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 第五章 5.     by 深雪 

「やだ。深雪といっしょがいい」
 ようやく目を覚ました栞は、起き上がったベッドの上で、我ままいっぱいの膨れっ面をして僕を困らせた。
 可愛いような、可愛くないような裏腹な気分だ。
 そう。これから栞をどうしよう、って考えているんだけど。
 ひとりでいるのは嫌。病院には戻りたくない、って言う。
 ひとりでいるのは、さみしいから?
 病院に戻りたくないのは、嫌なことがあったから?
 こっちの気も知らないで。訳わかんねえよ。やだやだばっか言ってさ。
 いったいどういうつもりなんだよ――。
「ここでひとりでいるのはやだ。深雪といっしょがいい」
 また言ってる。
 その間、僕はずっと睨まれたまま。僕の目を真っ直ぐ見据える栞の瞳に捕まっている。
 気が強い、って言うか、離れたら二度と会えない、って思っている節がありありで、僕は分が悪くなってベッドから退散した。
 制服を着て、洗面所に置いてた眼鏡をかける。おかしなところがないかチェックをしてて気がついた。鏡の中に、心配そうに僕を見つめる栞がいた。
「ねえ。いっしょにいちゃ駄目?」
 そういう甘いセリフはシーンを選べよ――。
「そんなこと言ったって無理なもんは無理。学校があるんだから!」
「……学校?」
 首を傾げてわからないって顔をしてる栞に、当たり前だ、と視線を逸らす。聞いてやれるお願いなら考えなくもないけど、物理的に無理だ。
 とにかく、終わりの見えないやり取りが馬鹿らしくなって、僕は栞を連れて学校に向かった。
 一縷の望みを掛けて。

 学校の裏門から数十メートルの場所に、ややくたびれたレンガ張りの喫茶店オータムがある。今時のお洒落なカフェとはほど遠い、喫茶店という名前が一番しっくりくる僕のお気に入りに栞を連れてきた。
 元はこげ茶色だったろう年季を感じる重厚な扉を引き、カランコロンと鐘を鳴らして扉をくぐると、軽やかなジャズが流れ、自家焙煎コーヒーの香りが鼻をくすぐった。
「おはよー。タケルくん。あら? 今朝はひとりじゃないのね」
 いらっしゃいませ、の挨拶じゃないところが常連の証。
 学校がある朝には必ず立ち寄るし、店主の 亜紀 あきさんの人懐っこい笑顔に迎えられると、若干気持ちも落ち着くような気がするから不思議だ。
「おはようございます。……ちょっと、いろいろあって」
 と、それ以上なんて続けようか困って息を吐く。
 振り返ると、緊張して固い表情の栞が僕の背中に隠れていた。
 さっきまで散々駄々をこねてたとは思えない悄然とした顔に笑いが込み上げそうになる。
 優しく栞の腕をとって「おいで」と促す。栞は大人しく、こくんと頷くと僕の言うままに従った。
 こんな風に素直に、ずっといてくれたらいいのに。
 いつも僕が座るカウンターに栞を座らせ、モーニングを二つ頼んで、僕も隣に座る。氷水のグラスが涼しげな音を立てて目の前に置かれて、顔を上げた。
「今日も暑くなりそうね」
 柔らかな人好きする笑みを浮かべた亜紀さんが僕から栞に視線を移して、口を開けようとしていた。
「初めてよね? 私はこの店のマスターで亜紀っていうの。よろしくね!」
 栞は俯き加減だった視線をおずおずと上げて亜紀を見ると、慌てて背筋をぴんと伸ばし息を吸い込んだ。これ以上ないってくらいに緊張した横顔は、可哀想なくらい強張っている。
「わ、わたしは、栞。……川本 栞、です。よろしくおねがいします」
 たどたどしい。たぶん栞の目いっぱい。生真面目に型どおりの挨拶なのがおかしいけど、頬がほんのり染まってて初々しい。って言うか、ちょっとずれてるところがおもしろくて揶揄したくなる。
 亜紀さんも同じように感じてるのかと思って見ると、目を瞠っていた。
「栞ちゃん。私はそんなつもりじゃなかったの。驚かせちゃってごめんなさい。緊張しないで? ね」
 亜紀さんは眉を落として、胸の前で掌を重ねて謝った。
 そして、飲み物は何にするか訊いてから、モーニングを作る手を忙しなく動かした。
 フライパンに片手で卵を割り入れ、皿を棚から取り出す。
 栞は亜紀さんのすることを目で追い、何か感心したような顔で見ていた。
 ほどなくカウンターのテーブルには、僕と栞のモーニングが並んだ。栞はアイスミルクティー。僕はアイスコーヒー。それぞれにトースト、ハムののったサラダ、目玉焼きがワンプレートになっている。
 食べ始めたところで亜紀さんは、それで? いろいろあったって? と、催促するような目で訊いてきた。
「そうなんです。栞は、ちょっと帰れない事情があって、ひとりにできなくて、連れてきたんですけど、……僕は学校があるしどうしようかって」
 正直困ってる、とは続けられなかった。
 それに、亜紀さんに話したら何とか力になってくれるんじゃないか、って都合よく思って来た、とも言えなかった。
 亜紀さんは、気遣わしげに栞を見てからもう一度僕に顔を戻した。
「学校、同じじゃないのね」
 制服を着ていない。僕は亜紀さんの視線に合わせて頷いた。
「そうねぇ。行く当てがないなら、うちにいる? 学校、今日は半日で終わりでしょ? それまでここにいてもべつに構わないわよ」
 その申し出は本当にありがたい。亜紀さんは、僕に同意を求めつつ、笑みを浮かべたまま栞を真っ直ぐに見た。
 栞は落ちつきなく僕と亜紀さんの間を見るだけで簡単には決めれない様子。横顔からはまだまだ警戒心が窺える。
「栞。亜紀さんが、そう言ってくれてるから、そうさせてもらったら?」
 強引かもしれないけど、学校に連れて行くことはできないんだから。
 栞は頷かなくても、僕の言うことを聞いて考えている風だった。
 焼きたてのトーストを頬張りながら、お腹を満たす。僕を見てるだけで、まだ手をつけてない栞にも食べるように勧めた。
 栞は何か言いたそうな顔をしながらも、ひと口トーストを齧って、また僕を見た。
「美味しい?」
「……うん。とても。わたし、お腹空いてたの」
 栞の頬が緩んで、ふわりとほころんだ。
 
