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 10.  恋愛を自覚しないままごく自然に

 早朝六時。
 愛はベッドを揺らさないように起き上がった。いつものルーティン通り動き、キッチンでは朝ごはんの準備に取り掛かった。
 人工大理石で設えたキッチントップの上には作りかけのお弁当と仕事用のトートバックを用意していた。
 微かにトートバックが震えているのに気づいた愛はスマホを取り出した。
 幼馴染の田中 正広からだった。
「もしもし」
『愛』
「ん。正広。おはよ」
『はよ』
 あまり掛けてこない相手からの着信に愛は首を傾げた。
「電話。珍しいね。どうしたの?」
『うん。今週末、こっちに来るんだって?』
「ああ。ん。そのつもり」
 正広の母からあのことが伝わったのだろう。
『お袋から芋掘りするって聞いてさ、愛の畑に来てみたら、もうちょい早いかなって。まだ一週間は掘らんほうが良さそうだ』
「ふうん。わかった。ありがと」
『ん。あと、ナスと甘長ピーマンがたくさん実っとるからとってやらんと』
 正広は平日の畑の世話を引き受けてくれている。
「そう。今、電話は畑から掛けてるの?」
『うん。そうだけど』
「じゃあ。正広ん家の分の野菜、収穫してってね」
『サンキュ! ……あとさ、天気良さそうだし、布団干しとこうかと思って』
「え?」
『金曜の夜から帰って来いよ。……待っとるから』
「……正広」
『そんだけ。じゃあな』
 愛が返事をしないまま、通話は切れてしまった。
 ため息をひとつ吐いて、スマホをトートバックにしまう。
 愛と正広は大学生の頃から男女の関係を持つようになった。
 恋愛を自覚しないままごく自然に。
 そういうことになった切欠がどうだったのか今では思い出せない。
 正広のことは嫌いではない。むしろ好きな方だ。
 けれど、最愛の人であるか、と尋ねられると困ってしまう。
 頷くにはきっと想いが軽すぎた。
 それに、正広のことが好きなのは、社長秘書であるいとこの優花なのだから。
 愛は複雑な思いで、またひとつ深いため息を吐いた。


 パタパタと軽快な足音がして視線を上げると空がキッチンにやってきた。
「愛ちゃん。おはよう!」
 キラキラの瞳で朝からご機嫌な空の顔に愛も微笑んだ。
「空くん。おはよう。今日もひとりで起きられたね! エライね!」
 空は得意気な顔をしている。
「もうすぐ朝ごはんができるから、課長、起こしてくれる?」
 空は「は〜い」といい返事をして、ベッドへ戻って行った。
 ダイニングテーブルには、玉子の厚焼きサンドイッチとコーヒー、オレンジジュースのグラスを運んで、あとは野菜スープを器によそうだけ。
「かちょー。かちょー。起きろ!! 起きろ!!」
 パーテーションの向こうからは理久を起こそうとする空の元気のいい声が聞こえて、愛は小さく苦笑した。毎朝起こすのに苦労しているな。
 『課長』と呼ぶのはちょっと変だったかな。
 けれど、プライベートに深入りしたくない愛としては名前呼びだけはしたくないと思っていた。
 暫くして、寝癖のついた髪を掻きむしりながら理久が起きてきた。
 相変わらずの寝起きだ。
「課長。おはようございます」
「……」
 起きたての理久はぼんやりと寝足りない顔をして座った。
 仕事の時にはイメージできない残念な姿が笑いを誘う。
「課長。コーヒー淹れたてですからググっと飲んで早く目を覚ましてください」
 「ほら」とマグカップを手に持たせる。
 空は理久と愛の様子を交互に見てから手を合わせた。
「いただきます!」
 空の挨拶で朝ごはんを食べ始めると、理久も少しずつエンジンがかかってきたようだ。
「課長。週末は部屋探しをされるんですよね?」
 愛は気がかりであることを理久に問う。
「ん。そのつもり。できるだけ会社に近い方がいいんだけど、マンションに限らず一戸建てに広げてみようと思って。さすがに一戸建てはオフィス街では難しいだろうけど、車を購入するつもりだから通勤できる範囲で考えてる」
「一戸建て?」
 この間の部屋探しではマンションの比較的新しい物件を希望していたようだし、セキュリティーを重視していたように感じた。
「ん。会社にも、空の保育園にも、住所を届けないといけないから悠長に構えてられない。金曜日に有給休暇を半日もらう予定。不動産屋にはいくつか物件を紹介してもらうことになってるから午後から見学してくる」
 部屋探しを本気で考えてくれるのならいい。いつまでもこのまま居座られることを心配していたが、前向きでよかったと愛は安心した。


 金曜日。
 仕事を定時で上がろうと愛は考えていた。企画書は月曜日に仕上げることにして、畑の家に行こうと思っていた。
 夕方、出先から直帰だった理久から会社に連絡が入った。
 『家が決まった』と。
 四時間ほどでスピーディーに家問題が解決したことに、愛は心躍った。
 テンションは上がったが、私用電話ということで受話器を押さえながら小声で話す。
「よかったですね。荷物を運ぶの手伝いますね」
『ん。家はリフォームとハウスクリーニングされたばかりの中古住宅だけど、会社まで車で七分。ギリギリ徒歩圏内ってところ。それに、即入居できるって』
「すごいですね。そんな近くで見つかるなんて」
 愛は羨ましく思った。
『ん。オフィス街と隣り合った西側の高級住宅地にある家だから値が張るけど、セキュリティーも自治会全体で入る決まりがあって、そういう地域なら安心だろ? 空のことも考えて決めたんだ。愛にはすごく世話になったけど、そういうことだから週末には住めるようにするから』
「はい。分かりました」
『今日は今から空を迎えに行って、家具家電を決めてくる。夕食は適当に済ますからいらない』
「分かりました。じゃあ、今朝言ったとおり、わたしは畑の家に行って明日の午前中には帰ってきますから。部屋は使ってもらって結構です」
 部屋の鍵は指紋認証で理久も空も登録してあるから心配ないだろう。
『ちょっと待て。朝そんなこと言ってた? 明日は芋掘りするんじゃないの? 空、楽しみにしてたろ? ぼくもそれだから家を即決したんだ!』
 慌ててまくし立てる理久に圧倒される愛は口を噤んだ。
「……」
『どういうこと?』
「それなんですけど。正広から連絡があって芋の収穫は一週間後の方がいいらしくて、来週に延期しようと思うんです。空くんには、来週末になるからって、よろしく伝えてください」
『……そうか。わかった。帰りは土曜日の午後だよな。帰ってきたら連絡して。生活用品の買い物を手伝ってほしいから』
 不機嫌な理久の声に愛は背中を縮める。
「はい。分かりました。電話しますね」
 何だか、忙しくなってきた。
 愛は定時までの段取りを考え、気合を入れて仕事を始めた。



  (2018/6/5)

   

イラストもずねこ

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