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 8.  目立ちたくないのでお断りします

 翌朝。
 今日は理久の初出勤と、空の初登園という日。
 愛は他人事ではない気持ちで早朝からそわそわしていた。
 一日の段取りを組み立ててお弁当と朝食を早めに用意してから、空を起こしてお風呂に入れ、身支度を整えてから準備万端で理久を起こした。
 大事な日だと思うのに、理久は今朝も寝起きが悪く動きに覇気がなかった。
 そんな理久を見て、空は理久の背中を叩いた。
「理久くん。もういいよ。保育園は愛ちゃんが連れてってくれるから、お迎えだけは必ず来て!わかった? 忘れないでよ!」
「……わかった」
 理久は背中を擦ったあと、テーブルに突っ伏した。
 誰が保護者なのかわからないやり取り。しっかり者の空と頼りない理久に愛は呆れつつ、何となくの立ち位置を受け入れ空の言う通りにすることにした。


 ビルの中にあるたんぽぽ保育園に愛は緊張しながら足を踏み入れた。
 結局、保護者である理久も付いてきた。
 入園手続きを済ませ、空は5歳児クラスの部屋へ入っていく。初めてのお友だちにさっそく囲まれているのが廊下から見えた。
 愛は空に視線を向けて、余裕のある空の態度にとくに心配することはないか、と踵を返した。
「パパ。ママ。いってらっしゃ〜い!!」
 後ろからの元気な声に、理久も愛もびっくりして振り返ると、空が満面の笑みで手を振っていた。
 何か思惑ありげな大人顔負けの表情にも見えて愛は何も考えまいと頷き返し、ぎこちない足取りで保育園のあるスクエアビルを出た。
「……パパ。ママ。だってさ」
 後ろにいる理久のつぶやきにも愛は気づかないふりで会社に向けひたすら歩いた。


 朝から通常とはちがう空気感というか先週までの営業部とは異なる熱を感じて、愛は集中を切らせていた。
 今日は無駄に人の出入りがあり、デスク回りが煩い。
 その原因は説明するべくもなく理久にあった。
 社内の注目の的であるのは予想通りだったが、愛の仕事にまで影響があるとは思ってもみなかった。
 理久を目当てに訪れる面々は女性も多かったが、そればかりではない。他の部署から来る男性社員が入れ代わり立ち代り、それはそれは忙しない。
 その中心にいる理久のプライベートな一面を知ってしまった愛でも、背筋がまっすぐ通った姿と仕事ができる顔は格好良く見えた。
 明日から理久は外回りの引継ぎに入る予定で日中はほとんど社内にはいないだろう。このような浮ついた雰囲気も今日限りだろう、と愛は思うことにし、お昼休憩に入ることにした。


 会社の休憩スペースは、各階にありお弁当を広げられる小さなテーブルも設置されてはいるが喫煙ルームとガラスを隔て隣り合った造りになっており、視線を気にしながらお弁当を食べるには少々居心地が悪いような気がして、時間がなく急いで食べなくてはならない時以外、愛は社員食堂の隣にあるカフェテリアで取るようにしていた。
 エレベーターを一階で降り、受付に座る後輩と会釈を交わした後、自動ドアをくぐると北側が社員食堂、南側がカフェテリアになっている。社員食堂とは言っても誰でも利用できるため近くの会社員や一般の人も交じって結構にぎわっている。
 以前、テレビで社員食堂の特集で紹介されて以来、外向けにもお洒落でメニューも改変され人気のスポットになりつつあり、社員だけのものではなくなった。
 居心地の良さを求められない気がして、愛は食事時のやや静かなカフェテリアに足を進め中庭が見える窓際のカウンターに独り座って食べ始めた。
 中庭には都会を忘れさせてくれる緑の木々がいい具合に植わっている。
 整いすぎた庭ではないところが好ましいと愛は思っている。
 お弁当の包みをほどいて広げると、甘辛い食欲のそそる匂いがして、なんとなく落ちていた気持ちが上がってきた。
 今日のお弁当は、玉ねぎの肉巻きがメインのおかずで、人参しりしりと玉子焼き、ゆでブロッコリーで彩りよく見えるよう工夫しているつもりだ。
 社員食堂でもカフェテリアでもお弁当の持ち込みができるが、ほとんどの人がサラダや一品もの、お味噌汁などを購入して利用しているし、愛もお弁当の後の楽しみとして、コーヒーを飲むのが日課になっている。
 今日の気分は、カフェオレかな? と、愛は黙々と食べながら思った。
「隣いい?」
 理久がコーヒーカップを二つ乗せたトレーを持っているのを見上げた愛は、どうしようかと思案する。
 たぶん、一つは愛の分だろう。
 正直に休憩時にまでかかわりたくない、と顔に出ているはずなのに、理久は有無なく隣に座り込む。
 後ろの方に理久と関わり合いたそうなキレイめ女子たちの視線を感じ、愛は愛想笑いも凍りつきそうになった。
「お疲れ様です」
 何に対しての労いの言葉なのか愛は含みを持たせて言った。
「あー。もう半日でクタクタ。帰りたい」
 ぼそりと呟く理久に愛は同情の目を向けた。
 だからって、愛のところに逃げて来なくてもいいだろうに。
「ね。それちょうだい」
 返事も返せない内にすらっとした長い指が伸びてきて、お弁当箱から玉子焼きが消えていった。
「あ」
 愛は最後にとっておいたおかずをさらわれ呆然と空のお弁当箱をながめた。
「美味しい。明日からはぼくにも弁当を作って」
「えー。目立ちたくないのでお断りします。さっきはお綺麗な女子に囲まれて幸せそうでしたけど?」
 社員食堂のにぎわいぶりを横目で確認したところで、騒がしい女子のかたまりの中心に理久がいるのが見えていた。
 余裕の笑みを浮かべていたのは、間違いではないだろう。
「そんな風に見えてた?」
「はい。見えました」
「えー。そんな訳ないし」
「人気者の宿命を背負ってがんばってもらわないと困ります」
 そして、なるべくなら影響のない範囲でありたい。関わるならおもに仕事だけで。
 こそこそと話す愛と理久のやりとりを、遠巻きから目を光らす女子たちはハンターさながら。
 平穏を望む愛の環境はこの日を境に変わっていくのだった。



  (2017/10/4)

   

イラストもずねこ

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