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 3.  ほんとうに5歳の子どもなの?

「ただいま」
 玄関扉を開けて程なく小走りの音が聞こえた。ふだんしない音に顔が自然に緩む。
 この部屋で、誰かに迎えてもらうなんていつ振りだろう。
「おかえり。ママ」
 いつからこの子どものママになったのか、と愛は呆れた顔を浮かべ首を勢いよく振った。
「わたしは、ママじゃないのよ」
 子どもの目線に身体を落としてから柔らかな髪を撫ぜた。
「パパはお熱が下がったら病院に迎えに行くから、それまでお姉さんといっしょに待ってようね」
 愛は自分の事を『お姉さん』と表現して口元を上げた。
 子どもの名前は、高坂 空たかさか そら
 愛は『空くん』と呼ぶことにした。
 空は5歳なんだそう。
 愛が仕事に行っている間。ひとりで留守番できると言い張り、空のリュックに入っていた本を読んで待っていてくれた。
 愛の料理を「美味しい」と褒め、食事のマナーもきちんとしている。片づけも手伝えるといろいろ感心しつつ、我がままを言わない空を愛はベッドに寝かしつけた。


「今日は無理言ってごめんね。高坂さんはどう?」
 愛は友人に電話していた。
『うん。まだ眠ってる。点滴が効いてほぼ平熱近くに下がってきてるから、心配しないで』
「ありがとう。ほんとうに助かった」
『うん。いいよ。そんなの。それよりも子どもはどうしてる? パパのこと心配して泣いてない?』
「泣いてないよ。もう寝ちゃったもん。なんだろう? なんていうか子どもって感じがしないんだよね」
『へー。しっかりおしゃべりする子だとは思ったけど、よかったじゃん。我がまま言って困らせたりしてないなら、安心だね』
「うん。……」
 昼間、友人は子どももいっしょに預かってくれようとした。子育て経験のない愛を心配してくれて。
 『安心だね』と言われて頷いたものの、なんとなく子どもに感じた違和感のようなものを愛は説明できないでいた。
『ま。こっちのことは任せて』
 そんな風に友人とおしゃべりして、金曜の夜は更けていった。


 愛は休みの日も朝は早い。
 目が覚めて傍らを見ると空はおとなしく眠っていた。寝相も悪くない。寝息までも静かだった。
 窓の外は明けたばかりで雨の気配はなかった。たしか天気予報は晴れのはず。
 今日は病院近くの公園で空を遊ばせてから迎えに行くのもいいかもしれない、と愛は起き上がり伸びをした。
 朝ごはんに、白いごはんと蕪のみそ汁。玉子焼き。
 簡単なものを食卓に並べて、空といっしょに食べた。
 食べ方も美しい空に、子どもって案外しっかりしているもので、愛が思う子ども像とは大幅に違っていることに気づいた。
「食べたら、パパを迎えに行こうね」
 空は美味しそうにみそ汁を飲み干すと「うん」と笑顔で頷いた。


 朝の時間が早かったことで、少しだけ公園で空と遊んでから病院に向かった。
 昨日の印象とは打って変わった高坂 理久はすでに起き上がっていた。昨日と同じ格好なのに、キレイめのスタイルに見えるし、髪を整えているからか別人のようだ。
 むしろ、整いすぎた顔が嘘くさく見えるくらいだ。人間味が薄いというか……。
 きっと、昨日が悪すぎたのだろう。
「アシスタントの南川です。宜しくお願い致します」
 昨日できなかった挨拶を改めてすると、「高坂 理久です」とよく通る声が返ってきた。
「昨日は申し訳ない。空を見てくれてたんだって? ありがとう」
「理久くん。愛ちゃんはやっぱりママだよ。パーフェクト!」
 『パーフェクト』の発音の良さに愛が目を丸くさせていると、理久は歯を見せて笑った。
「パーフェクトか。それはいい」
「あの。空港で荷物を預かってもらっているので今から取りに行きましょう。お住まいまでお送りしますので」
 理久は、ちょっと気まずそうに顔を曇らせた。
「まだ。部屋を決めてないんだ」
「あ。そうなんですね。じゃあ荷物のあとは、不動産屋ですね」
 友人に送られ病院を出ると、愛たちは空港で荷物を受け取った。
 今日中に部屋が決まれば、愛はお役目を終えられると簡単に考えていた。
 会社の近くの部屋が希望で、物件をいくつか見せてもらったが、理久は妥協しなかった。
 セキュリティーは完備されているがワンルームで狭い部屋。
 比較的新しい高層マンション。しかし一階部分というのがお気に召さなかった。
 また、3LDKと広い部屋は築年数が古すぎて耐震強度が気になると却下した。
 最後の物件は、最上階でグレードも申し分ないように愛には思えたのだが……。
 もう夕暮れで、空はうつらうつらしている。
「空くん。疲れちゃったんですね。今夜はどうされます?」
 愛はハンドルを握る手を止めて言った。
 このまま別の不動産屋に行っても決まりそうになかったから。ホテルでも予約しますか? と訊くつもりだった。
「ぼくは愛ちゃんと寝る!」
 眠っていたはずの空が力強く声を発したので愛はびっくりした。
 これまで我がままという我がままを言わなかった空に、愛は「ダメ」とは言えなかった。
 会社に自宅があることを知られたくない気持ちもあったが、成り行きと諦め理久を愛の家に連れて帰ることにした。


 理久は地下駐車場で車から降りると訝し気な表情で見回した。空に手を引かれて社屋の建物に入るとエレベーターに乗った。愛はカードキーを使って自宅の階で止める。エレベーターの開ボタンを押しながら理久を見上げた。
「ここが自宅です」
「ここって、会社なんじゃ……」
 戸惑った言葉が途切れて後が続かない。
「どうぞ。入ってください」
 空は昨日泊まったこともあって、先入観もないから、愛の後を素直に付いてきている。
「あの。普通のマンションの部屋と造りは同じなので。どうぞ」
「……ああ」
 指紋認証で扉を開けて促す。
「ねえ。理久くん、早く入ろうよ」
 空は理久の腕を引っ張った。
 若干引き気味の理久を、空は得意げな顔でリビングまで案内するのを愛は後ろから見守った。



  (2017/4/3)

   

イラストもずねこ

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