完璧、渋滞にはまっていた。
車窓から見える景色は、なかなか動いていかない。ブレーキランプが赤く点りっぱなしだ。
時折、理香がため息を吐く。
どうしようもないな、とイライラすることを諦め、リクライニングを深く倒した。
都会の夜は、暗いといってもほの明るい。ビルの灯りが建物をくっきり浮かび上がらせて見えた。
退屈な空間。
車内のスピーカーから流れる曲に聞き耳を立てた。今の雰囲気をそのままになぞったゆっくりとしたメロディーがやけに気だるく聞こえて心地いい。晴れない気分ながらも指先でリズムをとってみる。
「ねえ」
「ん?」
「さっきから、うしろで携帯、鳴ってない?」
理香が右手で後ろを指し示す。
言われたとおり首を傾けて、耳を澄ました。
微かに震える音がセカンドシートの鞄から漏れていた。
「あ。ほんと。よくわかったな」
窮屈なシートベルトをすこしだけ緩めると、急いで鞄を引っ掴んだ。青く点滅している携帯を取り出す。
かけてきたのは、まるちゃんだった。
『杜原くんっ。大変! 大変! 大変っ!』
耳に当てた途端、飛び込んできたのは大きくて割れた声。迷惑なヤツ、と携帯を耳から遠ざけた。
「丸山ぁ、声デカ過ぎ。こっちは十分聞こえてるって。なに叫んでんだよ? ちょっとは落ちつけって」
いい大人が、そんな大声だして、うるせえよ。
『お、お、お、お、落ちついてなんていられないってばぁ! 栞ちゃんが、栞ちゃんが、いなくなっちゃったぁ――』
栞が? いなくなった?
『食事を取りに来てないって連絡が来て。部屋に行ったら部屋着がベッドの上に畳んであったの。それでね、ハンガーにかかってたはずの服がないの。靴だってない。もしかして、外に出たのかも。今ね、動ける人たちで病院の周りを探してるの。杜原くん、今どこ? ―― 栞ちゃんになにかあったら、どうしよっ……』
叫び声と洟をすする音が派手に聞こえ、切羽詰った様子が窺える。あとは、なにかを訴えるような言葉になっていないまるちゃんのパニクった声が携帯越しにあった。
ここでようやく車に乗ってのんびりしている場合じゃない、と悟った。
緊張もなく深くもたれていた背中を瞬時に起こして、座り直す。
頭では病院を出る前の栞を思い出そうとした。
今晩は病院にいないことを伝えたら、すこし寂しそうな顔をしていた。だけど、気にするほどではなかった。
あれから、栞になにかあったのだろうか。
嫌な予感に身体を強張らせた。急に胸がざらざらしてくる。
「栞がいないって、誰かほかに見た者はいないのか? 警備員に確認したのか? こんな時間に出かけるわけがない。自販機コーナーじゃないのか? ジュースでも買って飲んでるんじゃないのか?」
『わたしだってそう思ったから、すぐ見に行ったもん。だけどいなかったよ。それに、ジュースを買いに行く時っていつも部屋着でしょ? 服なんかに着替える必要なんてないじゃない。栞ちゃん、可愛いから誰かに連れ去られちゃったんじゃ……』
そこまで一気に言ってまるちゃんは堪えきれず、泣き出した。
「―― おいおい、連れ去りって、そんな訳ないって。丸山、泣いてないで、とにかく落ちつけ!……いいか。すぐに病院に戻るからな!」
最悪の事態を想像するまるちゃんに、やめてくれ、と首を振る。
つきあっていられない。
ありもしないことを言うまるちゃんに苛立ち、遮るように通話を切った。
栞、どこにいるんだ ――。
行く当てなんかないはずだ。
携帯を強く握り締める。
「ねえ。栞ちゃん? どうかしたの?」
運転席から理香が気遣わしげに聞いてきた。
「……部屋からいなくなったって」
理香の顔が曇る。
「え? どうして?」
どうしてだって?
どうしてなのかこっちが聞きたい。
「わからない。どうしてなのか。とにかく探さないと」
「わかった。このまま病院へ向かうわ」
理香はすぐに、左折レーンに入ろうと方向指示器をつけた。
栞のことを思う。
いままで病院を出たい、という言葉を一度も聞いたことがなかった。
一日を病院の部屋で過ごす単調な生活を不憫に思うことが度々あっても、それを意識して俺から言葉を掛けることはしなかった。外出を促してマスコミに嗅ぎつけられたら栞を晒してしまう。それだけは避けたかったから。
先延ばしにして、きちんと向き合わなかった。それがいけなかったのか。
本当は外へ出て行きたかったのかもしれない。
当初、栞にとって外へ出ることは特別に考えている節が窺えたし、病院から出られないことを不満に思っているようでもなかった。逆に、外へ出ることを恐れていると感じ取っていたほどで、自分から病院の外へ出て、姿を消すことなど考えにくかった。
でも、このところの成長を考えると、外へもなんなく出られるだろう。
普通に生活していれば、栞は高校三年生だ。買い物を楽しむ年頃にちがいない。飲み物を買うくらいのお金しか持ってはいないが、何かほしいものでもあったのかもしれない。
気持ちさえあれば、栞は自由だ。
いったい、どこに行ってしまったのか。
遠くに行かなければいい。無事でいてくれ、と願った。
微かにサイレンの音が聞こえる。
「救急車?」
理香の呟きに重く頷く。
これは、聞き慣れた救急車のサイレンだ。
この先で事故でもあったのか。だからこんなに車が進まないのか。
胸が早鐘を打つ。
こうしている間に、見つかった、という良い報告が入ってくれないか。携帯を祈るように見つめた。
「匠、大丈夫?」
こういう時に渋滞って信じらんないっ、と理香がハンドルに怒りをぶつけた。
まったく流れない車にさっきまでなかったイライラが噴出す。
気持ちはすでに栞にあって、早く探し出したい気持ちだ。
でも、飛んで行けるはずがない。前の車を鋭く睨みつけて踏ん切った。このままではいられない、と。
握り締めた携帯をジャケットの内ポケットに突っ込み、膝の上の鞄を掴んだ。
「悪いけど、俺、ここで降りるわ」
サイドミラーですばやく後方を確認すると、急いでシートベルトを外した。
「え? ちょっと ――」
理香の制止を聞かず、車から飛び出した。
着地した靴に水が跳ね上がった。
アスファルトが水に浸かっていた。
車の中では分からなかった雨の跡。この数時間の間にかなり降ったらしい。
今は水しぶきで足元が濡れるだとか、かまってはいられない。路面の水溜りにも躊躇せず駆け出した。
脳裏にはずぶ濡れで泣いている栞の顔が浮かんで、唇を固く噛みしめる。
一分一秒でも早く。栞に会いたい ――。
前へ前へと足を運んだ。
(2011/01/28)