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 終章 3.     by 栞

 昼下がり。
 まだまだ春は遠いな、と冬化粧した風景を眺める。悴む手と手を擦りつけ、マフラーに顔を埋めながら歩き、当然何ごともなく家にたどり着いた。
 玄関扉に触れ指紋認証で家に入ると、匠の靴を見つけた。上り框に座りブーツをもどかしく脱ぐ。お気に入りの室内履きに足を入れると、マフラーをほどきながらリビングのドアを勢いよく開けた。
「栞。おかえり。寒かったろ」
 想像通り。匠が家に帰っていた。
「ただいま〜」
「タケル。もう帰ってった?」
 匠のリラックスした様子に安堵しつつ答える。
「ううん。今日はひとりで帰ってきたの」
「ひとりだったのか。危ないだろ。どうして送ってもらわなかったんだ」
 匠が眉を上げ、責める言葉を投げつけてきた。
「いいの。平気だもん。こんな明るい時間なんだから、なんにも起こらないよ」
 匠は相変わらずだな、と肩を落とす。
「それよりも匠、今日は早いね」
 もうこの話はおしまいにしたくて、分かりやすく話を逸らした。
 匠はため息をわざとらしく吐いただけで、それ以上突っ込むことを諦めてくれたらしい。
 その代わり、「今日こそは話をしようと思って仕事をさっさと終わらせたんだ」と呟いた。
 私は、それには神妙に頷いて見せた。
 「今、コーヒー淹れてるけど栞も飲む?」と、匠がコーヒーメーカーを指差した。
「うん。いい匂いしてるね。私もほしい。『うがい手洗い』してくるね」
 帰宅したら、うがいと手洗いが習慣だ。匠が頷くのを見届けるとリビングの扉を閉めた。
 なんの話だろう。
 ひとりで帰ったことに小言を言われたものの、機嫌自体は悪くなさそう。何を言われるのかちょっと心配だけど。
 自分の部屋で、手に持っていた携帯電話を部屋の中央にあるテーブルに置いて、カバンをラグマットの上に置く。マフラーとピーコートをハンガーに掛けてから、洗面所に向かった。
 リビングに入ると部屋は温かかった。
 テーブルにはコーヒー、それから、バームクーヘンが置かれている。
 あまりないシチュエーションに、構えてしまう。
「そんなに難しい話じゃないから」
 匠は、私の顔から視線を動かさずに「冷めないうちに飲めよ」とマグカップを私の方に寄せた。
「この間、栞が直を預かったことがあったろ。あの後どうなったか報告しようと思ってさ」
「うん」と相槌をうって、コーヒーを口に含んだ。香ばしい香りと深い味わいに、冷えていた身体にぬくもりが戻ってくるようだ。
「俺の弟夫婦の匡と智香が離婚した」
 『離婚』という言葉にギュッと、マグカップを握りしめた。
「直は匡と理香の間にできた子どもなんだ。理香は大学病院を退職して来月からは実家の病院で働くって言ってた。匡はすぐにでも理香を迎えたいみたいなことを言ってたけど、智香とのこともあるし、理香はおいそれと籍を入れたくない、って言い張ってる。直のこともあるし時間の問題だとは思うけど、一筋縄にはいかないよな」
「……うん。そうだね。……直くんは、元気にしてる?」
 直くんはまだ小さい。パパとママのことはわからないと思うけど、複雑な問題であることには違いない。
「智香さんは? どう? 体調は良くなった?」
 一度だけ智香さんのお見舞いに行って、少しだけ話をした。痩せてしまった身体をひどく気にしていた。人の気持ちに敏感すぎるから、疲れさせてしまわないか心配になったほど。
「ああ。直は相変わらず元気だし、智香は大丈夫。体は徐々に回復してきてるし、心の方もすごく強いなって感じる。理香に毎日電話してきてさっさと結婚しろって急かすらしい。匡にも理香と早く再婚するように迫ってるって聞いてる」
「そうなんだ。智香さんってすごいね。なかなかできないよ。人の幸せを願えるのって、すごく素敵なことだよね。私、智香さんには本当に幸せになってほしいって思う」
「そうだな」
 同じ考えという風に匠が頷いた。
「私ね、匠にも幸せになってほしい、って思ってる」
 匠は目を見開いている。
「本当だよ。最近、匠は笑ってくれないよね。私といっしょにいるのはおもしろくない? どうしたら笑ってくれるのか考えると苦しくなる。匠にはいっぱい助けてもらってるから、いつでも笑っていてほしいのに」
 いつの間にか、私は匠に抱きしめられていた。
「ごめん。ごめん。俺さ、迷ってたんだ。このままでいいのか、って。弟夫婦のこともあったし、親父との確執とかあって、いろいろ考えさせられた。先のことを真剣に考えれば考えるほど、今のままではいけない、って思うようになってきて」
「……うん」
 そうなんだ。
「この家が昔、祖父の内科医院だったこと、話したよな」
「うん。『ここでお医者さんをしてた』って匠、教えてくれたよね」
「ああ。俺は小さい頃から祖父に憧れてた。祖父のような地域の頼れる医者になりたいって思ってた。俺、ここで開業しようと思う。……栞が看護師になったら手伝ってほしい」
 私は匠の力のある眼に大きく頷いた。
「うん。うん」
 私は匠の腕の中の温かさにしがみついた。溢れそうになっていた涙を匠は吸い取るように口づけては、背中を優しく撫ぜてくれる。
 そんな風に思ってたんだ。匠の夢が叶うように私も手伝いたいって思う。いつか一緒に働けたらいいな。そう思った。
「私の話も聞いてほしい」
