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 第六章 6.     by 栞

 何度か寝返りを打ちながら、眠りに入ろうとしたその時。
 スタンドの明かりを消した音だろう暗闇に包まれ、匠の気配が濃くなった。
 窓に沿って置かれたベッドの上は暗いけど、外の明かりが少しだけ入ってきている。薄っすら開けた目でそれを確認してから目を瞑った。
 マットレスの軋む音がして隣が沈み、肩に触れられた熱に息を詰めた。それが私を確認するように数度撫ぜられ、このまま寝たふりをしようか、それとも返事くらいはしようか、迷ううちに身体の向きを仰向けにされ、頬にかかった髪をすくわれた。顔があらわになって、瞼が動いてしまいそうになる。すでに起きていると気づかれているかもしれない。
 けれど、頬に触れられた感触は気持ちがよかった。とても温かくて優しい手だった。
 頬に匠の吐息を感じる。
 匠の唇が触れるか触れないかの微妙な触れ合いの中、私の顔をじっと見られているような気がした。
 観察されているような視線。寝ているふりを完全に見破られたな、と思ったその時。
 柔らかでくすぐったいような触れ方から、だんだん遠慮のない直接的な触れ方に変わってきているのに気づく。
 気の遠い触れ合いの後、匠が離れたような気配がした。
 なんとなくさみしく思って、追いすがって瞼を開けてしまっていた。
 あっ、と思った。
 匠は私を見下ろし鮮やかに笑ったのだ。
 手のひらで頬を包み、親指を唇に伸ばしながら。何度か指先を行き来させ私の唇で遊んだ。
 獰猛な獲物を捕らえるようなキツイ瞳に情熱を隠せない色を浮かべている。その目に私は釘付けになった。
「キスしていい?」
 音のない吐息まじりの言葉に、元より頷く余裕はなかった。
 唇を食べられた。
 そう感じたのは、たぶん間違いではない。
 雄吾と交わしたキスは、本当にキスだったのか? そう考えてしまうくらい別のものに思えた。
 上唇を食まれ、下唇まで飲み込まれてしまう、そんな触れ合いどころでない濃厚なキスに、急速に息が上がってくる。苦しくなってくる。
 心臓の音が聞こえてしまうのではないか。心配になるほどに身体の中の血液が早く早く運ばれているようだ。
 啄まれる唇はとても大胆で、何度も唇を吸われ食まれ、形が変わる。
 だんだんと追い詰められているような気がしてくる。
 ザワザワとした感じたことのない身体の変化に戸惑い始めた頃。
「――もうちょっと、していい?」
 低くて艶のある声に身体が反応する。
 ――もうちょっと、って?
 声になる前に唇をこじ開けられた私は匠が返事を待たずに行為を始めたことに慌てる。
 ――うそ。
 口の中に匠がノックして入ってくる。口の内を探るように動くものは、たぶん舌なのだろう。
 絡められ吸われて、お互いの熱を交換しているみたいに動く。
 聞いたこともないひどくイヤらしい水音が自分から生まれている。そう知って、穏やかでない気持ちになる。
 口の中の水分がいっぱいになって溺れそう?
 苦しくて、蕩けそう。
 泣きたくもないのに、涙が出てくる。
 ――なに? これはキス? これがキス?
 唇から溢れて温かい液体が伝っていく。
 この感じ、知らない。
 ――溶けちゃいそう。
 熱が身体全部にまわって、身体からジュンと濡れた感触までして、お腹の奥が痺れてきた。
 身体が悲鳴を上げ始めた時。
 深く繋がっていた唇が遠ざかった。
 ぼうっとする意識の中、熱い吐息を耳に感じて身を捩らせた。濡れた音が直接すぎて、背の中心がゾクゾクする。反射的に身体を反らせる。
 覆いかぶさった匠は、近過ぎて表情がよく分からない。ただ私の耳に匠の唇が這って濡れた音がしていた。
 合間に息を短く吸って吐いては、どうにかなりそうな熱をやり過ごす。
 次第に耳から首筋へ場所を移し、匠の手は私のパジャマの中に入り込み、身体のラインを探るように辿った。手はくすぐったいくらい優しい仕草。なのに、目的をもった動きはひどく性急にも感じられて怖くなる。逃れたくなる。
