高校三年の夏。
僕、
日誌を持って職員室に入ると、担任の机に真っ直ぐ向かった。
「日直の仕事、終わりました」
担任の
「おお。ごくろうさん」
差し出した日誌を受け取ると、たれ目気味の目をさらに垂れさせて、僕を見上げた。
「最近、仕事をセーブしてるのか? 授業中寝てないんだってな。俺の授業だけかと思ってたら、ほかの先生も同じこと言っててさ。評判いいんで担任としては鼻が高いぞ」
いつ見ても笑ってるような目元は表情がわかり辛い。けど、よく見るといつもよりも笑みが深かった。
「いえ。仕事のペースは変わりありません。でも、そろそろ休業しようと思っています」
「ああ。それがいい。受験も近いしな」
僕は青山に合わせて頷いておいた。
それから、二言三言、会話した。話が長引けば仕事に間に合わなくなる。そうなると困る。
そう思って気持ち後ろに下がると、それを合図に話は終わった。
青山はイスを回転させると、背中越しに手を上げて、気ぃつけて帰れよ、と言った。
下校のチャイムが鳴ってからしばらく経つ。
廊下を行くスリッパの忙しない音は自分のもので、ときどきすれ違う生徒がいても急いだ様子はない。静かだった。
とりあえず、日直の仕事で遅くなった分を取り戻そうと、早足で歩く。
つい最近まで、学校に通う意味なんてないって思っていた。授業なんてどうでもよかった。教師の言葉が子守唄に聞こえて、夜寝らんない分を昼間とっているようなもんだった。それなのに今では聞き漏らさないように集中して、教え方まで気に留めるほど。僕は変わった。
そうとは、誰にも知られていないと思っていたのに、心境の変化でもあったのか、と指摘された。案外あの担任も侮れない、と思った。
今日は放課後の予定が変わってがっかりしているけど、断る気持ちにはなれなかった。
急遽、撮影が入ったと、事務所からメールが入ったのが二限の後。
これから仕事場に向かう。
ここから事務所へは地下鉄を使って二十分。着替えて、撮影現場まではタクシーで行くとしてもギリギリの時間。
直に向かう訳にいかないのは、制服を着替えなくっちゃならないから。一応、校則でアルバイトは禁止されている。生活のかかっている者には許されているから、僕のような例外もあるけど。
この仕事は遅刻厳禁。穴を空けると事務所ごと契約を打ち切られるという有名なカメラマンのいる現場のせいで、自然と歩くスピードが上がった。
事務所には数え切れないほどの恩がある。正確には、そこの社長に拾って貰った恩が。
下駄箱からローファーをひっ掴み、靴を履いて顔を上げると、玄関付近で生徒たちが溜まっていた。
試験期間中。部活もないのに帰らない理由でもあったっけ? っと不思議に思って人溜まりを避けて校舎を出た。
校門まであと数十メートル。そこで、また生徒が固まっていた。
こんなところで何だろ?
いつもと様子が違うから足を止めると、浮かない顔のクラスメイトと目が合った。そのうちの一人、
「何? 帰らないの?」
あまり人とつるむのを好まない僕でも、三好だけは喋りやすかった。
「へぇ。おまえはあれ見て、帰る勇気あんのかよ?」
制服をゆるく着崩した三好は、眉を少しだけ挑戦的に上げて、視線を校門に向けた。
見るとなんてことはない。事務所の社長が腕組みして立っていた。
「見ろよ。ヤバそうな奴がいんだろ。誰か待ってるっぽくねぇ? わかんねぇけど、関わりたくないっしょ。でも、どんなヤツを待ってるのか知りてえし、おもしれえじゃん。しばらくここで様子でも見てよっかなーって」
三好の言葉に、なるほど、と頷いた。
社長は、シャツもスーツも黒。全身をびしっと黒で決めている。
サングラスで顔の表情は見えないけど、たぶん笑ってはいない。
「ほんと。あの顔、危険を感じるよね」
僕は聞こえないギリギリの声で呟いた。
そして、ひと呼吸してから、
「たぶん、待ってるのは、僕だと思う」
今度は聞こえるように言った。
三好はもちろん、ほかのクラスメイトも一瞬で顔色が変わった。
わかりやすいヤツら。明らかに引いちゃってるし。
「お、おまえ、大丈夫かよっ。こっから出たら間違えなくやられちゃうよ。裏門からの方がよくねぇ?」
慌てた声は、笑えるくらい裏返っていた。
「いや。大丈夫。僕の保護者だし」
「保護者?」
僕と社長を交互に見た三好は、ウソだろ、という目で、ごくりと喉を鳴らした。
その間に社長が僕に気付き、早く来い、と顎で催促したので、すぐに頷いてみせた。
