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 第六章 1.     by 栞

『また、来てね』
 そう笑顔で送り出してくれたオータムの亜紀さんの顔を思い出して、私の顔がひとりでに緩んだ。
 あんなに笑ったのも、あんなに戸惑ったのも、生まれて初めて。
 明るくて優しい人だったな。
 自然と足取りも軽くなる。
 病院に向け、深雪と歩いている。
 ここから見えるあっちの先までずっと高さのある建物があって、顔を上げると空が小さく見えた。
 昨日の雨が嘘のように、晴れ間が広がっている。
 足元でカサリ、と音がした。歩いている自分の足に手に持っていたものが擦れたのだ。オータムから出る時に渡された手提げ袋。
「これ、何が入ってるのかな?」
 私は手提げ袋から顔を上げて、前を歩く深雪に目配せした。
 深雪は運ぶ足を止めると、こちらを向いて首を傾げた。
「さあ。何だろ。気になるよな。でも、……開けるのは病院に戻ってから、だってさ」
 深雪は目を細めて、口端を微かに引き上げて見せ、すぐに興味を失ったように私から目を逸らした。
 深雪は、顔の表情がほとんど変わらなく見えるけど、瞳は驚くほどの感情を伝えてくる。だから今、何を考えているのか容易く分かってしまう。
 分かりやすくって、嫌になる。
 こんな感情は今までに感じたことがなかった。
 雄吾は、私に意地悪な顔を見せたことがなかった。私のわがままにも眉を下げながら困ったように笑っていたし、褒めてくれる時はくしゃくしゃに顔を崩して喜んでくれた。
 いつも静かに笑っている顔しか思い出せないくらい。ずっと笑顔だった。
 匠は、表情が豊かなようでいて、肝心の心の中が分かりにくい。本当の心が知りたくなる。
 ――私のことを、どう思っているの?
 知りたい。
 けれど、知りたくない。
 だって、知ってしまったら、これまでと同じではいられない。
 すごく怖い――。
「栞? 行こっ」
 はっ、と。
 考え事から覚めて、深雪の背中が視界に入り込んだ。
 背中が、そんなに中身が気になるなら早く病院に戻りなよ、と言っているみたいで、私は我慢できずに両足を広げて踏みとどまった。
 ――もう一歩も歩いてやらないんだから!
 ため息をわざと大きく吐き、手元に目を落とす。髪を切ってくれた春香さんから渡された手提げ袋をまじまじと見る。開口部全面に貼られたテープを。中身の分からない袋の持ち手をぎゅっと握り締めた。
『お家に帰ってから見てね。すぐに開けちゃ駄目よ。帰ってからひとりで開けること! 約束よ!』
 春香さんに強く念を押された。
 何が入っているのか早く見てみたい気がして、ゆるく振ってみた。カサカサと軽い音がする。その音だけでは何が入っているのか分からない。想像してみたけれど何も浮かばなかった。
 顔を上げなくても深雪との距離が次第に離れていくのが足音でわかった。行かないで、とは言いたくない。
 精一杯の反抗で顔を上げて前を歩く深雪の後姿を睨みつけた。
 止まっている私を知ってか知らずか、どんどんと姿が小さくなっていく。
 距離がどんどん開いていく。
 嫌っ!
 焦って声を張り上げた。
「私、病院に帰る、から!」
 叫んでからも、本心では帰りたくない、と思ってしまう。
 私の胸の中は、どんよりと曇っていた。重苦しいだけじゃなく、心臓の音が聞こえそうなくらい打ってその場を動けなくなった昨日を思い出していた。
 あんな気持ち、知りたくなんてなかった。
 ざわついた心に支配された自分を。認めたくないと思う醜い気持ちなんて。

 ガラス張りの医局の中で、匠は看護師の長谷川さんと抱き合っていた。私といる時とはぜんぜん違う顔をして。私には決して見せない顔で。
 胸が押しつぶされるように痛んだ。
 出かける、と言った匠の後をこっそりと付けてみれば、知らない建物の中に入って行き、どれくらいか後に匠は長谷川さんの運転する車に乗って行ってしまった。
 みんなみんな私から離れていってしまう。
 お父さんもお母さんも。雄吾も。
 それから、匠までも。
 さようなら、ばかり。
 深雪とも?
「ここで、さようなら?」
 小さく呟いた。
 その届かないと思っていた声を深雪は拾ったらしく、びくりと振り返った。不貞腐れた目をしている。
 けれど、視線を合わせた途端、ちょっとだけ安堵の表情になったのを、私は見逃さなかった。
 深雪も、帰れ、って思っているのだ。
 不快感でいっぱいになり、私は深雪に向かって駆け出した。
 言葉では『さようなら』と言ってみたけれど、望んでいる訳ではない。むしろその反対だ。
 その場で留まっていた深雪を両手で捕まえた。
「なに? どういうこと? ここで、さよなら、じゃないの?」
 頭の上からうろたえたような慌てたような声音が降ってきた。
「だ、だって、深雪が急に私から離れて行っちゃうんだもの」
 置いて行かれたみたいで、嫌だったんだもの。
「そっちが言ったんだろ。さよなら、って」
 突き放すような言葉とは逆に、抱きしめられていた。
 深雪に包まれて、本心が溢れ出す。
「……思ってない。ほんとうは行かないで、って思ってた」
 ひどく焦った声になってしまったけど。
 そう返したら、ますます強く抱きしめられた。
「そういう時は最初っから素直に、行かないで、って言えばいい」
 優しく諭すような声音が私に沁みこんでくる。
「な。もう一回言ってみて」
「え」
「行かないで、って言ってみて」
「ん。……行かないで?」
「……」
「もう一回?」
 深雪の顎先が私の頭の上に押し付けられた。
「行、か、な、い、で」
 少しの間のあと、大袈裟にはぁー、と息を吐いたのは深雪。
「あ〜あ。棒読み」
「なに? それ」
 棒読み?
 訳が分からなくて、深雪の胸の中で深雪を見ようと身動ぎする。
 もう。いい加減に放してよ、と反論しようとして、深雪の鼓動に気付く。
 深雪の着ている白いシャツから伝わる熱と微かな汗の匂い。
 大きく早く打つ心臓の音に胸を寄せた。

(2013/12/26)


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