 ふいに亜紀さんの背中にある勝手口が開いた。
「ママ〜。コーヒ〜」
 あくびを噛み殺した間の抜けた声とともに、亜紀さんの二人いる娘の一人、 春香 はるかさんが入ってきた。
 オレンジブラウンに染められたベリーショートヘアー。女性にしては長身で白いシャツ、黒い細身のパンツといった動きやすさ重視の格好をしている。
 亜紀さんはコーヒーのロートを取りながら振り返った。
「ママはコーヒーじゃありませ〜ん」
 亜紀さんはいつものように軽く返すと、娘のためのコーヒーを淹れ始めた。
 春香さんは亜紀さんの言葉に肩を竦めると、自分の食べるサラダをたっぷり皿にのせドレッシングをかけた。
「もう。いい大人なのに、小さな子どもみたいでしょ? 上の娘で春香っていうの」
 と、亜紀さんはフラスコに熱湯を注ぎながら栞に目線を投げた。
 栞は含んでいたストローを離すと、口元をちょっと上げて応え、亜紀さんの手元にあるサイフォン式のコーヒーに見入った。
 春香さんは客席側に出て来ると常連客と挨拶を交わしている。
 オータムの客の年齢層は高めで、独り暮らしのお年寄りが朝ごはん兼憩いを求めて集まってくる。
 春香さんはひとしきり朝の挨拶を終えると、定位置である僕の隣へやって来た。
「おっはよう! タケル」
「おはようございます」
 すっかり常連客に溶け込んだ春香さんに挨拶を返した。
 春香さんは、喫茶店オータムに隣接する美容院をひとりでやってて、たいてい今頃の時間に裏口から入ってきて、ここで朝食をとる。今朝も例外なくパンを齧りながら亜紀さんの淹れるコーヒーを待っていた。
 と、思ったら、僕を通り越して、栞を覗き見た。
「あれ〜? タケルが女の子連れてるぅ〜! スクープ、スクープ、大スクープ!!」
 春香さんは好奇心丸出しの黄色い声を上げた。
 それに驚いた栞は春香さんの顔を一瞬見ただけで、顔を俯け小さくなってしまった。
 それで隠れているつもり? 栞の人見知りはかなりのものかもしれない。
 それとは反対の明るく積極的な春香さんは、席を立ち上がると栞に向かった。
 あまり歓迎はしないけど、静観しようか、と横目で見守る。
「うひょ〜。髪長〜い!! お尻まであるぅ。すっごいキレ〜! ここまで伸ばすの大変だったでしょ。だけど、ちょい残念な感じ? この髪、あたしの手でステキに変身させちゃいた〜い!!」
 興奮して勝手なことを言っている。
 栞の長い髪を無遠慮に手ぐしで梳くと、角度を変えながら、今にもハサミを持ち出さんばかりに纏わりついている。
 あ〜あ。嫌がってるし、っていうか、どうしていいかわかんないってところか。
「春香! 止しなさい。食べてる時でしょ。お行儀が悪い! さっさと座って食べなさい」
 亜紀さんは、腰に手を当ててぴしゃりと言い放ち、淹れたてのコーヒーを春香さんの席に置いた。
「はいはい。わかってますって」
 これは職業病なんですぅ、とぶつぶつ呟いて席に戻る春香さんと、ますます小さくなっていく栞にため息を落とした。