この状況は正直逃げ出した方がいいかもしれない。けど、もちろん拒否るつもりはない。
「もう、行くけど、……そこまでいっしょに行く?」
見た目ほど怖くないよ、と誘ってみた。
三好とクラスメイトは、社長をもう一度見ると、無言で首を横に振った。好奇の目でいるクラスメイトに説明する暇もなく、止めていた足を正門へ動かした。
強面に黒服。社長は一歩間違えば異質な世界の人に間違えられる。損な風貌。
まさかびっくりするくらい腰が低いなんて、きっと誰も信じやしない。
表情を消した今は一見怖そうだけど、人を意識する時はもっと穏やかになる。使い分けのできる腹黒さを持っているからこそ、厳しい業界に長くいられるのだと思う。
「悪かったな。突然で。時間的に厳しいと思って迎えに来た」
そう言った社長が手を伸ばしてきたから、持っていた鞄を預けてついて行く。正門のすぐ横に、これまた避けられそうな黒色の外車が停められていた。
社長もプライベートから呼び出されたのか? ふだん乗っている仕事用の国産車じゃなかった。誤解される要素がふたつも揃っていてはしょうがない。
社長は後部座席のドアを開けて僕を急かした。背後にクラスメイトたちの視線を感じながら、神妙な顔を作って車に乗り込んだ。
明日にはきっと僕の黒い噂が飛び交うかも。
絆創膏のひとつでも顔に貼っていってやろうか。と、バカげた悪戯を思いついて、笑いが零れた。
「タケル。ずいぶん、楽しそうだな」
ハンドルを握った社長は、僕の顔を鏡越しに見て緩く顔を崩した。
撮影はノンストップで三時間。
だいたい二十パターンの服を着た。衣装を着てメイクして撮影。衣装をチェンジしてメイクを直して撮影。この繰り返しを黙々とやるのがスチールモデルの仕事。
雑誌『MEN'S C』の仕事は先々月で専属契約が切れたはずだった。
それなのに、鶴の一声で呼び戻されたと、知ったのは、今夜の仕事が終わる頃。
ふざけんじゃねー。とは、誰にも言っていない。
今は社長の車の中で、帰宅途中。
もう身も心もくたくたになって、シートに脱力した身体を預けた。革張りのシートの臭いがやけに気になった。
その一声っていうのは原田という人気急上昇中のカメラマンで、超最悪な男。セクハラなんて生易しいもんじゃなかった。
思い出しただけでも背筋がぞくぞくして手足の末端まで冷えてくる。
ちょうど仕事が終わって控え室に戻る廊下。後ろから呼び止められた。取り留めのない話を交わしてて油断していた。突き当たりまで押されるように歩かされて不思議に思って振り返ろうとしたら、いきなり背後から抱きつかれた。
目の前の部屋は資材の入った倉庫。入りきらなかったパイプイスが畳まれうず高く積まれていた。
人通りのある場所からは影になって、死角になっていると、気づいた時にはすでに遅かった。
原田の方が僕よりも体格がいいせいで身体の動きを簡単に封じられた。
原田の男色の噂を知らないわけじゃなかった。それなりに危機感も持っていた。 ――はずなのに。
密着した身体で、耳に温い息を吹きかけられ、焦りばかりが増していくのを感じた。このままではまずいやばい、と思いながら、このピンチをどう切り抜けるか、どこか隙がないか窺った。
気持ち悪さが耳だけで終わらないって感じたのは、股間を擦られた感触に気づいたからで、しょうじき驚きで目を剥いて固まった。 ――なんだ、これ。
原田の掌がわかったように動く。次第に変化していく自分の局部に抵抗することもできず、思考を完全に奪われた。まさか男に触られて固くなるとは思わなかった。時間が止まったくらいに長く感じられたし、逃げ出そうにも身体を動かすこともできず、息を浅くするだけで精一杯だった。
絶体絶命。
もうダメかも、と頭で思った。
『感じてる? 華奢なわりに君のモノは立派だね。このあと、時間ある? 俺の部屋に来ない? な。いいだろ? 君のとこの社長より巧いし、いい夢見せてやるからさぁ』
低くて艶のある声に囁かれた。
一気に紫がかった空気が膨張するのを感じた。止まっていた僕の時間が動き出した。
我を忘れるって、きっとあの瞬間だ。
社長がやって来なかったら、手近にあったパイプイスで原田を殴り倒していただろう。
今でもあの時の局部の感触が、たやすくよみがえってくる。
背中を丸めて目をぎゅっと瞑った。
気色が悪い。
ほんとは仕事なんてしている場合じゃなかったんだ。
僕は誰にも見せられない膨れっ面を作って、持っていき場のない気持ちを吐き出した。
(2011/10/26)