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 第七章 3.     by 栞

 引っ越しの次の日。
 私は寒さに目を開けた。フローリングの上は冷たく硬い。
 寮の部屋ではないことは、身体の痛みだけでなく、嗅ぎ慣れない匂いからして明らかだ。
 身体が凝り固まっている。ため息に似た声を発しては痛みを逃す。寝足りない頭の重さ。爽やかな目覚めにはほど遠かった。
 外からの音もなく、静かすぎる部屋の中。
 そういえば、匠はいないんだったな、と夜勤で不在なことも思い出す。
 少しずつ身体をほぐすように動かしながらも、起き上がるのが億劫で、動くのを放棄していたら、ぐぅ〜、とお腹から音が鳴った。
 思わず笑いが込み上げた。
 体内から空腹を叫ぶ音に才覚するなんて、ちょっと可笑しかったから。
 目を擦り、ようやく起き上がった。
 何にもない部屋にひとり。体感温度以上に寒々しいったらない。 
 ふかふかのふとんが恋しいよ。
 ベッドもほしい。机もほしい。
 ほしい。ほしい。
 匠が恋しい。
 早く帰って来ないかな〜。
 さっきまでは気分が乗らなかったのに、朝食を用意して匠を待っていようと思い付いた途端、突き動かされるように部屋を飛び出した。
 洗面スペースに置いてあったダンボールを開け、シャンプーやボディーソープをバスルームに運び入れ、バスタオルとドライヤーはとりあえず棚に収めてみた。
 住み初めで勝手がわからないのは匠も同じだろう。使いやすく収納するのはまたにして、とりあえず昨夜入りそこなったお風呂に入ってしまうことにした。

 髪の毛を乾かし、萌黄色のチュニックワンピースにレギンスを穿いて、身支度ができるとお財布を右ポケットに押し込んで、戸締りを確認して道に出た。
 昨日、夜勤に出かける匠を見送った時、「家の並びにパン屋がある」と、言っていた。
 古びたブロンズ色の門扉の向こうで、匠が指差したのは南の方向。
 パン屋らしい建物を探しながら歩いた。
 車も人通りもほとんどない閑静な住宅街。
 真っ直ぐの道を見通してもお店らしい建物や看板は見つけられなかった。
 けれど、たしかにパンの香ばしい香りがしてきている。
 くんくんと鼻の利く方へ歩くと、道よりもすこし引っ込んだところにそのパン屋は見つかった。
 家からそう離れていないところ。
 白い角ばった建物だけ見れば美容室にも間違えられそうだけど、四角い窓の向こうにはパンがディスプレイされていた。
 初めてのパン屋。
 飾り気のない白い扉を引こうと手を掛けた。
 開けようと緊張が高まった瞬間。
 向こうから扉が開いた。
 ハッとして、ぶつからないように後ろに身体を引くのと同時に、夜勤明けの匠が出てきたから、びっくり!
「なんだ、栞も来たのか? いちおう栞のも適当に買ってみたんだけど、せっかくだから中で食べたいパンでも選べば?」
 私ほどに驚いていない匠にちょっとだけむくれる。首を横に振って、元来た方に足を向けた。
 匠に会えてうれしいのに、対面するとまだ、ちょっと恥ずかしい。
 一年のブランクは大きいのかも。
 何を喋ったらいいのかわからないし。とりあえず、家に着くまでに鉢合わせた胸のドキドキが止まるといいな、と後ろの気配を感じながら歩いた。
「夜はひとりで大丈夫だった?」
 後ろから声を掛けられて立ち止まった。
 それには「うん」と、だけ頷いた。
 私はなんでもないことと思うことで、ひとりで寂しかったことを飲み込んでいた。
 なんとなく見られている気がして顔を上げると、「そうか」と相槌を打った匠が、私を覗き込むようにしてじっと見ていた。
 推し量るような視線。
 強がってみせる必要がないことはわかっていながら、どうしようもない。
 寂しかった、なんて言うのは今さらだし。
 それよりも、匠の顔に疲れた色を見つけてしまう。昨日からずっと仕事をしていたんだから疲れも出るだろう。
「匠こそお仕事、お疲れ様」
 私は匠の腕を取って、パンの入った袋を取り上げた。
 ビニール袋の中を覗く。どんなパンが入っているのか気になったから。6つくらいのパンと、ストローのついた牛乳パックが2個入っていた。
「夜も働くって、疲れるでしょ」
「や、そうでもないよ。仮眠もとったし、そんなに疲れてない」
「そう」
「今日は買いに行こうと思ってる」
「うん。でも、ちょっとは休んだ方がいいんじゃない?」
「まぁ、な。だけどさ、引越しをしたはいいけど、マンションから持ち出した物って本と洋服とベッドと冷蔵庫くらい? 寝るためだけの部屋だったから見事に何にもないだろ? とりあえず早急に要るものを揃えたいって思ってる。今日と明日は休みをもらったから、二日間でどうにか住めるようにしたいと思って」
 匠は伸びた髭を擦って「忙しくなるぞ」と、呟いた。

 リビングのフローリングの上に直に座るのはお尻が痛い。
 けれど、見た目以上にパンが美味しかったので気にしないことにした。
 深みのある褐色。カリッと焼かれた外側の香ばしい歯ごたえ。淡く黄色がかった白色のほどけるような柔らかさ。
 焼きたてのパンをちぎって口元に持っていけば自然と顔が弛んだ。
 「当たりのパン屋でよかった」と、匠は食欲旺盛に頬張っている。なんでも、病院の売店にある惣菜中心のパンとはレベルが違うらしい。
 むずかしいことはわからないけど、いろんな種類のパンをすべて半分こにして、それぞれの味を楽しんでいる私に、「子リスみたいだな」と、匠は口の端を持ち上げて笑った。
 それに「稀に見る大食いだ」とか、言っては体を揺らす。からかっては、私の口の中にパンを運んで、またくつくつと笑った。
 匠って人は、そこはかとなく意地悪で、それでいて居心地はぜんぜん悪くない。
 そんな風に思いながら、ほんのり甘いうぐいす色をしたお豆を味わい、塩気の効いたパンを食べ、口をもぐもぐと動かした。
 早々と食べ終わった匠から、今日の予定を聞かされた。
 このあとは、家具や生活用品を買い物して、夕方にはオーダーしたカーテンを取り付けに来てもらい、私の部屋のカーテンは好きなものを選べるように布見本を持ってきてもらうことになっているんだって。自分でカーテンを選ぶなんて初めてでうれしい。

(2014/11/21)


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