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 第七章 1.     by 栞

 まだかな? まだかな?
 待つ間にどんどんと緊張が増して、心臓が苦しいほど早く打っている。
「どうしよう? 会ったら心臓止まっちゃったりして」
 胸をぎゅっと押さえて、呟いた。

 一年くらい、匠とは会っていない。
 『聖母マリアの家』で過ごしたのは半年ほどで、年下の子たちと生活を共にし、学ぶことの多い密な時間だったと思う。とくに、あゆちゃんとしんちゃんとは仲良くなれた。
 あのお泊りした夏の日に受けた高卒認定は合格したものの、大学受験に失敗。一年間、予備校の寮で勉強を重ね、ようやく実を結んだ春。
 夢に見た大学生。
 三日後に入学式を控え、今日は寮を退去して、都内某所の一軒家に引っ越しする。
 いよいよ新生活が始まる。
 匠のお祖父さんが生前住んでいた家にいっしょに住まないか、と言ってくれたのが匠だ。
 私がひとりになってしまわないように考えてくれたのだろう。
 昨日、匠から寮に電話があった。マンションから荷物を運び出したこと、勤務の合間の引越しになる、と言っていた。それは体力的にどうなんだろう? すでに待ち合わせの時間は過ぎている。
 今は引っ越しシーズンとあって、引っ越し業者は大忙し。この後が閊えていると困り顔で詰めよられ、私はどうすることもできず頭を下げた。一向にやってこない匠に焦れながら、何度目かの頭を下げ、引っ越し業者の無言のプレッシャーに顔をまともに上げることができなかった。
 そこはかとなく漂う重い空気に、居たたまれなくなって引越しトラックから離れた。
 約束の時刻になっても、匠はやって来ない。
 けれど、もう今にもやってきそうな予感はしていて、私は久しぶりに会える高揚感を抑えられなくなっていた。
 通りの向こうから待ち人が来ないか目を凝らす。
 白いものが、ひらり、ひらり、と舞い降りた。桜の花びらがどこからか飛んできて、アスファルトに水玉模様を作っていた。
 今年の桜の開花は早かった。『聖母マリアの家』で少し早い花見をしたな、と思い出す。あの時の桜は、まだ半分も咲いてなかったけど、お団子を食べるみんなの笑顔は満開だった。

