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 第六章 2.     by 栞

「深雪。心臓の音がする」
「……」
「すっごくドキドキ言ってる」
 深雪は私の身体を押して離れようとした。
「はぁ〜。もういいだろ。あ〜。暑い! 暑いから離れろって」
 深雪は私の身体を押しやり後ろに下がろうとするから、私は深雪に逃げられないように手を掴んで見上げる。
 罰が悪そうに深雪は繋がれた手を見ている。
「手、汗かいてるし。暑いよ」
 暑いからって、手を繋ぐのを嫌がって、手を捻って離すそぶりをする。
 さっきは私のことを抱きしめたのに。なによ。
「いいの。このままがいいの」
 手に力を込めて深雪を離さない。
「なんだよ」
 不服そうな顔で私を見下ろす深雪ににじり寄る。
「逃げないでよ」
「べつに。逃げてないけど?」
 深雪が怒ったみたいに睨む。
 睨まれて思う。
「……逃げたのは、私の方、か。……だけど、もう逃げない。もう逃げたりなんかしないから」
 自分に言い聞かせるように繰り返した。
 深雪ははっきりした目を大きく瞬かせると、言葉の続きを促すように私の顔を覗き込んだ。
 けれど、それに応えるつもりはなく、私は何から逃げようとしたのかは言わなかった。
「ふうん。逃げるの、やめたんだ」
 深雪も何から逃げたのか、深くは訊かなかった。
「うん。逃げない。もう、後悔したくないから」
「ふうん。案外強いのな」
 強いのとはちがう。
 強くはないけど雄吾に誓ったこれからのために、私は強くなりたい。
 勇気を出そうと決めたのだから。
「栞さ」
 深雪の生真面目な顔。
「うん?」
「……体のどこが悪いの? 何の病気?」
 繋がった右の手に力を込められて、気遣われているのだと知る。
 握られた私の掌はただ単に暑いからじゃなく、熱をもって火照っていた。
「病気じゃないよ。私はどこも悪くない。健康だもの」
「は? 病気じゃないって? わかんないな〜。入院してるんだから病気に決まってるし」
 素っ気なく言ってから「こっちは心配してんのに」とひとり言みたいに呟いた。
「……」
 何て答えればいいのか、わからない。
 テレビのニュースや週刊誌に取り上げられるほど話題になった事件のことを。引きこもって外にも出られない弱かった自分のことを、どう説明すればいいのか。
「何?」
「んと。今はうまく話せそうにないっていうか。……でも、……いつかは話したい。深雪には聞いてもらいたいと思ってるから」
「……ふうん。わかった。いつかな」
 深雪は私の顔をまじまじと見ながら頷くと、それきり追求されることもなく手を引かれて歩いている。
 細い道を折れると病院のある通りだった。オータムと学校と病院が、そう離れていないところにあることがうれしくなる。朝は歩くのに一生懸命で、気付かなかったけど。
「オータムと病院って、近いんだね」
 私は歩いてきた道を振り返った。
「うん。近いよ。ってゆーか、僕の住むマンションも病院のまん前だし」
 だから「いつでも来ていいよ」と言ってくれた。
 深雪の柔らかな瞳は真摯な色をしている。
 私は温かい気持ちに満たされて、笑顔で頷き返した。

 病院のある通りは大きな道で、車と歩行者用に分かれて並木道になっている。なんていう木々なのか知らないけれど、大きな葉っぱを広げ、眩しい太陽を遮ってくれている。
 夏の強烈な日差しさえなければ、外を歩くのもいいものだ。
 あちこちに視線を向けながら行くと病院が見えてきた。近づくとともに暗い気持ちになっていく。何度も息を吐き出した。
 立ち止まった深雪を見上げると、心配そうに私を見ていた。
「さっきからため息ばっかり吐いてる」
「ん」
 話すことも鬱陶しく思えて言葉なく頷いた。
「病院、黙って出てきたんだろ?」
「うん」
「病室までいっしょに行こうか?」
「ううん。平気」
 ひとりで出てきたんだもん。ひとりで帰れるに決まっている。
 何度か深雪は「部屋まで送っていく」と言ってくれたけど、結局、深雪のマンションの前で別れた。
 無理に笑っていることを悟られたのか、
「そんな顔するなよ。あとで行くからさ」
 と、深雪は急に優しい表情で私の背中を押した。


 病院の夜間出入り口に救急車が止まっていたので、大きな入り口の自動扉から入った。
 ロビーは診察時間外で電気がところどころ消えていて閑散としている。
 すぐの売店にはひとりのお客さんとお店のお姉さんがいた。そこを素通りして、階段を上がって、さらに渡り廊下を歩くと外来と入院病棟を隔てたガラスの扉に突き当たった。そこまで来ると、ほとんど人と会うことはない。
 医局を覗いてみたけれど、誰もいなくて静かだった。
 この時間、匠は大学の方に行っている。
 部屋に戻るしかなく、部屋着に着替えて匠を待っていようと思った。
 春香さんにもらった手提げ袋を机に置くと、のろのろと手足を動かして着替えた。
 外に出たからか、ひどく疲れている。
 時計を見ると、病院を出てから二十時間くらい経ったことになる。
 ベッドに腰を下したからか、だんだん眠くなってきた。
 匠に会いたい。それに、深雪が来るって言っていたし、勉強もしなきゃならないし、紙袋の中身も知りたいのに。
 急速に迫って来る睡魔に抗おうとすればするほど瞼が重くなり、そのうちに意識が薄れていくのを感じた。


 次に気付いたのは、ベッドの上だった。
 あれから眠ってしまったんだな、と思ったのと、なんだかすごく身体が熱くて、口の中が乾いて気持ちが悪かった。
 息が苦しい。
 背中がすごく痛いし、ひどくだるい。
 眠りから覚めているはずなのに瞼がものすごく重たくて開けていられなかった。
 身体を動かそうにも力が入らず、身体から力が抜けてしまってふにゃふにゃだ。
 どのくらい寝ていたのか、時間の流れもよくわからないままだったけど、私のそばにはずっと誰かが居てくれた気がする。
 頭を優しく撫ぜる感触が気持ちよくてそのまま身をゆだねた。
 夢の中。
 私にとって都合のいい言葉が、次々と繰り返された気がする。
 これ以上ないってくらいに、幸せな気持ちにさせてくれた。
 甘く囁く声に蕩けてしまいそうだった。
 声の正体を知りたいのに、瞼はくっついたまま。
 けれど。
 この優しい手の持ち主は見なくても知っている気がする。
 唇には温かで柔らかな感触がして、あまりの心地よさに目を覚ましてしまいたくないとさえ願った。
 匠。
 ずっとこのままでいたいよ。

 ずっとずっといっしょにいたいと思った。
 想う気持ちはいつまでも持っていてもいいよね。
 いっしょにいることが叶わないのなら、今は離れるしかない。
 結局。
 私は子どもすぎて自分の居場所すら決めることができないのだ。
 与えられたことは、外の社会に触れて勉強をしてたくさんの知識を得ること。
 いつか匠の隣に寄り添えるくらい誰からも認められる大人になりたい。
 それまで、どうか私のことを忘れないで――。

(2013/12/26)


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