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 終章 2.     by 栞

「栞。どうかした?」
 私が深雪の声にすぐ反応しなかったからか、片肩を二度叩かれた。
「あ。あれ? 終わったんだ」
 自分でも驚くくらい気の抜けた声が出ていた。
 授業は考え事をしているうちに終わっていた。
 教室内は閑散として、前の方では数人が寄って笑顔で言い合っている。
 すでに教壇の匠の姿はなかった。
「今日さ、なんだか上の空だったね。何かあった?」
「……」
 咄嗟に言葉がでなかった。深雪の顔に視線を当てるだけで。
「ふーん。まぁ、いいけど。栞は午後も授業だし、僕もレポートを仕上げないと。時間、ないんだから、さっさと学食行こ!」
 深雪に腕を引っ張られ椅子から立ち上がると、促されるままに大教室を出た。


 大学内には二つの食堂がある。深雪とよく行く食堂は、医学部と工学部に近い小さな食堂で、なんとなく落ち着くからと、そこばかりを利用している。
 日替わりランチもあるけど、好きなおかずをセルフで盛り付け量り売りスタイルも学生に人気だ。お腹の空き具合で加減ができるところがいい。もしくは、調理カウンターで麺類や丼物を注文してその場で出来上がるのを待つこともできる。
「深雪。どっちにする?」
「うーん。今日はがっつりかな」
「今日『も』でしょ!」
 深雪はよく食べるのでボリューム満点のおかずをチョイスして盛り合わせることがほとんどで、その量に目を見張ることが多い。
 深雪がおかずコーナーに視線を向けるのを見て、
「私、今日は、うどんにしようかな」
 と、私は深雪の背中に声を掛けた。うどんやそばの時はたいてい調子の良くない時だ。
「食欲ないの?」
 深雪は振り向きざまかがみ込むと、私の額に手を当てた。
「熱は、……ないか」
 私と目を合わせると、柔らかく微笑んだ。
「悩み事なら、僕が聞くよ」
 そう言って促す。
「……」
「友だちだろ。話せよ」
 『友だち』という言葉を聞くと弱い。私にとって深雪は初めてできた友だちだから。
 悩みを話せばこの不安は解消するのだろうか。
「あとで、ね」
 食堂の奥の柱の陰になる窓際のいつものテーブルに鞄で場所取りをしてから、学食パスを手にしてそれぞれ目当ての昼食を買いに行く。
 私は月見うどんを注文して、プラスわかめをトッピングしてもらった。
 薬味のネギはセルフで、トングで掴み取るとたっぷりと丼にのせる。あと、一味唐辛子を少々振り入れた。黄色と緑、少々の赤色。食欲をそそるキレイな色合いに気を良くして運ぶ。
 テーブルに戻るとすでに深雪のトレーが置かれていた。
 煮込みハンバーグに、エビフライ、あと何かのフライがメインとして盛られている。ライスはもちろん大盛り。コーンポタージュスープとサラダもしっかり取っているところが深雪らしい。
 食堂を見渡すと、深雪は水を入れたコップを二つ手に、こちらに歩いて来るところだった。
「はい。水」
 うどんののったトレーにコップが置かれる。
 視線を上げれば深雪の笑みがあった。
「あ、ありがとう」
「ん。……いつも思うんだけど、水まで遠いよな」
 出入り口付近に設置されているウォーターサーバーは微妙な位置にある。
「そうだね。ここのテーブルから一番遠いもんね。中央付近にあれば、みんな利用しやすいのにね」
 こんな笑い要素のない何気ない会話の中にも、深雪は柔和な笑みを作れるのに、とため息がこぼれそうになる。
 最近の匠は滅多に笑わない。
 決して私のことを不快に思ってのことではないと日々感じられるからこそ、気になってしまうのかもしれない。
 お昼時真っ只中。ざわつく食堂の音が不思議と聞こえなくなった。
 唐突に。私は深雪に話し出してしまった。
 隠しておくつもりはなかった。自分の生い立ちを人に聞かせることに迷いがあったのは確かだ。深雪はきちんと受け止めてくれる人であることを私なりに感じとっていたけれど、まさか、こんな誰が聞いてもおかしくない場所で話そうと思ったのか、私にはその衝動を止められなかった。
深雪は私をじっと見て、ときどきは頷いて、たどたどしい話を聞いてくれた。
 私の秘密。
 深雪に言っていなかったこと。
 昔、両親が借金を苦に自殺したこと。
 当時、私は3歳で、両親の会社の担当だった銀行員に預けられて誰にも知られずひっそりと過ごしてきた。
 育ててくれた人は事あるごとに外の世界を私に見せたいと望んだけど、私はそうは思えなかった。
 ずっとずっと、変化のない世界に染まっていたかった。
 でも、18歳の誕生日に一転した。
 育ててくれた人が交通事故にあったこと。
 事故現場にはキレイなワンピースと靴が残されていた。
 私が外の世界に出た、出ざるを得なくなったきっかけだった。
