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 第六章 4.     by 栞

 それは、とても暑い日。
 熱風のような空気に汗がじわりと滲み出るような夏の朝。
 雄吾が最後に用意してくれた誕生日プレゼントに身を包み、高卒認定の試験に挑んだ。
 ワンピースは雄吾が好んで着ていたスーツと同じ紺色で、まるちゃんには、長袖は暑いよ、と反対されたけど、これでよかったと思っている。雄吾を感じて試験を受けられたからよかった、と。
 試験が終わって、ほかの受験者に混じって外へ出た。
 試験の昂揚感がまだ消えていない。地に着いていない感じがする。それでも、試験から開放された安堵感もあり、私は迷わずに歩いた。
 待ち合わせ場所にすでにいた匠は「お疲れ」と、赤い顔をして手を上げた。
 まさか送ってくれた朝からずっと待ってたの? と疑うくらい暑さに当てられた顔をして、試験の出来を窺う目を向けてきた。
 あまりにも分かりやすい顔に力が抜けそうになる。
 疲労困憊。
 どのくらい試験が出来たかなんて言葉にするのも億劫で、私は物憂げに首を傾げて見せた。
 私の緩慢な動きに、匠は頷いて小さく笑った。
「頭を使っておなかが空いたんだろ? どっか食べに行こうか?」
 まだ夕食には早すぎる時間。
 おなかなんて空いていなかった。
 匠は私の顔を見ているようで、見ていないような気がする。
 あの時に言った私のわがままを、いまだに戸惑って、今この時も揺れているのだということを感じとった。
 でも、考え直さないから。
「ううん。おなかは空いてないし、どこにも行きたくない。このまま匠のところに連れて行ってほしい」
 強く言い切った。
 試験が終わった開放感を少しは感じても、むしろ今からのことを考えると気が重くて、こっそりと息継ぎをした。 
 ――大丈夫。匠は、私を突き放さない。
 心の中で、呪文のように呟く。わがままは今日だけにするから。
 匠の隣に並べる大人になるまで、匠は待ってはくれないかもしれないし。
 だからって諦めてこのまま、さようならなんてしたくない。
 私の顔を見ながら逡巡し、匠はゆっくりと口を開けた。
「わかったよ。……行くぞ」
 ため息を隠さないで匠は吐き出し、強ばった顔のまま背を向けた。
「でも、後悔すんなよ」
 そう言われた意味を、後で一度も二度も知ることになる。