 追い詰められている?
 ――怖いっ。
 あんなに匠が欲しかったのに、私は思い違いをしていたのかもしれない。
 こんなはずじゃない。
 こんなのは望んでない。
 もう無理。
「っ。……や、……い、や」
 怖い、と自覚してから自分が震えていることに気づく。とても耐えられそうになく、手を突っぱねて抵抗した。
 途端に。
「……ふざけんなよ」
 匠はそう低く吐き出し、跳ね除くように離れていった。
 大きなため息がして、隣で髪をかきむしっている音がした。
 身体の重みが軽くなって、私はものすごく助かった気がしてくる。
 離れたといっても、ベッドに二人が並んでいることには変わりないけど。
 隣から頭を引き寄せられ首を傾けた。お互いを見合って、見たことのない匠の鋭さに目を瞠る。怒りを隠すどころか、怒りの矛先である私に直接ぶつけてこられて、ヒクッと怯んだ。
「なに怯えた顔してんの。これ、栞が置いたんだろ? 誘ってるのかと思った」
 暗がりでも判別できる、匠の手にはイチゴ柄の小袋が握られていた。
「あ」
「大人をからかうんじゃない。これに懲りて、子供はおとなしく寝ることだな」
 知っていて怖がらせた?
 ――もしかして、本気じゃなかった?
「栞?」
「……」
「セックスは、興味半分でするもんじゃない。もっと自分を大切にしろ!」
 違う。興味半分なんかじゃなかった。そのつもりだったのに。
「田崎 雄吾って人は、栞を大切に育ててくれたんだろ?」
 田崎さんを悲しませるなよ、と諭される。
「でも、――もしも、いつか、田崎さんのいう『最愛の人』として俺を選んでくれるなら、その時は我慢しない」
 ――我慢? 
 匠の目を見て問う。
 迷わず私の手を掴んで引っぱられた先にあるもの。触れさせたのは、硬くて熱い匠そのもの。お腹にくっ付きそうなくらい反り上がっている、それが何であるのか、布を介してもよく分かった。
 私は、その存在を手のひらに感じ、包み込むようにしてゆっくりと確かめた。
「……っ」
 息を詰めた甘い吐息がして、思わず手を離す。
 男の人がそうなると辛いことを知っている。
 けれど、もう一度自分から触れることなんてできなかった。
 動けなかった。
「それ以上煽るなよ。我慢できなくなる。――身体は嘘をつけないからさ」
 匠はそう言って、明け透けに笑った。
「栞にそんな顔をさせたくて触らせたんじゃない。ほんとうのことを言うと、欲しいよ。すごくね。……栞が欲しい」
 熱を帯びた目で私を誘う。
「……だけど、今はまだその時じゃないって思うから、これ以上はしない」
 匠は私の顔を覗き込み「お子様は早く寝ちゃいな」と頬に手を滑らせた。
 どうして?
 私を欲しいと思ってくれているのに?
 心臓の音が激しい。早すぎて苦しいくらいに。
 考えれば考えるほど、迷宮に迷い込んでいく。正解が導き出せない。
 瞼を閉じることもできないまま、夜の空間を見つめた。
 窓の外で赤い光りが点滅しているのを見ながら、匠の言った意味を考えた。
 しばらくして規則正しい寝息がして、匠が寝たことを知る。
 身体の強ばりが解けたのは、それからしばらくしてからだった。
 匠が寝返りを打つと隣の気配が濃く感じられる。ゆったりと呼吸する様は、深い眠りに入っているようだった。
 なのに。
 私だけ、気持ちが昂ぶったままで、ぜんぜん眠れない。
 どうして?
 こんなはずじゃなかったのに。
 ねえ。私は間違っていたの?
 瞼を閉じて、雄吾を想う。
『交わるのは、たった一人だ。最愛の人のために大切にしなさい。わかったね』
 こんな時に雄吾の声が聞こえてきて、私をさらに悩ませる。
 隣で寝ている匠を起こさないように唇を噛みしめた。
 さめざめと流れる涙は止めどない。
 今日という日は、簡単に忘れられそうにない。
 『後悔』の言葉が心の底で燻った。

(2014/02/28)


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