 今度はレジの横にある扉が開いた。奥には、住まいのある二階につながる階段がある。
 僕と同じ制服を着た亜紀さんのもう一人の娘、高校二年生の 夏美 なつみが慌しく出てきた。
 髪は二つ分けの三つ編み。ひと目で真面目とわかる隙のない風貌は、春香さんとは三つ違いの妹で、姉の春香さんとは真反対の大人しい性格をしていた。
 無愛想でほとんど目を合わせようとしない。故に喋ったことも数えるほどだ。
「行ってきます」
 夏美は、赤い眼鏡を人差し指で上げると、やっと聞こえるだけの小さな声で言って僕の方を見た。それもほんの一瞬で、ふいと顔を背けて出て行った。
 相変わらず感じが悪い。
 どうせ僕のことは軽薄な芸能人だって、気に入らないんだろ。
「タケルくんもそろそろ行かないと、遅刻するわよ」
 亜紀さんに促されて壁時計を見た。八時半になろうとしていた。
「あっ。もう行かなきゃ!」
 僕は食べかけのトーストを急いで口に詰め込んだ。
「栞ちゃんは、ここにいて。本も置いてあるし、ゆっくりしてて」
 亜紀さんは、栞を気遣うように優しく言ってくれた。
 栞の方は亜紀さんを見てから、何か含む顔で僕を見た。手はアイスティーのストローを弄んでいる。
 いじいじしてるのな。
「栞。ここに居させてもらうといい」
 今はそれが一番いいような気がするし、ほかに選択肢がない筈。
「で、でも……」
 栞は取り縋る勢いで顔を上げた。狼狽えて置いてかれる子どもそのものだ。
「そうするしかないんだって。わかってよ」
 僕はなおも押す。
 栞はとうとう食べる手を置いてしまった。
 雲行きが怪しくなってきたか。
 亜紀さんは、いってらっしゃい、まかせて、と胸に掌を二度当てて笑顔で頷いてくれたけど、栞の表情はぜんぜん冴えない。小さな肩。長い髪に半分ほど覆われた身体。よく見ると膝に置かれた両手の指先は小刻みに震えていた。
 可哀想になってくる。
「ほんと、ここなら安心だから」
 分かってよ。
「……」
「ぜったいに迎えに来るから、ここで待たせてもらってて」
 たたみ掛ける。
「そうしなよ。あたしもいるからさ。ここで遊んでようよ」
 事情を知ってか知らずか、春香さんが口を挟んだ。
 栞以外、意見が一致してるってことがおもしろくないのだろう。栞のむっとした表情も、口の端っこが強ばったままなのもしょうがない。
 知らない人のところに置いていかれる気持ちが、どんなにか心細いかもわかっている。
 けど、今はいっしょに居てやれない。
「ごめんな」
「……わ、わかった」
 栞は諦めたように項垂れた。
 うん。がんばれ、と応援する気持ちで栞の頭のてっぺんを撫ぜ回した。栞の長い髪がされるままに動く。
「じゃ。行ってくるから」
 栞は分かりやすく萎れている。
「タケルくん。行ってらっしゃい」
 亜紀さんの笑みに、よろしくお願いします、と返す。
「い、行ってらっしゃい」
 扉の取っ手に手を伸ばしたところで、行ってらっしゃい、と聞こえて、足を止めた。
 精一杯言ったらしい声に振り返ると、カウンターチェアーから立ち上がった栞が手を振っていた。
 行かないで、とも。いっしょに連れてって、ともとれる顔は決壊寸前だった。
 まいる。そんな顔されたら行けなくなるだろ。
 時間のないことなんて簡単に忘れてしまえる。
 見かねた亜紀さんに窘められなかったら、完全に遅刻だ。
 学校に行きたくなくなるくらい破壊的な涙目に見送られて、もう一度、栞に学校が終わったら一番に迎えに来ることを約束した。
 栞の『行ってらっしゃい』を胸の中で反芻しながら、僕は喫茶店オータムを飛び出し全力疾走した。

(2013/05/31)


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