、食わないほうがましだ、と思っている。
「べつにいいだろ。肉がとくべつ好きなんだから、放っといてくれ。だから、野菜のフレンチなんてやめにして、焼肉にしない? 精がつくし」
「精って、……そんなもの、つけてどうすんのよ。イヤラシイ。それで今夜、俺の情熱を受け止めてくれ、って?」
「……おまえなぁ」
 理香の芝居がかった仕草に、呆れて否定する。
「妊婦が勘違いすんな。ほら。おまえもこれからは体力蓄えとかないと、さ。いろいろアレだろ? それに健康っていうなら、焼き野菜とって、じゃんじゃん焼けばいいし」
 理香は首を傾げて、わからないな、と呟いたあと頷き眉を下げた。
「はい、はい。わかりました。……じゃ。いつもの焼肉、行きますか」
 なんだぁ。結局、焼肉かぁ、と呟く理香を軽く無視してソファーから腰を上げる。
「焼肉! 焼肉!」
 軽口をたたいたものの、ああ、気が重い。浮上できないものを感じる。
 理香をきっぱりと突き放すことなんてできやしない。ましてや、知らん振りなんて俺にはできそうもないから。
 同じ職場で働く同僚として、気遣うところもあるだろうし。考える、とは言ったものの、道はすでに敷かれたも同然だ。
 しばらくは理香の懐に入って、相手のオトコが誰なのかを探る必要があるし、知った後のことも考えなくてはならない。
 どう考えても、理香ひとりが子どもを抱えて育てていくには状況が不利すぎる。
 たとえ相手のオトコが結婚していようとも、責任逃れをしていいことにはならないのだから。


 理香の愛車の赤いスポーツクーペに乗って、マンションの地下駐車場から外へ出た。
 夜の八時すぎ。
 空はすでに暗かった。
 タイヤが水を跳ね上げる音に「一雨降ったみたいね」と、理香が他人事みたいに呟いた。
「夕立か。一瞬だけだったみたいだな」
 フロントガラスに雨粒は見当たらない。路面が雨で光って見えるだけだ。
 ぼんやりと動く光りと建物を見て、会話らしい会話もなく、俺と理香は口を閉ざしていた。
 道路は家路に急ぐ車がつながっていた。少し進んでは止まり、滑らかに走ることはなかった。
 沈黙を破ったのは理香だった。
「匠、ずっと病院詰めでロクな食事してないでしょ。そろそろいい歳なんだから、気をつけなくっちゃ」
 それまで黙っていた理香が、なにか会話でもしようと言葉を投げてきた。
 なにも気詰まりは感じてなかったし、のってやる気にもなれなくて運転席にだけ視線を動かした。
 理香が言うとおり仕事柄不規則ではあるけど、ちゃんと三食はとっている。ロクなものでないにしろ、病院の食堂というくらいだから栄養は足りているはずだ。それに、そう歳をとったつもりはない。
「その顔、まだまだ俺はイケてる、って思ってるでしょ」
「は?」
「いい歳して、体に気遣えないのは問題よ。杜原せんせ?」
「はあ? なんだよ。いきなり。俺はぜんぜん若いって。ぜんぜん問題ない」
 顎を突き出して笑ってみせる。
「何言っちゃってんの? 『若い』なんてね、そんな言葉を使い出す自体、もうすでにおっさんの域に入ってるんですぅ。ねえ。匠ってさ、今年三十路なんだよ。自覚してる? やばいよ。超やばいと思うよ」
 理香はハンドルを握りながら、馬鹿にした笑いを立てた。
 なんだと? やばいだと?
「三十路、言うな。ほんっと、キレイな顔して嫌なことおっしゃいますね。長谷川さんは。言いたいこと、言ってくれちゃってさ。今に覚えてろよ」 
 最後の方の捨て台詞は、萎むほど小さかった。
 深く息を吐く。
 くっそぉ。おっさん、って言うなよ。
 はぁ。堪えるぜ。
 栞とは一回りも違うんだ。きっとアイツからしたら酷く年の差を感じているにちがいない。
 若いって、いいよな。
 それだけで、これからいくらでも道があるし、出会いだってさ――。

(2011/01/28)



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