 真っ直ぐな道に立って遠くを見ていると、黒っぽい人型のシルエットがだんだんと大きくなってきた。
 たぶんあれがそう。匠だ。
 ずっと見ていたかったけど、引っ越しトラックの方に跳ねるように戻った。
「あの、来ました! お待たせしてすみませんでした。すぐに鍵を開けてもらいますので、荷物の運び入れをお願いします」
 見るからにホッとした表情の引っ越し業者は、トラックの荷台の扉を閉めるとドライバーに合図をして、家の方に向け駆け出した。私も続く。
 近づいてくる匠がはっきり見えてくると、出会った頃とそう変わりない姿と真っ直ぐな瞳に、私の身体は熱くなり、自然と動き出した。
 匠は突っ込んでいたパンツのポケットから手を出すと、胸に飛び込んだ私を抱き止めた。
「髪、ずいぶん伸びたな」
 匠の手が私の髪の毛をくしゃくしゃに撫ぜ回した。
 ずっと伸ばしっぱなしの髪は、背中をとうに越していた。
 腕の中で呼吸すると、微かに消毒の臭いがした。だけど、それだけじゃない匠の匂いに私は安堵する。
「久しぶり、だな。ちょっとはふっくらしたか? ふんふん。抱き心地は悪くない」
 『抱き心地』なんて言葉を使うから熱が顔に集まってくる。
 身じろぎできないくらいに強く抱きしめられていることに気づいて、慌てた。
 ほかに人もいるのに、恥ずかしい!
 無駄な抵抗だけど、もがいて見せた。
「まあまあ。そう恥ずかしがるな。久しぶりの再会を噛みしめてんの! ああ。夢じゃない。本物の栞だ」
 匠は喜び浸るように私を離そうとしなかった。
「あー、あー。道の真ん中でいい大人がみっともない。そのくらいでやめとけよ!」
「お、おまえ。何だよ。何で居るんだ? げーのー人がこんなとこに居て噂になっても知らないんだからな!」
 鬱陶しそうに、深雪を見た匠は、あからさまなため息を吐いた。
「居ちゃ悪い? 感動の再会だからって、いちゃつくな! 見たくない!!」
「何だと? いちゃついて何が悪い?」
 ふん、と逆ギレした匠は、深雪を追い払う仕草をした。
 深雪は同じ大学の一年先輩になっていて、今日は引っ越しの手伝いに来てくれて、予備校の寮から衣装ケース二つとダンボール六つを深雪の車に積んで運んでくれていた。
「そういや、引っ越しのトラックは?」
 と、匠はのんびり訊ねた。
「あ。何言ってるの? 遅刻だから!! だいぶ待ってもらってるんだって。前の道は細くて長くは停めれないから、って、むこうの広い道にトラック停めて待っててもらってるから。早く鍵、開けろよ!」
 滲み出た涙を飲み込んでいないと決壊しそうで、私は深雪の言うことにただただ頷いた。
 一緒にいた引越し業者がようやく目に入ったのか、匠は謝りながら鍵を開けに行く。
 庭側から荷物を入れてもらおうと窓を全開にしたところで、匠に手を引かれた。
 玄関の中に連れてこられた私は、後ろで扉が閉じられた音を匠の胸の中で聞いた。
「栞。ちょっとだけ補給させて」
 上を向かされると同時に、唇に熱を落とされ、匠の性急さに、私の涙腺は堪らず崩壊した。
 ――会いたかった。すごく。すごく。
 一年は途方もなく長かった。電話だけでは、おかしくなりそうだった。大学に合格するまでは会わないって決めたのは私なのに。
 何度もお互いを確認するように夢中で口づけた。
 玄関の扉が開く音がして、慌てて匠から離れたけれど、涙を急に止めることはできなかった。
「栞。……真っ赤っか。せんせい、何泣かしてるの」
 深雪が私の荷物を持ってくれている。手が塞がっているからか、匠の足を蹴っている。
「栞のは、うれし泣きだよな」
 匠はぜんぜん悪びれず、私の濡れた頬を手で拭ってから、後ろから優しく抱きしめられた。すっぽり包まれると、温かくて、触れ合う心地よさに胸がいっぱいになる。
「いい加減にしろよ。外で引っ越しのお兄さんが困ってるから。早く指示してやらないと」
 深雪は匠を追い出して、年甲斐もなく見っともないねー、と苦笑いした。
「いくらラブシーンに慣れてても、栞のだけは見たくないから。それにしても、エライ変わりよう。この間までのせんせいは、よれよれの、髭ぼーぼーだったのに」
 深雪は、荷物を運び入れながら、愚痴り、揶揄する。
 何度か車と部屋を行き来して、ダンボールを部屋に運び込むと、
「ほんとうは、ここより僕のマンションの方がよかったんじゃない? 大学は目の前だし、セキュリティーはしっかりしてるし。せんせいは夜勤があるから栞ひとりで不安だよね?」
 私を心配そうに見ながら、深雪が首を傾げた。
「ん。それはそうだけど。……平気だよ。ちゃんと鍵かけるし」
 古い家を大改装して、窓も防犯ガラスに取り替えてもらったし、指紋で開錠する電子錠を付けたと聞いている。外壁も塗り替えられて、家の中はすべてが新しくなっている。和室だった部屋は洋室に変えたんだって。ふたりで暮らすには広すぎる家に思えた。
 私の後見人『聖母マリアの家』のさなえさんが、匠と暮らすのを許す代わりに寝室は別にすること、と約束したので、私の部屋は一階に、匠は二階の部屋を使うことになった。
 同棲ではなく、同居。
 匠はそれをほんとうは良く思っていない。別室にしても匠と私の部屋を隣り合わせにしたいようだった。
「まあ。せんせいといっしょの部屋じゃないだけ賢明だな。美味しく食べられないように気をつけろよ。なんかあったら、僕を呼ぶこと! わかった?」
 深雪は、私に目を捉えて言い聞かせるようにしてから、部屋の扉についている内鍵がきちんと掛かるか確認して、満足そうに頷いた。

(2014/09/26)


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