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 第七章 5.     by 栞

 数日前。私は、二十歳の誕生日を迎えた。
 今日は我が家にお客様をお迎えしている。看護師のまるちゃんが、長谷川さんを誘って駆けつけてくれていた。
 『お誕生日会』といっしょに、遅ればせながらの『入学祝い』をしよう、と。
 匠も、まるちゃんも彼氏の渡井先生も、長谷川さんも同じ病院に働いていてそろってお休みできないから、女子だけでお祝いしてもらうことになった。
 私は『女子会』というものがどういうものなのか想像もつかなくて、本屋に通っては女子が好む料理は何かを調べた。美味しそうな料理の写真に魅せられ、使ったことのない食材に触れ、本の通りに作ってみたりして、それは思いがけなく楽しかった。練習に作っては匠と深雪と夏美ちゃんに味見してもらって、女子会が待ち遠しく思ったほどに。
 長谷川さんが初めてのアルコールならこれがいい、とドン・ペリニヨンの白とロゼを選んでくれた。
「合格おめでとう! 本当によく頑張った! わたしたちの後輩の未来に乾杯〜」
 二十歳という節目にアルコールを嗜む。それが気恥ずかしくて消極的になってしまう。大人の仲間入りをしたから、と言ってたくさん飲むのはいけないような気がして。
 目の前の女子ふたりを見ると、瞬く間にグラスから消えていくから慣れているってすごい。
 私はシャンパンのグラスを早々とテーブルに戻し、最初から気になっていた小さな子どもに視線をやった。
 まだ歩き始めの子どもが、辺りをキョロキョロと見回しては当て所なく歩く。よちよち、と。その拙さと丸いお尻が横揺れする動きには連続性がなく危うい。まさに目が離せない存在で、部屋にいる私たちの目を独占していた。
「あんなに小さかったのに、もう歩いてるー。子どもの成長って早いよねー」
 まるちゃんはサーモンのカナッペを頬張りながら、器用に感嘆の声を上げた。
「うん。きっとアッという間に大人になっちゃうのよぉ〜」
 長谷川さんがご機嫌な様子で、グラスを傾けた。
 子どもは初めての家が珍しい様子で、歩いてはトスンと尻餅をつき、ハイハイで移動してつかまり立ちすると、また手を離しては歩く、を繰り返している。まったく動きが読めない。
 ちょうど二本目のシャンパンを空けてしまったので、ワインを取りに冷蔵庫に向かった。ワインといっしょにトマトとモッツァレラのカプレーゼを持ってダイニングに行こうしたところで、膝頭を掴まれる感触がした。動きを止めると、子どもが私にしがみつきつかまり立ちしようとしていた。懸命にバランスを取ろうとしている姿は応援したい気持ちにさせられる。私は子どもが転んでしまわないか心配になって、ワインとカプレーゼを盛ったお皿をキッチンカウンターに戻し、ゆっくりと屈んでいった。
 間近に見えるふっくらと血色のよい頬っぺ。薄っすらと緑がかった黒くて大きな瞳が真っ直ぐに私を覗きこむと、キャッキャと笑い声を上げた。
 私の何を見てそんなに笑うのか、声を上げるほど楽しいことなのかは謎だ。それを解き明かそうとは思わせない笑顔に、私はつられて笑みを深めた。
 まだ言葉をしゃべらない子どものひとつひとつの仕草や表情が雄弁に語りかけてくるようで、その愛らしさに手を伸ばした。撫ぜると、まだ生えそろわない髪のふわふわと柔らかい感触が気持ちいい。子どもも気持ちよさそうにしている。
 そこへ、母の顔をした看護師の長谷川さんが近づいてきた。
 出産前と変わらないスタイル。柔らかなウエーブのかかった髪は肩下で揺れていた。上品な装いに綺麗な笑み。そのすべてに自信が溢れていた。
 私にはないもの。憧れる女子の理想像を訊かれたら、間違いなく長谷川さんみたいな人、と答えるだろう。
 長谷川さんと私は担当看護師と患者という関係で、嫌なことを言われることもなく、とくに問題があった訳ではなかった。むしろ看護師という職業に誠実で非の打ちどころがなかったように思う。
 ただまるちゃんほどは親しくなれなかっただけだ。
 だからなのか、対面すると戸惑いをうまく隠せないし、なけなしの笑みは消え構えてしまう。
「二月に一歳になったばかりなの。名前は、 すなお っていうの」
 そう言って私のすぐそばで腰をかがめると、悪戯っぽく目を細めた。
 そして、ひっそりと「ねぇ」と、私の気を引いた。
「直、杜原先生に似てると思わない?」
 耳元で放たれた言葉が、ひどくはっきりと頭に残った。
 不自然な息を呑む音が自分のもので、胸に痛みを感じたのは言葉を理解する以前で、私には長谷川さんの口調から言葉に棘が含まれていると辛うじて悟ったまでだ。
 謎だ。謎すぎる。子どもの謎と違って解かなくてはならないのに、謎は深まるばかり。首を傾げて考えてみたけれど、どういうことなのかさっぱり分からない。それを尋ねることもできないまま、後に続くだろう言葉を待つしかなかった。
 それなのに、長谷川さんはそれきり話を切り上げて、キッチンカウンターのお皿に気を移していた。
「わぁ。このカプレーゼ美味しそう! テーブルに持ってくね」
 そう言って、お皿を運んで行ってしまった。
 不釣り合いな明るい声が余計に私を刺激した。さっきの言葉はなかった、と掻き消してくれればいいのに。
 その後ろ姿まで美しく完成された大人の容姿を持つ人が、私を良く思っていないことは肌で感じとっていた。
 私は長谷川さんに嫌われている。
 女子会に浮かれていたというのに。気持ちが見る間に塞いでいった。顔の強ばりを解いて笑みを作ったものの、うまく笑えているだろうか。最後まで泣かないでいられるだろうか。
 ワインを勧めたり、パスタをお皿に取り分けたり、おしゃべりしたり、楽しい振りをしている自分が悲しかった。
 まるちゃんの満面の笑みを見れば見るほど、私の作り笑いが悪いことに思えてならなかった。
 それでも私は必死に繕い、女子会がお開きになるまでがんばった。


