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 第五章 3.     by 深雪 

 仕事終わりは、車で送ってもらうことが多い。渋滞にイライラしないでいい電車は時短なようで、目立たないように息を潜める必要がある。疲れてる時はとくに人の目を気にしないでいい車は都合がいいし、こうしてのろのろと車に揺られるのにもずいぶん慣れた。
 明日は早く学校が終わるから、栞のところに行こうか。今日破った約束を怒っているかもしれないし。早く謝ってしまいたい。
 夕方までフリーだし、ゆっくりできる。
「タケル。もういいのか?」
 前からの声に引き戻された。
 声だけ聞くと人の良さそうなジェントルマン。ハンドルを握っているのはタレント事務所の強面社長。
「ん? 何?」
 ちょっとだけ不機嫌そうに返事した。
「いや。さっきまで怖い顔してたろ。もう気は済んだのか? って」
 ルームミラーに映る社長の顔の方が怖い。とは、言わないけど。
「何のこと?」
「気づいてないのか。今、笑ってたろ」
「……そうだった?」
「無意識にしちゃあ、いい笑顔だった」
 と、社長は機嫌の良さそうな顔で振り返った。
「……」
 栞のことを考えていたから。とは言えずに居心地悪く座り直した。
 僕はだいたい口数が少ないけど、仕事の後は疲れてさらに口が重くなる。社長も僕といっしょ。必要な言葉だけで足りると思っているふしがある。
 会話のない車の中は静かで音楽もテレビもラジオもない。音といったらエンジンや振動音くらい。思い存分物思いに耽ることができる。言わば車は僕のリラックス空間。
 だから、社長に指摘されたように無意識に笑ったり怒ったりしているのかもしれない。
 格好悪。
 次から気をつけなきゃ、と思い外を見た。
 車はすでに止まっていた。
 いつの間にか見慣れたマンションに着いていた。
 どんだけ物思いに集中してたんだか。笑える。
 エントランスからの灯り以外は、街頭がぽつぽつあるだけで、周辺は真っ暗だった。
「明日は、六時半に舞台挨拶がある。入り時間は五時ジャスト。迎えは? 要る?」
 社長の連絡事項は車を降りる時、決まって繰り返される。
「や。いい。明日は直に行く。学校は午前中で終わるから、ばあちゃんの病院に行こうと思ってる」
「そうか。わかった。遅れないようにな」
 社長と目を合わせ、ありがとう、を言ってから車を出た。
 足元で水音を感じて見た。側溝が水に浸かっていた。
 雨が降ったのだと思った。
 スタジオに入る前は晴れていた。ぜんぜん降りそうになかったのに。
 水溜りを避けようと歩幅を広げて縁石を跨ぎ、一度振り返る。社長の黒い車が夜に溶けテールランプが遠ざかるのを見送ってから踵を返した。
 マンション前の歩道の植木の隙間をぬう。制服のパンツの裾が木の葉に擦れて、水滴が散った。
 けっこう降ったんだな、と思った時。
 目の前で真っ黒な固まりが動いた。
  ――うわっ! なに?
 慌てて足を止め、夜目を凝らす。
 人、だった。
 こんな暗がりに人が座り込んでいるとは思ってもみなくて体が強張った。
 物騒すぎる。マンションの警備員は何してんだよ、と心の中で悪態をついた。
 ここは街路灯から離れていて、はっきりと顔まではわからない。
 ただ、シルエットがかなり髪の長い女に見えた。
 瞬間。
 無関心ではいられなくなった。
 体を屈ませ、眼鏡をずらして覗き込んだ。
 あ。
「しおり?」
 思ってもみない名前が、自分の口から飛び出した。
 栞が蹲っている。
 入院してるはずの栞が膝を抱えていた。
 栞と認識したと同時に、丸まった身体を引き寄せていた。
 冷たかった。
 雨の湿った匂いと柔らかな香りが立ち込めた。
 ぐっしょりと雨を吸った服が、こちらにまで容易に滲みてきそうなほど濡れている。
 長い間濡れているとしたら身体の芯から冷えているかもしれない。
「栞。濡れてる。風邪ひくよ。立てる?」
 額に掌を当てたり、栞の手を握ったりしながら、声をかけてみた。
 もう一度、名前を呼びかけた。大きめに。
 それでも、栞は動かない。声もなかった。
 暗くて表情がわからない。僕は自分が濡れるのも構わず、引っぱって立ち上がらせると街路灯の元へ誘導した。
 栞はどうにか立たされて、ひとりで立ってはいる。
 けど、微かな息遣いだけで、ひとこともしゃべらない。
 それだけじゃない。僅かな感情の揺れも見られなかった。
 具合が悪いようには見えないけど、明らかに様子がおかしかった。何かあったとしか思えない。
「栞。僕の部屋に来る? 濡れた服をどうにかしないと」
 それにも、栞は答えなかった。
 さっきから焦点の合わない目をしている。
 しかも僕をまったく映していない。
 強引に揺さぶってみても、固い殻に閉じこもったように、栞は動かなかった。
 訊きたいことがあるのに訊けない。僕はもどかしくて唇を噛みしめた。
 ただ棒切れのように佇む栞の両肩に腕を回し顔を寄せた。
 目と目を合わせようと近づいた。もう触れてしまいそうなくらい近く。
 すると、栞の唇が微かに動いた。――ような気がして、反射的に抱きしめた。
 聞きたくなかった。
 自分じゃない誰かを求めてるんだとしたら? そう思うと何故だか何も言わせたくなかった。
「栞。体が冷えてる。僕の部屋に行こ」
 一刻も早く温めないといけない、と自分に都合よく言い訳して。 少しだけ腕を緩めて栞の表情に変化がないのを確認して、抱き上げた。


