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 第五章 2.     by 深雪

 あんなことなら仕事なんて断ればよかった。
 ふつふつと怒りが湧き上がってくる。
 僕にとっては、大事な予定があったんだから。
 今日の放課後は、病院に行こうと思っていた。
 入院しているばあちゃんの見舞い。それと、ばあちゃんの隣の部屋の川本 栞と約束していた。
 この八月の高卒認定を受けるから勉強を見てほしい、と頼まれて、時間を見つけては病室に通っていた。
 入院してても病気に負けない強い心をもつ栞は、大学を目指している。偶然にも僕と同じ大学を。
 数学がわからなくて困っている、と、ばあちゃんが僕と栞の橋渡しをしたのがきっかけで、勉強を見るようになった。
 数学だけは得意だった。
 自分の勉強にもなるから、と主治医の杜原にも勧められたし、やってみると案外おもしろかった。
 栞は入院が長いのか、学校に通ったことがない、という。この日本に住み、学校に行けないというのは病気と言えどもほんとうに可哀想に思う。
 僕の思うふつうのこと? が、できない生活が、どんな風かわからないけど、栞は確かに知らないことが多いし、なんとなくほかと違うように思う。どこが? と言われるとうまく説明できないけど。
 それに、見た目も違う。
 病気だからそう見えるのか、日の光を浴びたことがなさそうな透き通るくらいの白い肌に、小顔な中のパーツひとつひとつがひどく整っている。
 だからって、とびっきりの美人でもない。やや広めのおでこが幼く見えるし、ちょっと身体が細すぎて色気はないし、伸びるにまかせた腰の下まである髪がぜんぜんイケテない。それだけで、暗い影を落としているように見える。
 ちょっと薄幸そうっていうのかな。
 それでも、栞は僕には眩しく映った。
 まっさらでスレていない、と感じたのが初めて彼女を見た感想だ。
 栞を見たまま視線を動かせなくなって、ばあちゃんにたしなめられたんだった。
 職業柄、見た目の美しさだけなら見る機会は多く、耐性もある。
 けど、内から溢れる出る美しい人はごくごく稀だから。
 僕は栞に惹かれたのかもしれない。

