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 終章 5.     by 栞

 大学を卒業後、結婚して二年の月日が経った。
 今、私は看護師をしている。
 そして、匠は自宅の隣にお祖父さんの遺した病院を開業した。
 『もりはら病院分院』という形でスタートだ。
 匠のお父さんとあった確執も雪解けと言っていいのか、匠に跡を継いでほしかったお父さんも分院に理解を示してくれている。
 当初、夜勤のない暮らしになると言っていた匠だけど、自宅と隣り合わせの病院は時間外に呼ばれることも多い。
 匠は、今夜も急患で自宅を出て行った。
 私は、仕事と家事で日々忙しく、そして幸せに暮らしている。


 私の身近な人はどうしているか、と言えば。
 親友の深雪とは、よくメールで会話している。

 ――元気?
 ――元気。
 ――いま、何してる?
 ――コーヒー飲んでる。少し前パパは急患で出てった。

 既読になったあと、深雪から返事はなかった。
 たぶん来るだろうな、と思った数分後には自宅のチャイムが鳴った。
 相変わらず深雪は匠の留守にやって来る。
さくら ちゃん。よく寝てるね」
「うん。昼間桜を連れて買い物に行ってきたの。連れまわしたから疲れて早く寝ちゃった」
「せっかく大人の時間ができたっていうのに、急患って先生も残念だね」
 深雪は意地悪な顔をして私を揶揄った。
「もう。そんなんじゃないもん」
 けれど、「そろそろ二人目ができてもいいね」なんてふたりで話している。
 恥ずかしさに背を向け、深雪にコーヒーを淹れようとダイニングに連れ立った。
 「そうだ」と深雪が思い出したように呟いた。
「大学病院の桜が咲き始めたって、夏美が言ってた」
 深雪と夏美ちゃんは大学病院で働いている。
「そっか。もうそんな季節なんだね」
「週末には満開だろ。花見しながら、桜ちゃんのお誕生日会ができそうだね」
 私と匠との間にできた子どもを『 さくら 』と名づけた。
 帝王切開で出産した大学病院の桜の木を、咲き始めから満開に至るまで眺めて過ごした。その時の桜があまりに美しかったので『桜』と。
 安直な名づけだけど、桜色の頬っぺが愛らしい女の子だからそれでいいと思っている。
「初めてのお誕生日だから、盛大にお祝いしてあげないと」
「うん。ばあちゃんも楽しみにしてる。あれやこれや言ってプレゼントを用意してるよ」
 深雪の祖母みつ子さんも健在だ。
 『聖母マリアの家』の園長さなえさんもお祝いに駆けつけてくれるだろう。
 『喫茶店オータム』の亜紀さんもお料理をケータリングしてくれる。亜紀さんの娘の春香さんは、美容室を続けシングルマザーで女の子を育てている。
「まるちゃん一家も来るんだって?」
 そうだった。
 なんと、まるちゃんと渡井先生夫婦は大学病院を退職して、へき地の診療所で男の子二人を育てている。
「うん。二年ぶりの再会。すっごく楽しみ♪」
「僕も楽しみだよ!」
「うん。幸せだね〜。みんなにお祝いしてもらえて。桜はほんとうに幸せものだね」
 コーヒーの入ったカップを深雪に手渡しながら、微笑み合う。
「深雪もみつ子さんに孫の顔を見せてあげられそうなの?」
 私は日頃から気に掛けていることを訊いてみた。
 ふと、深雪の表情が揺れたように見えた。
「いや。僕は独りを貫くつもり。孫は見せられないけど、桜ちゃんが孫代わりってことで、ばあちゃんには許してもらいたいね」
 そんな風にはぐらかして深雪は小さく息をした。
「深雪はモテるのに、もったいない。夏美ちゃんとはどうなの?」
 小さく首を振った深雪は、笑みを消して視線を落とすとコーヒーを飲んだ。
 夏美ちゃんとは付き合うまではいかないのかな。同じ職場で働いているのに。
 なかなか引っ付かない。
 夏美ちゃんはずいぶん長く片思いをしている。