 そんな時、ずっと拒否していた外の世界から迎えに来たのが匠だったこと。
 外の世界は匂いまで違っていた。
 初めてのことばかり。見るものはすべて知らないもの。会う人も様々。
 その中で私にとっては匠が一番だと思える人になっていた。
 でも、気づいたことがあった。
 育ててくれた人とは違って、匠は私を閉じ込めたがっている、って。
 外の世界はキレイなだけじゃないって言って。
 守ってくれようとしているのはわかるけど、外に出て、もっともっといろいろ見たいし、触れたいと思っている。
 ここまで一息でしゃべったため喉が渇いていた。コップの水を半分ほど飲み干してから深雪を見た。
 深雪は、悲しみのこもった顔をして私を見つめていた。
 感情が零れそう。そう思ったら、どうしようもなかった。
「好き。好きなの! 匠がどうしようもないくらい好き! ……最近、匠が笑ってくれない。そのことで悩んでる。どうしたらいいのか、ぜんぜんわからないの」
 脈絡のない、考えなしで、言葉だけを繋げてしまったことに恥ずかしくなって深雪から目を逸らした。
 月見うどんが心なしか、ぼやけて見える。
 口を挟まなかった深雪が、対面しているテーブル越し、私の手に手を重ねてきた。ハッとして顔を上げると真剣な目で口を開こうとしていた。
「栞の好きは、家族や友だちを想う気持ち? それとも、恋愛の好き?」
 ギュッと手を握られる。真意を問う目は真剣だ。
「初めて見た人間が先生だったから、好きになっちゃったんじゃないの?」
「初めて見た人間?」
 だから、好きになったって言うの?
「うん。インプリンティング、だと思うよ。生まれたての雛ではないものの、栞は刺激のない中で生きてきた。外の世界に出て初めて会ったのが先生。先生が親身になって尽くしてくれたから、栞にとっての一番になれたんじゃない? 僕はそう思うよ」
「う〜ん。難しくてわかんない」
「ん。そうだよな。とりあえず、先生には、どうして閉じ込めようとするのか、どうして笑わないのか。聞いてみたら? それで解決しなかったり、決裂したら、僕のところにおいでよ。僕のところなら、ばあちゃんもいるしね。どう? どうすればいいのかわからなければ、答えが見つかるまで僕のところに居たらいいし、なにも急ぐ必要はないと思うよ。長い人生のひととき、ゆっくりと見極める時間があってもいいんじゃないの?」
 いつもよりもゆったりと諭す深雪。それらの言葉が私の心の中に沁み込んでゆく。
 匠と離れることは考えたこともない。匠のいない時間なんて欲しくない。そう思いながらも、私の存在が匠を戸惑わせ、悩ませるのであれば、本望ではない。
「もう会わない、とか、別れる、とか深刻に考えなくてもいい。少しだけ距離を置いた方がいいのかも。それくらいのゆる〜い気持ちで考えてみたらいい。栞にとって、簡単なことじゃない?」
 どうだろう。
「少し、考えてみる」
「うん。……あー。午後の授業、始まっちゃったな。どうする?」
 食堂の時計は、思っている以上に進んでいた。
 ざわめきはない。時々調理場の中から音がするだけで、いつの間にかほかの学生の姿はなくなっていた。
「今日は休むね。このまま家に帰るよ」
 深雪は私から視線を動かさないまま、ごはんを頬張った。
 心地悪い感じがしないでもない。
 私はうどんを啜って気持ちを紛らわしていた。
「そうか。そうか。そうなのか。は〜。そっかぁ〜。……」
 深雪は何が言いたいのか、大きなため息と脈絡のない言葉を続けてから黙った。じっと食べ終わったお皿を見つめるのは何か思うところがあるのか。私は問いかけるのを諦めて伸びてしまったうどんを無理やりに啜った。
 長い沈黙の後。
「んーと、栞、話してくれてありがとう。話し難かっただろ? うん。僕から言えることは、怖がらないで、先生に相談するといい。思ってることを全部吐き出してみればいいんじゃない? きっと栞のことを一番に考えてくれると思うよ」
「うん」
「先生のことだから、悪いようにはしない。絶対にね!」
 そう言い切った深雪なのに、ふと寂しそうな顔を見せた。
「家まで携帯を離さずに持ってろよ。いつでも使える状態にして。気を付けて帰れよ」
 ひとりで帰る、と断ったから。いつまでも後を追ってくる深雪に痺れを切らす。
「もう。うるさいよ。深雪ってば! 何も知らない子どもじゃないんだから。心配しなくてもひとりで帰れるから。ほら。寒いから、もう行って!」
 昼から行くという医学部図書館の方向に深雪の背中を押す。
 そう言っているのに、いつまでも見守ろうとする当たり、深雪も十分に過保護だな、と思ってしまう。
 私は心配そうな顔に手を振って、さようならした。

(2016/12/02)


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