 僕は高校生であり、芸能人でもある。
 家庭環境がちょっと複雑でふつうとは違う生き方をしてきた。
 覚えてもいない小さい頃に、モデルデビュー。
 初出演は、オムツのコマーシャル。それから、衣料品のチラシ広告、おもちゃのコマーシャルや遊園地の宣伝ポスターなど、地味にやってきた。
 それに加え、中学からはスチールモデルの仕事を中心に、知名度もそこそこになった。
 大学に行こうと決めた頃。
 俳優の方へ方向転換した。
 タレント事務所の社長の持ってきたドラマの仕事も、得意でもないバラエティーの仕事も断らずに入れて。稼げる時にどんどん稼げ、と社長に言われたし、そのとおり休みなくやってきた。
 その結果、露出が多くなるにつれ、周囲の目もだんだん変わって、この春頃からは考えなしに出歩くことはできなくなった。
 だから、ばあちゃんの病室を人気のない病棟に移してもらえた時には、ほんとうに助かった。
 人通りの少ない救急外来を通ってばあちゃんの病室に行けることで、以前よりもずっと多く病院に通うことができたし、仕事と塾のない日には、栞に勉強も教えられる。
 なのに、今日はその勉強ができなかった。
 短い時間でいいから、栞に会いたかった。
 無防備すぎるほど真っ直ぐだから、作らないありのままの自分でいられる。
 大人ばかりの世界に踏み入れてから、ずっと本音を隠してきた気がする。苦しい、なんて思ったこともなかった。
 けど。
 上っ面だけの人間関係に疲れていた、と自覚して気持ちが軽くなった。
 何の計算も必要ない存在は僕の心の安寧そのもの。
 栞に出会って、僕は変わったのかもしれない。
 初めて対面した時。
 ありがちな好奇の目じゃなく、打算でもなく、目と目が合っても表情がまったく変わらなかった。ずっと緊張した顔で、僕の心の内を読もうとする観察眼だけを感じた。
 気心が知れてから、僕の印象を聞いてみた。あまりよくは思わなかったらしい。怖そうだけど、勉強は見てほしい。その一途な気持ちが勝ったみたいだ。
 僕にはまったく興味を持っていなかった。 そうばっさりと切られてがっかりしたのは僕の方だった。
 気づいたら栞は、僕のほんとうの名前を呼んでいた。
 数学のノートに書いてある僕の名前を栞の指先が辿り、『深雪』を指して、
「これ、なんて読むの?」
 一瞬、嫌な気持ちになった。誤魔化そうか、とも思った。
 けど。
「みゆき」
 女みたいな名前だろ、といつものように続ける気にはなれなかった。
 だって。そのあとの質問は、どうしてそんな名前なの? って聞かれるから。
 名前の由来も意味も教えてくれる人は、もういない。だから、ほんとうの名前なんていらない、とさえ思うようになっていた。
 なのに、栞は意外な言葉を続けた。
「深雪。ふ〜ん。いい名前だね。雪って白くて、清らかでしょ? その雪が一面に積もってて、太陽に反射してキラキラ光って見えるの。素敵な情景が目に浮かぶ」
 深雪にぴったりの名前だね。
 栞の細い指先がノートを滑った。
 僕の名前を呟き、文字を大切そうに撫でた。
 僕は、くすぐったかった。
 泣きそうになった。
 名前を呼ばれて心地いいなんて。
 深雪、という名前がコンプレックスで、ばあちゃんでさえ芸名で呼ばせてるんだから。それを知ったばあちゃんが驚いていた。
 栞は、あまりに自然に僕のことを深雪、って呼ぶから。
 覚えたての言葉を紡ぐように呼ばれては、やめろ、って言えなくなった。
 あまり口が巧くない僕は、勉強のことを話す以外、気の利いた言葉も掛けられない。
 ちょっとくらいは楽しませたいし、おもしろいことでも言えたらな、と思うけど。
 大抵、栞のおしゃべりに視線を交わして、頷くくらいになってしまう。
 そんな僕だから、栞もいつかは離れて行ってしまうかもしれない。
 過去に言われた言葉が今も耳から離れない。
『あたしのこと、好き? 愛してる? ねぇ。なにを考えてるの? ちゃんと言ってくれないから、あたしはずっと不安だった。もうタケルのことがわかんない!』
 あの時。
 たしかに彼女に愛情はあった。
 それを言葉にしたら、関係は良くなったのだろうか。
 思い出すと苦しくなる。同じことは、もう繰り返したくない、と思う。
 栞を大事にしたい。
 だから。
 もっと栞といられる時間がほしい。
 いつ休業に入れるのだろう。
 事務所の社長には、これからは学業優先、って言ってあるのに。仕事は一向に減らない。
 この間、映画を撮った。それを機にしばらくは休業して受験勉強に入ろうと思ったのに。映画の舞台挨拶。テレビやラジオを通じての宣伝。休業中の世に忘れられないための雑誌の対談連載。
 まだいくつか残っている。
「社長。休業のこと、どうなってる? そろそろ受験勉強しないとまずいんだけど」
 社長はバッグミラーで僕をちら、と見た。その視線は鋭い。
「わかってる。映画が一区切りしてからだ」
「じゃ、さ。夏休み中は、無理?」
「ああ。そうだな。終わってからだな」
「ふうん。映画撮ったら終わりじゃないんだ……」
 呟く言葉が尻すぼみになった。
「タケル。そんなに休みが必要か? 休まなくても大学の合格ラインに入ってる、って。優秀なんだって聞いてる。稼ぎ時を逃す手はない」
 そんなこと誰から聞いたんだよ、と社長を絡む。
「ん。……先生から」
「え。担任? 青山先生と面識あった?」
「いや。そっちじゃない。塾の……ほら、なんて言ったか? 女の」
 塾? ああ。あの。
 中年の神経質そうな先生。
 いつも目立たない服を着ている印象の薄い数学の講師。
 社長と話す機会があったとは知らなかった。
 塾に入りたての頃。
 眼鏡の中の目とときどき合った。無視しづらくて適当に返していたら、行き帰りに待ち伏せされるようになった。
 押し付けられた紙袋には、たいてい手作りのパンが入っていた。
 手作り、っていう点で食べる気がしなくて、いつも捨ててたんだけど。
 いつだったか栞に見つかって、
「捨てちゃうなら私が食べるからね」
 と、すっかり栞の胃袋行きになっている。
 あの細い体の、どこに入っていくのか。病院の食事だけでは足りないらしい。
 お腹が空くと売店でおにぎりやパンを買っている、って聞いてから、むしろ積極的に運んでいる。
 餌付け、みたい。
 勉強の合間のおやつを考えるのも楽しい。
「これ、なぁに?」
 栞の目の前に、おやつを差し出して見せる。
 すると、なかなかの反応を見せてくれる。
 僕の手の中の食べ物を見るキラキラの丸い目と、そろそろと手に触れる様は異星人さながらで、ほかにはないリアクションで僕を楽しませてくれる。
 はっきり言っておもしろい。
 病院にいるから? 栞は食べ物をろくに知らない。
 でも最近、食の好みが僕と似てるってことに気づいた。
 ちょっと甘い物が苦手なこと。辛い物が意外にイケルこと。
 自分の食べたいものを選んで持っていくだけだから悩むこともない。
 次は何にしようか。
 栞の喜ぶ顔が見たい。

(2012/08/17)


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