『杜原先生に似てると思わない?』
 直くんが匠に似ている。
 それって何の意味があるの?
「どうした? 浮かない顔をして。今日の女子会は楽しかったんだろ?」
 仕事を終えて帰ってきた匠が、今日あったことを聞き出そうと話しかけてきた。
 ノンアルコールのビールを片手に、生ハムやピンチョスを摘んでいる。
 私は言葉少なく、けれど、楽しかったことを思い出しながら話した。
「まるちゃんと渡井先生から、腕時計をもらったの」
 「これなの。可愛いでしょ」と見せた。アラビア数字がポイントのパールホワイトの文字盤が素敵な腕時計。ひと目で気に入ってさっそく着けていた。
「よかったな。それ、似合ってるよ」
 話せたのはまるちゃんのことばかり。長谷川さんの話題はひとつも出せずにいた。
 何を話したらいいのか、それすらも思いつかなくて、気持ちは沈みきっていた。
 匠は、「料理も美味しくできてるよ」と残しておいた女子会メニューをきれいに平らげた。
 ふだん食べるおかずとは違うよそ行きの色とりどりの料理を、今日はとても喜んでもらえたのに、私にはひどく色褪せて映って見えた、なんて言えなかった。
「今日は疲れちゃったから、もう寝るね」
 私は匠から逃げるように、テーブルから離れた。
 匠はもうちょっと訊きたそうな顔をしていたけど、「さては料理作りで燃え尽きたか」と。追求されなかった。
 最近よくするおやすみのキスも忘れて、部屋に引き上げた。
 早い時間にベッドに横たわっても、ちっとも眠れなかった。


 いつかの記憶。
 病院の医局で抱き合うふたり。キスをしていた。それは挨拶とは言えない男女の関係を匂わす類のもので濃厚だった。じっとしていられず匠を追いかけた。高層マンションから出てきた車の中には匠と長谷川さんがいて親密そうだった。
 長谷川さんの言葉を考えると、数々の出来事が鮮明に私の頭の中で繰り返された。
 ふと、『似ている』繋がりで思い出した。
 『聖母マリアの家』のさなえさんが私を見て言う。私は母親の雪乃に似てそっくりだ、と。ことある毎にそう言っては懐かしむ。そうだとしたら、子どもは親に似るもの、と想像できる。
 直くんが匠に似ているのだとしたら……。
 匠は直くんの父親? そう言いたかったのだろうか。
 訊いてみたい。
 けれど、どうしてだろう?
 単純な問いなのに、訊くのを躊躇う気持ちは。
 もしも、直くんが匠の子どもだとしたら……。
 そこまで考えてから気づく。私は対極の真っ黒い感情を抱いていることに。

(2014/12/11)


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