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 第七章 2.     by 栞

 引っ越しの荷物も運び終わり、匠が勤務に戻ったので、荷ほどきは明日にして、深雪と私は遅いお昼を喫茶店オータムで食べよう、ということになった。
 家からは、大学はもちろん大学と同じ敷地内の病院も深雪のマンションも徒歩圏内。家から喫茶店オータムに至っては徒歩一分の距離と、とても近い。
「まさかご近所さんになるとは思わなかったわぁ」
 店主の亜紀さんがにこやかに迎えてくれた。
 昔ながらのナポリタンを食べながら、春香さんと深雪にスマートフォンのレクチャーを受けていた。
「栞ちゃん。来てたんだ」
「あ。夏美ちゃん。こんにちは」
 夏美ちゃんは春香さんの妹で、深雪の高校の後輩でもあり、夏美ちゃんとは受験諸々のアドバイスを含めいろいろと相談に乗ってくれていた。
 いっしょに医学部看護学科に合格できて本当によかった。夏美ちゃんとは一般教養の単位もいっしょに取ろうと話している。
 夏美ちゃんは相変わらずクールで、カウンター椅子で組まれた足が長い。すごくスタイルがいいし、格好いいとつくづく思う。とても一つ年下には見えないし、教えてもらうことが多いから、完全に年上のお姉さんという風で私は憧れている。
 夏美ちゃんは、微かに口元を緩めた。
「どう? 引越しは大変?」
「ああ。ううん。深雪がほとんど運んでくれたから、それほどでも……」
 「そう」と夏美ちゃんは長い睫を俯けた。
 夏美ちゃんの大人びた表情は変わるか変わらないくらいで、よく見ていないとわかりにくい。
 亜紀さんと春香さんは明るく話好きで正反対だけど、夏美ちゃんは表には出にくいだけで、内面は優しく穏やか。無関心を装っているように見えていても、よく回りを見ていて困っている時なんかさり気なく助けてくれる。教えてくれる。
 高校生の時は赤い眼鏡がトレードマークだったのを「コンタクトにしてからすこしは明るくなったのよ」と、亜紀さんが教えてくれた。
 確かめたわけではないけれど、夏美ちゃんは深雪が好きなのかな?
 背中を向けていながら深雪の話を、しっかりと聞いているのだから。いつだったか話しているのに上の空。そんな珍しいこともあるんだな、と見ていたら、背中合わせに座っている深雪の話に集中していて、ふだん見せない女の子の表情になっていた。素の夏美ちゃんは可愛いってことに気がついた。
 深雪も背が高くてキレイだし、夏美ちゃんが隣に並んだらピッタリかも。
「なぁに? 薄笑いして。良からぬことを考えてるでしょ」
 夏美ちゃんに覗き込まれて、我に返った私は弛んでいた顔を引き締めて「なんでもない」と手と首を振った。
 目の前の深雪は、私と夏美ちゃんを交互に見てから、最後のひと口、ナポリタンを頬張った。
 うん。ふたりは絶対にお似合いだと思う。

 新生活の初日。匠は夜勤だった。
 病院に戻る前に、連絡用にスマートフォンを渡された。春香さんと深雪に教えてもらったことを思い出して、汗をかきながら電話をしてみる。
 『聖母マリアの家』のさなえさんに繋がって、無事に引っ越せたことの報告をしながら、聞こえてくる子供たちの騒ぎ声に目を細める。電話を終えてすぐ、ひとりでいるのは静かだな、と思った。
 『聖母マリアの家』は賑やかだったし、ひとりになることはなかった。予備校の寮も二人部屋でそんな風に感じることはなかった。
 誰かといることに、慣れちゃったから?
 雄吾と暮らした頃に戻ったと思えばなんでもないことなのに、無性に心細くなって、天井を見上げた。
 何かしていないと落ちつかなくて、明日にしようと思っていた荷ほどきを始めてしまった。結局、夜更かしして自分の荷物を片付け終えた。
 眠気もなく、水でも飲もうとキッチンに行くと、冷蔵庫の中は空っぽで、電源が入っていると分かる低い音だけが存在していた。果たして電源を入れる意味はあるのか、と首を捻る。
 しょうがなく、水道の水で我慢をしようと、あるものを探す。
 『キッチン』と書かれたダンボールが二つ置かれていたので、開けると丁寧に梱包されたコーヒーカップが五客と、コーヒーメーカーがあるだけだった。
 目的のグラスはなかったけど、コーヒーカップでも水は飲める。
 けれど、一度も使われてそうにないコーヒーカップは、洗剤で洗ってから使いたい。そう思いながらシンクを見ても食器用洗剤もスポンジもなかった。
 振り返って棚の扉を開けて見ても、お皿やお茶碗はなかった。
 キッチンから続く部屋を見渡して、大きくため息を吐いた。
 食卓もない。窓にもカーテンがなかった。
 欲しい物が、いっぱいある。
 さっそく自分の部屋に戻り、メモをとる。
 欲しい物。
 カーテン、ベッド、ふとん、カバー、シーツ、と書いてから、ふと今の状況に至る。
 床に空のダンボールを置いて机に見立てていることに笑いが漏れる。
 ペンで書き込む。
 机。
 それに、キッチンの道具、食材、食卓。
 全部を揃えると、いくらくらいかかるのか。
 『聖母マリアの家』のさなえさんに渡された、まとまったお金の入った通帳と印鑑を手にして思う。
 匠が帰ってきたら相談しよう。
 少し眠くなってきて、床にころんと転がる。
 横になってみて気づく。かなり疲れていることに。
 お風呂に入らなきゃ、と思いながら、窓の外をうかがった。
 空が薄っすらと明けかかっていた。もうすぐ朝。
 このまま眠ってしまったら風邪をひきそう。
 匠からもらった大切なひざ掛けを手繰り寄せ、重くなってきた瞼をゆっくりと閉じた。

(2014/09/26)


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