 栞を抱かえたまま部屋に連れて入ると、センサーで玄関ホールの灯りが点った。自分の靴を脱ぎ散らかすと、まっすぐにバスルームに向かった。
 途中、廊下に行き当たった辺りで、栞の靴に気づき後退して、栞の足から濡れた靴を脱がせ、バスルームに引き返す。
 洗い場に栞を立たせて、湯が溜まるようにスイッチを押す。
「栞。服、脱げる? 早く体を温めないと」
 服を脱がすのは簡単だけど、一応女の子だし……。と、戸惑った。
 こんな時。
 ばあちゃんがいてくれたらな、と思う。
「栞。10数えて脱がなきゃ僕が脱がすけど。いい?」
 気を引こうと言ってみたけれど、栞はいっこうに反応しない。
「10、9、8、……7、6、5、4、……なぁ、栞? いいの?」
 続けるよ? と、栞の肩を揺すってみる。
「もう、あと3つ数えて返事しないなら、僕が脱がすから」
 それでも、ぼんやりと立っている。
 いい加減、焦れてくる。
「……3、2、1、……ゼロ」
 言ってしまった以上、もう、やるしかない。
 栞の血色の悪い唇を見て、このままではいけないとあきらめることにした。
「脱がすからな。あとで抗議しても受けつけないからな」
 断わって、きっちりと着込まれたカーディガンに手を掛けた。
 ボタンもきっちりとされているし、服も荒れてはいない。
 濡れて張り付いたワンピースを苦心して脱がしてみても、心配した乱暴されたような形跡は見られなかった。
 とりあえず、大丈夫そうで胸を撫で下ろす。
 少し気持ちにも余裕が出てきて、手を止めて見る。
 キャミソールが体に張り付いて、身体の線がしっかりとわかった。
 透き通りそうな白い肌が晒されて、誘っているようにも見えた。
 喉が鳴った。
 これは、まずい。
 視線を胸元に上げる、上げない、上げる、上げないで葛藤する。
 自分がガチガチに緊張していると気づいて動揺する。
 心臓の鼓動が早いし、熱くなってきた。
 指先が震えるし、喉がカラカラだ。
 この先を平穏に続ける自信がない、かも。
 どうしよう。
 あらわになっていない分、こっちの方が艶めかしく見える。
 余計な想像をしてしまう。
 目を瞑って、拳を握り、力を入れる。
 一度、止まって考えるからいけないんだ。と、絶対に見ない。と、念じて手を伸ばし次々と剥いでいった。
 まるでみかんの皮でも剥くように。
 それから。
 栞の身体にボディーソープを塗りたくって流し、長すぎる髪を持て余しながらシャンプーした。
 そうしていくと、不思議と厭らしい気分にはならなかった。
 あれだな、大きい赤ちゃんだと思えばいい。
 そんな風に開き直った。
 バスタブに浸からせて、栞の身体が温まるのを待っている間、目を離して溺れてもいけないし、かといって僕も湿った服のままでは気持ちが悪い。服を脱いで身体を洗うことにした。
 気がつかない栞が悪い、と僕を無視し続ける栞を少しだけ恨みながら。
 自分の頭から洗っていった。
「あ、れ? 深雪?」
 それは、突然やってきた。
 栞の声に吃驚した。悪いことを見つかった時みたいに飛び上がった。
 栞は湯船。僕は洗い場に立ってシャワーを頭から浴びせていた。
 栞は腕をお湯から出して僕を指差して「どうして今日は来てくれなかったの?」と、発した。唇をとがらせ拗ねた声で。