「ああ。栞、ようやく話してくれるのか。何かに悩んでるな、って気になってた」
 匠にずばり切り込まれてポカンと口を開けると、下唇にリップ音がした。
 真剣な話をしようとしてるのに、と不満顔を向けると、「可愛い顔してるからだよ」と笑った。悪戯が成功した、と匠が私の頬を包んだ。
「悪かった。茶々を入れて。聞かせて。栞は何を悩んでるの?」
「うん。……匠は私を守ってくれようとしてくれるでしょ?」
「そうだよ。愛する人を危険から守るのは当たり前のことだろ」
「愛するって……」
 一言話す毎に唇を重ねられ、言葉が続けられない。
「可愛い。唇が尖ってる」
 また、唇が落ちてくる。
「もう。話せないってば」
 テーブルのあっち側に戻ればいいのに。
「可愛いものは、可愛いの」
 力強く抱きしめられて身動きできない。
「守ってくれるのはうれしいけど、窮屈なんだもん」
「何? どこが窮屈なの?」
「大学の行き来、ひとりで歩いちゃいけない、とか」
「ああ」
「学内でもひとりにならないようにしろ、とか」
「ああ」
 匠は当然という顔をしている。
「大学の送迎を頼むなんて変だよ。深雪なんか匠に逆らったら単位がもらえない、って本気で思ってるんだよ。そんなのおかしいよ。可哀想だよ」
 匠は私に詰め寄られて顔を歪めた。
「買い物もひとりじゃダメ。合コンは絶対にダメ。どうしても、って時は夏美ちゃんと一緒じゃなきゃダメ、とか。心配し過ぎるところがすっごくすっごく面倒臭いし嫌なんだけど」
「そういうなよ。栞が可愛いから。何かあってからでは取り返しがつかないだろ」
「滅多にないよ。そんなこと」
「可愛いから、心配なんだよ」
 可愛いって連呼されたくないんだけど。
「可愛くないってば! 決まり事ばかり作るなら、深雪の家に行っちゃうから!」
「何を言ってるんだ。そんなことさせない! 出て行くとか絶対に許さないからな!」
 だんだんとエキサイトしてきている会話に嫌気がさして、バームクーヘンを匠の口に詰め込んだ。
「んぐ。甘いな……」
 匠が嫌そうな顔をして、苦笑いした。
「このバームクーヘンは、丸山から、栞にどうぞってさ」
「まるちゃん?」
「ああ。長い春にならなくてよかったよ。今頃グアムの空の下だな」
 まるちゃんは、交際11年目にして救命の渡井先生と結婚した。ただいま新婚旅行中だ。
「うん。グアムいいなー。暖かいところでのんびりできて。珍しいお土産を買ってきてくれるって言ってたけど、また甘いものだったらどうしよう?」
 もうこの際だから思っていることを全部晒してしまおうと、甘いものが好きではないことをカミングアウトした。
 そうしたら、「じつは俺も食べないことはないけど、そう好んでは食べない」と白状した。うすうす私が甘いものを得意でないと感じていたらしいことも。
 ムッと睨んでみたけれど、笑い飛ばされてしまった。
「珍しい土産って言ってたんなら、マカダミアナッツチョコではないな。でも、丸山のことだから、『女子=甘味好き』と思ってる節があるから、甘いお菓子の可能性は高いんじゃないか?」
 愉快そうに笑う匠がいた。
 久しぶりの笑顔に、ちょっと涙が出そうになって匠の顔をまじまじと眺める。
 やっぱり、匠が笑ってると、私も笑顔になっちゃう。
「ずっと、ずっとそうやって匠には笑っていてほしいな」
 私はそう願い、匠に抱きついていった。
「俺も栞を笑顔にしたい。幸せにしたい」
 匠の腕の中は、温かかった。
 ふと、私に雄吾の言葉がよみがえった。
『私は幸せだよ。栞がいてくれるから、幸せをかみしめることができる』
 幸せって、こんな感じ? 今は亡き雄吾に問いかける。
 急速に膨らんでいく好きの気持ち。胸の鼓動が激しくなっていく。
 頬に唇が下りてきて頬から唇にキスが移って、耳を甘噛みされる。
「よく聞いて! 栞」
 くすぐったい感触に首を捩りながら顔を上げると匠と視線がぶつかった。
 頬を包まれて、視線で返す。
 真剣な表情に頷いた。
「結婚してください」
 結婚とか、びっくりしすぎて、目がまんまるになっていると思う。
 ……私が匠のお嫁さんに?
「大学の卒業を待ってからになるけど、結婚しよう」
 なんだろう。身体の中から熱くなって、何にも例えようのない気持ちに戸惑う。
 幸せに包まれるって、こんな感じなのかな、と私は思った。
 結婚とかまるで未知だけど、匠と一緒だったら飛び込んで行けるかもしれない。
「返事は?」
「え。返事って、ふつうはどんな風に答えるの?」
「ふつうとかあるのか? YESかNOか。あ〜。そうだな『よろしくお願いします』でいいんじゃないか?」
「え。え? それって……」
 なんかずるい。YESの方しか教えてくれないなんて。
「……俺も初めてなの。なんでも知ってるって思われても困るし」
 「プロポーズなんて人生でそうそう経験するものでもないから」と匠は頭をかいている。
 そうこしているうちに、どちらからともなく笑い出した。
 お互いに笑いながら、顔を見合わせる。
 幸せだな、って思いながら。
 私らしい返事でいいなら、迷いなく言えるよ。
「素敵なお嫁さんになれるよう、がんばります! よろしくお願いします」
 私から唇を寄せて、満面の笑みを浮かべた匠にキスをした。

(2016/12/05)


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