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 第六章 3.     by 栞

 病院を抜け出したあの日から約一ヶ月。
 私は匠を呼び出した。
 夜ではなく、昼間に。
 昼間ならなんとなく冷静に話せる気がしたから。
 午前の診察の後。
「ほれ。丸山から。おやつを渡してくれってさ」
 パッケージにはバナナの絵に『見ぃつけたっ』とある。
「あ、ありがとう」
 この見た目、またまた甘いに違いない。まるちゃんセレクトのおやつはほぼ毎日やってくる。一度だって同じものがない。この世界に甘いおやつはどれくらいたくさんあるのか、考えるだけでも気持ち悪くなるなんて、まるちゃんには絶対に内緒だ。
「へ〜。ちゃんと勉強してんだな。どれ、どこか分からないところでもあったのか?」
 匠は数学のテキストと広げているノートに目を留めていた。
 私は高卒認定の試験を目前に控え、なるべく多くの問題を解こうと机に向かっていた。
 もしかして、勉強を教わりたくて呼び出されたとでも思ったのだろうか。
「へ〜。発展問題か。むずかしいのをやってるんだな」
 匠は並んで勉強するのに置いてあるもうひとつのイスに座って、こちらに身を乗り出してきた。
 今にも触れそうな距離。息が詰まりそうになって、焦ってイスを引いた。ギイッと変な音がして身をすくめた。
 ああ。どうしよう。
 ――変に思われてないかな?
 思えば思うほど、顔を上げられなかった。たぶん髪の毛が隠してくれているけど。――顔が熱い。
「どの問題? 言ってみ?」
 私は口を噤んだまま首を横に振るだけで精一杯だった。
 出会った頃は、自分の身体になんの変化もなかったのに、と思う。
 だいたいいっしょに勉強する深雪が隣にいても何ともないのに、匠がそばにいるって意識するだけで身体全体が心臓になったみたいにドキドキするし熱くなる。この不自然な状態に戸惑っても、匠がいてくれるのはこれ以上ないってほどうれしいし、これが好きという気持ちなんだろう、と。
 匠への想いに気付いてしまった私ができることは、これ以上匠を困らせないこと。
 このままずっと病院にいられないことも、匠が自宅に帰れないくらい縛り付けていることも、ちゃんとわかっている。
 だから。
「あのね。話っていうのは……」
 話の糸口をようやく切り出せたのに、頼りなく消えそうになる。膝の上の手を握り締めた。
 しっかりしないと。
「わ、私、さなえさんのところに行く」
 言葉が力んでしまったけど、思ったよりもはっきりと言えた。
 けれど、匠の反応を見る勇気がなくて、相変わらず俯いたまま。
 髪の毛先が頬を撫でる。
 さなえさんに初めて会った日から、さなえさんは何度も電話をしてくれた。
 私の気の進まない気持ちを察して、何てことのない日常のひとこまを話のタネに、今日はどんなことをした、とか、昨日作ったケーキがおいしくできた、とか、誰と誰がケンカして仲直りした、とか。
 電話の向こう側のさなえさんは、きっと目尻を下げて柔らかに笑っているんだろうな、と想像したりして。
 そして、ほんのときどき、お誕生日会をするから、あゆちゃんが私に会いたがっているから、と言っては、巧みに私を誘い出そうとした。
 私は、というと、相変わらずで返事を渋ってばかりだったけど、ひとりで病院を抜け出したあの日を境に、『聖母マリアの家』で暮らすのもそう悪いことではないと思うようになっていた。
 ほかにも、匠を始め周りの人たちの優しさに触れ、励まされたから。
 匠と離れてしまうなんて嫌だけど、私は病院を出て、さなえさんのところに行こうと思えたのだ。
 その決意を固めても、実際に言葉にするのはすごく勇気がいった。
 震え出しそうな指先にもう一度力を込めて、顔を上げた。
「退院したら、『聖母マリアの家』に行く」
 匠は吃驚した顔をしていた。頬から顎にかけて髭が伸びてきている、と思った。髭を剃った方が清潔に見えるし、その方が白衣が似合うのでは? そういうことはなかなか言い出せないんだけど。
 視線が絡む。
「そうか。……決めたんだな」
 「とうとうきたか」と匠は噛みしめながら呟いた。
「いつかこういう時が来るって分かってたんだけど、実際言われると、さみしいもんだな」
 匠は泣きそうな顔をして、弱い笑みとともに手を差し伸べられた。
 握手は、お互いの気持ちを伝え合うコニュニケーションのひとつ、と言ってたびたび求められることにも慣れてきた。
 私はそれに応え、おずおずと握り返した。
「匠、ありがとう」
 感謝するには、ぜんぜん足らない言葉だって分かっている。
 手を握り合って笑みを交わしたのは、ほんのつかの間。
 つらくなって目を逸らしたのは私から。手を離したのも私から。
 なのに。
 匠は私を引き寄せ自分の懐に押し付けた。
 少しくたびれた白衣から汗と匠の匂いがして、ツンと熱いものが込み上げてきた。
 ――ほんとうはね、匠のそばにいたいんだよ。
 ――どこへも行きたくないんだよ。
 言葉に出してしまいたいのを堪えた。
「うん。栞は、がんばれるよ」
 匠のひとことは、掠れて涙声だったけど、私を強く励ました。
 そして。
 私は、最後にひとつだけわがままを言った。

(2014/02/17)



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