「ちっ。また俺の居ない時を狙って来たな」
 匠が分院から帰ってきた。
「前田のおじいちゃん、どうだった?」
「ああ。大丈夫。診察してちょっと話してたら「なんでもなくなった」って帰ってったよ」
「はあ? 急患でもないのに受け入れるってどうなの」
 深雪が眉をひそめた。
「でも、風呂入ってたら心臓がおかしくなったって電話かけてきたのに、診ない訳にはいかないだろ」
 そのための地域を支える医師なんだから、と匠は笑う。
 このへんは昔からの住宅街だから、お年寄りが多くいる。
 独りで暮らす人の中には心細さにちょっとしたことで電話をかけてくる。
 そんな人にも手を広げて受け入れたいと思っている。
 匠はほんとうに優しい人。
 私はそんな夫を誇らしく思い、さらに愛しさが募ってゆく。
「さて。お邪魔だろうから、僕は帰ろうかな」
 深雪はコーヒーのカップをキッチンに返して、リビングを出て行った。
「何なんだ。ほんとうによく顔を見せに来るよな。あいつ」
 匠はおもしろくなさそうにため息を吐いて私を抱き寄せた。コツンと額をぶつけられキスが合図になった。
「今日もお仕事お疲れ様でした」
 大人の甘い甘い時間。夜も深まる。
「栞もお疲れさん。……あいつに何もされなかった?」
 深雪のこと? ライバルでもないのに、そんなふざけた睦言。
 キスが深くなって、熱い吐息と嬌声が絶え間なくなってゆく。
 愛されていると身体で思い知り、倦怠感を訴えているのに匠は意に介さない。
 この情熱はいつまで続くのか。
 すでに空が白み始めている。
 私は「いい加減ギブ。もう寝かせてよ」と匠から背を向けベッドに沈み込んだ。


 ようやく眠れたと思ったら、桜に起こされた。
「あ〜。ママはとってもとっても眠いんです〜。でも、おっぱいは待ってくれないよね〜」
 眠気眼でよろよろと桜のベッドに向かうと、先に匠があやしてくれていた。
 桜におっぱいを含ませる。
 大きな瞳にじっと見つめられて私は微笑みを返す。
 勢いよく飲む愛娘の姿に「たくさん飲んで大きくなってね」と話し掛ける。
「昨日の夜は飲まずに寝ちゃったから、お腹空いてるんだと思う」
 隣で黙って見ている匠に肩を撫ぜられた。
「ご苦労さん。栞。身体つらいだろう?……ごめんな」
 横目で見ると、後ろめたそうだ。
「わかってるんなら、もうちょっとあっさり目でお願いします」
 私は、濃厚で熱かった夜のことを思い出して、顔を火照らせた。
 心なしか、深雪の現れた後はいつも以上に強引で執拗な気がする。
「栞。顔が真っ赤。変わらないな。そういうところ」
 「ねえ。桜。恥ずかしがりなママは可愛いでしゅね〜」と話しかけている。


 こんな風に時は経っていくのだろうか。
 お墓の前で、雄吾に話しかけた。
「娘の桜は、三歳になりました」
 桜は誰に話しているのか、と私の顔を不思議そうに見てから、興味を失った様子で片時も離さない万華鏡で遊びだした。
 私は、ベビーカーに眠る我が子を見て、さらに言葉を繋いだ。
「息子の あおい です。青空の下で生まれたから、そう名づけました」
 見上げると、青く澄んだ空が広がっている。
「ママ。見て見て。ひまわりみたい! すっごいのできたっ!!」
 桜は夢中になって回していた万華鏡を、私にも見せようと渡してきた。
 覗いてみると、向日葵と言った形はわからなかった。手渡した時にでも崩れたのだろう。
 けれど、私は知っている。
 幾通りにも見える万華鏡の中の世界を。
「ほんとうだ。キレイなひまわりができたね〜」
 そう微笑んで万華鏡を返すと、桜は満足そうに頷いて、またくるくると回して遊びだした。


 ふと、雄吾からの手紙を思い出した。

 ――いま、どんな暮らしをしていますか。
 ――幸せでしょうか。

 それに返事をするとしたら……。
 息を吸い込んでから空を見上げた。

 ――いま、最愛の家族ができて穏やかに暮らしています。
 ――私は、幸せです。



(完)
(2016/12/08)


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