朝ごはんをおなかがいっぱいになるまで食べなければよかった、と眠気と戦いながら、匠の運転する車に揺られた。
「栞。起きろ。着いたぞ」
呼ばれて目を開けた。あふ。あくびを噛み殺そうと唇を押さえたところで、眠気に負けたことに気づく。
「昨日は、よく眠れなかったんだろ?」
目覚めたばかり。何も考えられずに「うん」と、素直に頷いた。
「ひとりは慣れてるはずなのに、おかしいよね」
するっと出てきた言葉に、さみしかった、が隠しきれていない。動揺して膝の上で自分の手を握り締め、そろっと見ると運転席の匠は優しい顔をしていた。
匠にはそんな単純な隠し事はできない。すべてお見通し。
うな垂れた私を見て、匠は運転席から手を伸ばして私の頬に触れた。近づく匠に目を瞑って応える。温かな唇の触れ合い。離れては触れを繰り返し、柔らかく唇を吸われた。
家具屋の駐車場でしばらく顔の火照りをとってから大きな建物の中に入ると、ずらりとテーブルが並んでいた。圧巻。目移りしそうなくらいある家具たち。
ダイニングにはどんなテーブルがいいか、匠は私の意見を求める。
好きなものを選ぶように言われて困っていると、にこやかな店員さんが、スタイルに合わせてコーディネートされたブースに連れて行ってくれた。
そこで、こういうのが好き、こういうのは嫌い、がはっきりとわかった。
私は北欧家具と言われる白っぽい木目の美しい長方形のテーブルとイスのセットを選んだ。それから、同じシリーズの座り心地のいいソファーのセットも。
あと私の部屋のベッドと本棚、机も選んだ。
後日配達してもらうことになった。
家具選びの後は、生活に必要なものを買いにショッピングモールへ。そこでは一通りのものが揃うらしい。
「土曜日だからいっぱいだな」と、匠が零す。立体の駐車スペースは上の階までほとんど満車で、何周か回ってようやく駐車できた。
「人、多いね」
とくに親子連れがたくさん歩いている。
早めのお昼を食べようと行くと、ショッピングモール内のフードパークにいたっては中に入っていくほど混んでいる。セルフうどんと大手ハンバーガーショップは大行列だ。
ちょうどあった迷子の館内放送が聞こえにくいほど賑わっていた。
結局、お昼は我慢して買い物に集中することにした。
「すっごいなー。こんなに人がいるなんて。もっと近場にすりゃあよかったな」
匠は何度か愚痴りながらも、カートにいっぱい買ったものを乗せて、人の波を上手にぬった。私は歩くだけなのに、人にぶつかりそうになった。
一度目は山盛りの荷物を車に乗せに一緒に戻ったけど、気を抜くとお互いを見失ってしまいそうになった。二度目の荷物は匠がひとりで行く、と言ったので、私は中央コートの噴水前で待つことになった。
噴水がライトアップされ、時間によって色が変わる。とてもキレイで水の色が赤く光るのを飽かずに見ていた。噴水の強弱も音楽に合わせて動くので楽しい。
噴水を見ながら考える。キッチン用品はだいたい購入できた。リネン類も揃った。あとは、消耗品のティッシュとかトイレットペーパーがほしい。洗濯洗剤も。
あ。洗濯物の物干しもいる。
生活するって大変だな、と思う。
それとともに、私には気掛かりがあった。
買い回った物の支払いを匠が全部してしまったこと。
「そんなことに気を遣うな」と、一蹴されたけど、家に住まわせてもらうのに、気にしないわけにはいかない。
家に帰ったら、よく話し合わなければ、と心に留め置いた。
あとは何を買ったらいいのか。
効率よく店を回るにはどうしたらいいのか。
噴水から視線を移し、手に持っていた館内マップを広げた。
「ねーねー。君、ひとり? 友だちと待ち合わせ?」
最初は自分に向けられている言葉とは気づかずにいた私は、肩を叩かれて、弾かれたように振り返った。
私よりも顔一つ分高いところに、知らない男が二人。私を見ていた。短髪で目の細い男と、顔に特徴のない愛想笑いの男。
心臓がドキッと飛び跳ねた。
過密気味の人混みの中でも近すぎる距離に平静ではいられない。
ひとり? 友だち? 待ち合わせ?