 気づいて初めての言葉だったから、僕は驚きすぎて目が点になった。
 栞としては、病院で勉強できなかったことを差して、言っているんだろう。
 けど。
「今、それを言う? この状況を見て驚かない?」
「ん?」
 僕を指していた人差し指を、栞は口に持っていき考えるそぶりを見せた。
「ほんとうに覚えてない? 雨で濡れてたから、風邪ひくと思って僕の部屋に連れてきた。で、栞の体を洗って、今、お湯に浸かってる」
 わかってる?
 栞は目をまん丸にして、首を傾げた。
 だいじょうぶか? 記憶喪失にでもなったのか?
 そんな心配を余所に、栞は眉根をほんの僅か寄せて俯いた。
 それから。
 思い出したみたいに石のように固まった。
 すぐにでも何があったのか、聞きたかったけど、口を開きそうにはなかった。
 しょうがなく、僕は視線を泡立てたボディーソープに移した。
「栞。お返しに僕の体でも洗ってもらおうかな?」
 どんな顔をして恥ずかしがるのか、わざと皮肉たっぷりに言ってやった。
 いい加減に気づいてよ。 お互い真っ裸ってことに。
 なのに。
「うん。いいよ」
 と、素直に頷いて、勢いよく立ち上がった。
 それは、それで衝撃というか。
 ふつうのはずの羞恥心がちらりとも見えず。逆に僕の方が逃げ出したい気分になった。
 想像していた反応は、可愛く悲鳴を上げたり? 「やだぁ見ないでぇー」とか? 叫んで華奢な身体を小さな手で一生懸命隠してみせたりして? 白い頬を真っ赤にして恥らうのが萌えポイントのような気がする。
 うん。それがふつうってものじゃない?
 それにしても、リアクションが下手すぎ。
 あ。
 もしかして、栞は自分の身体に自信があるとか?
 う〜ん。たしかに柔らかくて、すべすべで、とぅるんとぅるんの吸い付くような肌をしてて。ラインも細いながら丸みのある魅力的な身体だけど。
 なんだかなー。残念な感じ。 ため息が出た。
 多分、僕は栞が可愛く恥らう姿が見たかったんだ。
 と、気づいた時には、僕のほの温かい心が少しやさぐれていた。


 今。
 栞は僕のベッドで寝ている。
 ばあちゃん手作りの梅酒を拝借して薄く作ったものを飲ませると、瞬くうちに眠ってしまった。
 すぐに触れられる距離。
 寝返りも打てないくらい近くにいて、ふたりで横になっている。
 このシュチュエーションは十分おかしくなりそうな距離。
 なのに。
 危機感など露ほども見られない穏やかな顔。胸は規則正しく上下して、完璧な眠りについている栞。
 僕を信用してくれている、としたらかなり複雑だ。
 バスルームでのこと。
 僕の身体を、なんの躊躇もなく洗ってのけた。
 しかも、男のグロテスクだろう局部でさえ素手で、優しく、丁寧に洗ってくれた。
 あまりにもサラリと流されて、欲情する隙もなくバスタイムは終わってしまうという。
 みっともなく慌てたのは僕だけだった。
 非常に悔しい。
 なんだったんだ。あの手際のよさは。
 何にも知らなさそうな純真無垢な顔をして、男に慣れているなんて。
 このぐちゃぐちゃした気持ちが何なのか。僕にはわからなくて、栞に背を向けると無理やりに目を瞑った。

(2012/09/28)


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