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 終章 4.     by 栞

 寒さがゆるみ春がもうすぐというある日。
 中年の女性が私を訪ねてきた。
「栞ちゃん。わたしを覚えてる?」
 懐かしそうに目を細める顔には、残念ながら覚えがない。
 どこにでも居そうな風貌。特徴と言っても見つけ出すのがむずかしい。中肉中背で肩すれすれのボブヘアー。顔は少し面長。一重瞼で小鼻がやや張っていて薄い唇。服装は白いブラウスにベージュのカーディガン。ツイードのミモレ丈のスカート。
 どこかで会っただろうか。
 誰だかわからなくて、不審な目で見てしまったかもしれないのに、その女性はちっとも気にしない様子で、私の両の手をギュッと握って涙を浮かべていた。
「久しぶりすぎて、わからないでしょ。栞ちゃんは、ずいぶん会わないうちに綺麗になって」
 フフフッと目じりにシワを寄せて女性は笑った。
 チャーミングな笑顔に悪い人ではないんだろうと、私はおずおずと首肯した。
「今日は、田崎くんからの手紙を渡しに来たの」
 「読んでちょうだい」と差し出されて、受け取った手紙を不思議な気持ちで見つめた。
「田崎くんから、あなた宛ての手紙よ」
 亡くなってから、雄吾の話はもう誰からも聞けないと諦めていた。
 だから、震えがくるほどうれしかった。


 よく使われる一般的な白い封筒は、少し色が変わりくたびれて見えた。
 それには、こう書かれていた。
 『 川本 栞 様 』と。
 丁寧に書かれた右上がりの生真面目な字体は雄吾らしいと思った。
 手紙はこう始まっていた。

 ――いま、どんな暮らしをしていますか。
 ――幸せでしょうか。

 優しい雄吾の笑顔が思い出された。



 前略
 いま、どんな暮らしをしていますか。
 幸せでしょうか。

 この手紙を読んでいるということは、外の世界に出られたのですね。
 同時に、私は栞のそばには居ないのでしょう。

 さかのぼって思い起こすと、
 栞のご両親と知り合ったのは、私の大学時代の友人、プラタナス出版の田沼さんの紹介でした。
 栞もメールでやり取りしたことのある絵本の担当、田沼さんです。
 栞のご両親の会社の運用資金の融資を頼まれたのが初めての出会いでしたが、銀行の規定では貸し付けることはできませんでした。
 しかし、ご両親の印刷工場に足を運ぶ内に、家族ぐるみで付き合うようになりました。
 深夜も身を粉にして働くご両親に代わって、工場の片隅で遊んだり、私の部屋にも泊まったりして、仲良くなりました。
 あの印刷工場の火事があった日の前日、
 栞の母親が私の部屋に栞を連れてきました。
 二日ほどのお泊りの用意にしては大荷物だったことを疑いもせず、栞を預かりました。
 火事でご両親が亡くなったと知らせを聞いたのは、翌々日出勤してからでした。
 部屋に戻ると、栞と留守番していた田沼さんから、大変なものを見つけてしまった、と報告を受けました。
 栞の荷物のかばんの奥底に、ご両親からの手紙、栞の通帳と印鑑、万華鏡がひと包みになって入っていたのです。
 私は悩みました。
 身よりもなくひとり残された栞が不憫で、しばらくはいっしょに暮そうと思いました。
 そう判断したのは間違っていたのかもしれない、と思わない日はありませんでしたし、ご両親から栞を託された手紙といっしょに警察に行くことも考えました。
 しかし、印刷工場に取り立てに来た怖い人たちのことをひどく怯える栞を思うと、それもできませんでした。
 栞を守ろうと決めたことは、実は利己的で浅はかな考えだったのかもしれません。
 栞が外に出ることを願いながら、出られなくしてしまったのです。
 私の身勝手で、栞からまっとうな暮らしを遠ざけてしまいました。
 どうか私の罪をお許しください。
 栞の幸せを祈っています。
 草々
 田崎 雄吾

 この手紙は田沼さんに託します。
 彼女は栞が5歳まで訪ねてきていたので面識があると思います。





 この手紙に書いてあるプラタナス出版の田沼さんのことは、うっすらとだけ記憶に残っている気がする。
 顔も思い出せないほどだけど、今は見なくなった夢に出てきていた女の人が、田沼さんだったのかもしれない。
 田沼さんは、私が外の世界に出ることを、強く願っていたのかもしれない。
 幼い時に会っていた田沼さんと、メールのやり取りをしたことのある絵本の田沼さんが同じ人物だったとは思ってもみなかった。
 私がひとりで過ごせるようになった頃から、部屋を訪れなくなっていたからだ。
 そうしたのは意図的な雄吾の考えだったのだろう。


「わたしね、田崎くんとは大学生の時に知り合ったの。学籍番号が前後で。男の人にしては小柄だったでしょ? わたし、男の人が苦手なんだけど、田崎くんだけは平気で、自然とお付き合いするようになったの。田崎くんのことが、ずっと好きだった」
 田沼さんは洟を啜ってから息継ぎをした。
 雄吾との思い出話と私の幼い日のエピソード。
 たくさん、たくさん話をしてくれた。
「田崎くんに別れを言い渡された時。わたし、自分を見失ってしまったの。醜い嫉妬から栞ちゃんが大切に持ってたものを取り上げて、部屋から持ち出したの。やってはいけないことだったのに。ごめんなさい」
 そう頭を下げた田沼さんは、顔を上げないまま膝の上にポタリと涙を落とした。
「今日は、栞ちゃんに返しに来たの」
 田沼さんの手提げ袋から、布に包まれた細長い形をしたものを取り出した。
 「万華鏡よ」と渡された。
「その万華鏡は、栞ちゃんのお母さんの持ち物だったらしいの。田崎くんが言ってた」
 万華鏡は母の形見なのだろう。
 布をほどくと、万華鏡が姿を現した。
 高価な品には見えない、美しい細工も施されている訳ではない黒い筒の万華鏡を覗いて手の中で回転させてみた。
 ――ああ。知ってる模様だ!
 よく覚えている。
 万華鏡を回しながら次々に様変わりする模様を見て、飽きないでよく見ていたな、と思い出した。
 万華鏡をゆっくりと離して、田沼さんに視線を移した。
「万華鏡のこと、忘れてました。だけど、覚えてます。万華鏡の中の模様。全部……」
 それ以上続けられず、こみ上げてくるいろいろな感情が言葉を阻んでしばらく黙ってやり過ごすしかなかった。
 漸く絞り出せた言葉は、批判でも非難でもなかった。
 シンプルに感謝の一言だった。
 「ありがとうございます」と。


 田沼さんは今も独りでいる。プラタナス出版で働いているそうだ。
 私は、絵本の翻訳も細々と続けることを約束した。

(2016/12/08)


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