今頃、匠は駐車場に向かっているはず。
「ひとり……」
初めてのショッピングモール。心細くって、キュッと唇を噛んだ。
どうすればいいのかわからない。目の前の二人を見る勇気がなく俯いてしまった。視線の先。靴が自分に詰め寄るのが映り、嫌悪で後ろに下がった。
「じゃあ、さ。お茶でもどう?」
お茶?
ますますわからない。
さらに馴れ馴れしく短髪の男の手が近づいてくるのを避けたくて、さらに後ろに下がろうとしたが、噴水の淵に足を取られて身体が揺らいだ。
「あ。あぶねっ」
弾みで持っていた館内マップが離れ、噴水の中へ落ちていった。噴水の色はブルーに変わっていた。
腕の痛みに眉を顰めた。かなり強く掴まれている。
もう無理。
追い込まれて不安定な身体をたて直す空間がなかった。
「おっ、と!」
愛想笑いの男の腕の中に助けられはしたけど、良くは思っていない。気持ちの悪い人工的な臭いにも危険を感じ、全力で両腕を突っぱねた。
「離して、ください!」
声もおもいっきり張り上げた。
懸命に離れようとするのに、男の体はぜんぜん動かない。
「柔らけー。花みたいな甘ったるい匂いがして、堪んないね〜」
訳のわからない男の言葉にますます頭の中は混乱して、必死にもがいた。
びくとも動かない男に、無駄な抵抗をしていると思い知らされる。
早く匠が戻って来てくれないか、僅かでもいい、愛想笑いの男から離れようと力を込めた。
「くっそ、暴れんなよ!」
媚びた態度から一変させた男が怖かった。
「俺らはちょっとそこのカフェでお茶しようって言ってるだけだし。いいじゃん、楽しもうぜ!」
お茶とか、楽しもうとか、そんなの嫌――。
恐怖で体が震えた。
「栞?」
よく知った声がして、はっと顔を上げると、匠が男たちを睨んでいた。
「彼女のこと、放してもらえませんか?」
抑えた声で丁寧にお願いしておきながら、言葉通りではない激しさで匠は男の腕を素早く掴むと、私から引き剥がした。
掴まれていた腕がじんじんと痛む。
男たちは動揺した顔をお互い見合わせ、口々にいい訳をした。
「ひとり、って言って。誘ってほしそうな顔してたよな。俺らはべつにどうこうしようって思ってないし」
「そうそう。噴水に落ちそうになったのを、助けてやっただけだよな」
そんな言葉だったと思うけど、どんなやり取りでその場を離れたのかよく憶えていない。
気がついたら、外のベンチに座っていて、すでに体の震えは止まっていた。放心状態から落ち着くまでにしばらくの時間は過ぎたのかもしれない。
私は匠に握りしめられた手を意識しながら、隣に座っている匠を見上げた。口は閉ざされ、思い詰めた顔をしている。
「匠?」
匠は声に反応して手を握り返すと、申し訳なさそうに私を見た。
「ごめんな。怖い思いをさせたな。俺、ぜんぜん駄目だな。栞をひとりにしてばかりいる。昨日と今日の二回も。……今日はもう帰ろうか」
匠の声は曇っていて、切れ切れに呟いた。
たしかに知らない人は怖かったけど、匠が言うほど怖くはなかった、と頭を振る。
「匠が助けてくれたから。平気。せっかくだからもう少し買い物していこうよ」
それには、匠が反対した。
「だーめ。まだ顔色が悪い。今日は家に帰って休もう。あとの必要な物は明日でいい」
このことがあってから匠は、夜勤を三日に一度から週に一度に減らし、外では極力ひとりにならないよう、必ず誰かといっしょにいるよう、うるさく言って、何度も何度も刷り込むように私を諭した。
深雪には大学の時間割を把握され、あれこれ理由をつけては付き添われていることも、夏美ちゃんには、「栞ちゃんって、なんだか放っておけないのよね」と、構われていることも、気になるところ。
私はそんなに寄ってたかって心配されるほど頼りないのだろうか。
良くしてもらって不満に思うのはいけないのかもしれないけど、すこし窮屈に感じている。
何はともあれ、大学に入学して、生まれて初めての学生生活は思いのほか順調にいっている。
(2014/11/21)