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 1.  ここが住まいだなんて思わないでしょ

ガラスの向こう側から朝の気配が訪れる頃、南川 愛みなみかわ あいは体内時計通りに目を覚ます。
 白い壁。大理石の床。埋め込み型のLED照明。無駄なものがない住空間の中、ベッドから起き上がった。
 ショートスリーパーの愛は、起きてすぐに行動を開始できる体が唯一のいいところだと思っている。
 ベッドのリネン類を剥ぎ寝室を出て、洗面室に歩いていく。洗濯機を動かし、身支度を整えるとキッチンに向かった。
 コーヒーを淹れ、昨日買っておいたベーグルを軽く温めた後、お行儀悪く立ったまま朝食をとった。
 独り暮らしの愛は、誰にも咎められない気楽さを気に入っている。
 朝食の合間、お弁当用の玉子焼きを作りながら、今夜の夕食の献立を考えた。
 冷蔵庫の中は、週末からの作り置きしたおかずが占め、気持ちにも余裕がある。メインを考えるだけで献立が簡単に決まる。冷凍してある味付けした鶏もも肉でも焼こうか。そんなことをぼんやりと思いながら、右手に小さくなったベーグル、左手のマグカップを口に運んだ。

 まさか、この社屋のワンフロア―に住まいがあるなんて誰も普通は思わないだろう。愛の父親である社長と愛のいとこにあたる社長秘書の吉田 優花よしだ ゆうかしか知る人はいない。
 ここに愛が住み着いていること自体秘密にしている。
 多少無機質でだだっ広い空間がオフィスっぽさを隠せていないが、なにより通勤時間がゼロ分という気楽さ。アクセスの良い立地条件。合理的好きな愛としては、悪くないと満足している。
 朝食も食べ終わり、キッチンから出ると、洗面室に移動して、愛は歯を磨いた。歯ブラシをうごかしつつ、鏡を覗き込む。髪に強いうねりのあるくせ毛のせいで、肩下20センチはキープしてひとつに束ねることが多い。少々薄毛という悩みがあるので地肌が見えないように緩めにまとめるようにしている。
 鏡に映る愛の顔は、平凡で取り立てて美しいパーツでもないと自覚しているが、「おでこの形がキレイ」と褒められるので前髪は作らず額を見せている。
 化粧は最低限のマナー程度。基礎化粧にパウダーをはたくだけ。血色よく見せるために頬に少々赤みを入れ、主張のないおとなしいベージュの口紅に少々グロスをのせて出来上がった顔を確認した。
 化粧が終わるタイミングで、洗面室隣のランドリールームで洗い終わった洗濯物を干し、洗濯乾燥のエアコンのスイッチを押す。
 これが愛の毎朝のルーティーンだ。
 お弁当と水筒、携帯電話、小銭入りの財布を入れたトートバッグを手に、非常階段に繋がる扉から出てオフィスフロアーに向かった。
 歩くとパンプスの靴底からコツコツと規則正しく音がして、その頃には完全な仕事モードに切り替わっていた。
 非常階段を1階分下りて、エレベーターに乗り3階で下りると、そこが仕事場だ。

 愛は28歳。エスカレーター式の小・中・高・大学を卒業して父親の会社に就職した。
 これまで言われるがまま淡々と生きてきた。選択に思い悩むような岐路に立たされたこともなかった。
 入社3年ほどの受付業務を経て、現在は営業部に籍を置いている。仕事は営業のアシスタントで芳村課長に付いている。
 芳村課長は、入社当初受付の仕事を教わった麻美先輩の夫であり、麻美先輩は芳村課長の前のアシスタントでもある。
 麻美先輩が寿退社するにあたり愛が営業部に転属し、後を引き継いで今に至る。
 営業のアシスタントとして3年目を迎え、仕事にも芳村課長にも慣れて順調そのものだった。
 営業部のデスク回りを拭き掃除する朝の早い時間にはまだ誰もいない。静寂のオフィスで愛は小さく笑みを浮かべた。
 扉の開閉音に顔を上げると、芳村課長が入ってくるのが見えた。
「おはようございます。課長」
「愛ちゃん。おはよう」
「……今朝は早いですね」
 芳村課長が出勤してくる頃は、営業部の面々ほとんどが出社している。
 腕時計をそっと確認すると小一時間は早い。
「うん。ちょっとやりたいことがあって、今朝は車で来たんだ。高速が意外にスムーズだったから早く着いた」
「車ですか。珍しいですね」
「うん。今日は高坂を空港まで迎えに行くからね」
 そういえば、中国駐在の高坂 理久たかさかりくがこのたび営業部課長として着任することになっている。
 病気入院で不在だった営業部部長の後を、芳村課長が引き継ぐことになっていた。
「あ。間違えました! 課長ではなく『部長』でした」
「ははは。肩書なんてどうでもいいよ」
 朗らかに微笑む芳村部長は、年々恰幅がよくなっているような気がして、まさに幸せ太りだな、と愛は微笑を返した。
「部長の退職で、俺が押し出されただけだよ。仕事は兼任してたからやることは変わらないしな。これからもよろしく!」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
「うん。だからって言うか、ときどきは愛ちゃんの淹れてくれたコーヒーが飲みたいな。これまで通りとはいかないと思うけどさ」
 含んだ言い方に気づいた愛は芳村部長をまじまじと見た。
「えっと。じゃあ、わたしは新しく来られる高坂課長のアシスタント、ということですか?」
「うん。さすが話が早い。仕事をわかってるアシスタントの方がいいだろう?」
 部長に補佐的な人は今まで置かれていなかったのだから、愛は部長のアシスタントとはいかない。
「そう、ですね。わかりました」
「迎えに行くまで時間もあるし、部長部屋にでも引っ越すか」
 部長には一部屋与えられている。営業部フロアーの一角にガラス張りになったスペースがあり、部屋というほど閉鎖的ではないものの一種のステイタスであることには間違いない。
 重い腰を上げるようにして立ち上がった芳村部長は、「段ボールがいるな」と備品室の方にのんびりと歩いて行った。


(2017/2/21)

  

イラストもずねこ

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