 私は匠の背中を見ながら置いていかれないように歩いた。
 見上げるほどの高さ。白衣を脱いだだけのいつも見るポロシャツにチノパン。かなり着古した感じがして、少しくらい深雪みたいに服装を気にした方がいい、と思う。
 せっかく格好いいのに。
 背中も広くて大きい。そこに今は「不本意なんだけど」と書いてある気がする。その背中を見失わないように着いて行った。
 電車に乗って、途中乗り換えをして、電車を降りた後は地下道を長く歩いたように思う。
 途中、お弁当とお茶、新聞をいくつか買った。
 もうすぐ、というのになかなか着かない。目的地が分からないまま歩くのはひどく疲れる。何度も汗を拭った。
 そろそろ休みたいと本気で思い始めた時。
「ここ。このマンションの三階に住んでる」
 立ち止まると、黒っぽくて、十階以上はありそうな建物があった。雄吾と暮らしたマンションよりもうんと新しくて、深雪の住むマンションよりも小さく見えた。
 どんな部屋なんだろう? エレベーターとともに気分も上昇する。
 けれど。
 匠に背中を押されて一歩入った部屋で、私は茫然と佇んだ。
 期待して大きく膨らんだ気持ちが、一瞬にして音を立てて萎んでしまう気持ち。分かってもらえるだろうか。
 なんなの、これ?
 玄関口には大きな靴が数えられないくらい散乱しているし、同じく透明の傘が山積みになっていた。
「傘なんて持ち歩かないし、雨が降るとコンビニに寄って買うだろ? 知らないうちに溜まってくんだよな〜」
 匠は訊いてもいないのにいい訳をして頭を掻きながら入っていった。
 埃っぽい臭いに包まれ、途方に暮れて靴に目を落とした。いったい何人部屋に上がっているのか、ってくらいある。
 ひっくり返った靴を元通り一対にして並べていると、奥の部屋から呼ばれた。
「栞? 早く上がって来いよ」
 はぁ? それ、本気で言ってる? どの口が言ってる? 上がるのを躊躇するほど、こんな状態にしたのはいったいどこの誰?
「ん? どうした?」
 そう言ってひょこっと奥の部屋から顔を覗かせた匠を本気で睨んでしまった。
「ここ、あんまりだよ! 汚すぎっ!」
 そう叫んでしまったくらいだ。
 ちょっと前に聞いた時は、たしかにひとり暮らしだって言っていたし、あまり部屋には帰らないとも聞いている。
 なのに、どうしてこんなゴミ溜め部屋になっているのか。
 目の前の廊下には、点々と服らしきものや靴下が落ちている。
 これは部屋に落ち着く前に掃除をしなくちゃ何も始められない、と潔く心を決めた。
「匠。この部屋はなに?」
「え? 俺んち?」
「それは分かってる」
「……」
「こんなに汚いって聞いてないよ」
 靴を廊下に放置された服を摘んで持ち上げた。
「だから、後悔すんなよ、って俺は言ったもん」
 匠は叱られた子供のように口を尖らせた。
 床に置かれたものをできるだけ踏まないように部屋に行けば、鬱蒼としたゴミの山が築かれていた。
 ぞっとした。
 おもに新聞と雑誌、大量の本が積み重なっている。さすがに食べ物のゴミはなかったけれど、匠の立っている部屋の奥まではどうやって辿り着いたのか? 冷静になって見るとゴミの上にも埃が積もっていて、まさかこれらを踏みしめて進んだのか? さらに考えると気が遠くなりそうだった。
 匠の部屋に来る途中で買ったものを、置けそうな清潔な場所もないほどだなんて、あんまりだ。
 とりあえず玄関に戻って、持っていたものを扉内側のドアノブに掛け、片づけようと行動を開始した。
 ワンピースの袖を腕まくりしてから、匠に断わることなく、廊下の左右の扉を開けていく。三つあるドアは、左側に洗面お風呂場、トイレ。右側に壁一面が本棚になった部屋があった。
 二つ目に開けたドアに洗濯機を見つけ、回収した汚れものを突っ込んでいく。
「栞。何を怒ってる? ん?」
 散らかした当人は不思議そうな顔。動き回る私を目で追っている。
「なに、この部屋! とてもじゃないけど人は住めない」
 飾らない正直な感想だ。
 「一緒に片づけよう」って言ってみたけど、匠は掃除の仕方を知らなかった。
 しょうがないから、要るもの要らないものをひとつずつ聞いては仕分けしていった。大量の本は、空っぽ同然だった本棚の部屋へ持って行ってもらい、大量の新聞、要らない雑誌を一くくりに縛って回った。ゴミ袋は八個分にもなった。
 住んでから一度も捨てたことがなかったという新聞は約三年分も溜められていたのだ。
 ――呆れちゃう。
 よかったことは、マンションには二十四時間いつでも捨てられるゴミ置き場があったことで、出たゴミを全部捨ててもらえたので、部屋はほんとうにすっきりした。
 ものがなくなったところで、入居後初、三年ぶりの掃除にかかった。
 私は、掃除機というものを使うのは生まれて初めてだった。
 教えられた通り、電気コードを繋げ、掃除機のスイッチを入れると、派手な音とともに、見る間にゴミが吸い取られていった。埃が舞い散らないのがいいし、簡単なのがいい。
 いままで使ってきた箒と比べものにならない。こんな便利なものがあるんだ、と感心した。あとは、雑巾で水拭きをすれば、部屋は見違えるくらいキレイになった。
『後悔すんなよ』
 思い出してため息を吐く。『後悔』するくらい汚い部屋だった。
 気がつけば五時間近くも夢中で掃除していたことになる。
 疲れてふらふらだし、お腹はぺこぺこだった。

(2014/02/17)



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