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 第一章 「満ち足りぬ顔」 1.  by 航

 絡みつく汗と交わりの匂いが、ぼくの気持ちを逆撫でする。
 ベッドのスプリングがしなり、腰から下肢にかけリズムを刻む。
 浅く浅く、深く……浅く浅く、深く……。
 寄せては返す波のように。
 歓喜の声を喉から絞り出す女の顔に視線を当て、繰り返す。
 見定め、狙いを外さないように、断続的に繰り返す。
 そこに、心は伴わない。
 嬌声がひときわ高く上がり、女だけが白々とした最果てへ向かうのを見下ろし、動きを止めた。
 いまだ内部が収縮していても、くたりと力の抜けた女の身体は用を為さない。抜け殻のようだ。
 ため息をひとつ吐く。無意識の行動に引いていくものを感じた。
 汗ばんだ身体は不快感そのものなのに、頭の中はひどく冷静で熱くはなれない自分がいる。
 相手との温度差。
 熱くなられるほどに戸惑い、冷めていく。
 自分の気持ちがないくらいの自覚はあるが、体まですっかり冷めていることに気付き、無気力感が襲う。
 やりきれなくなって、それ以上続ける気にはなれなかった。
 まだ力を失っていないものを女の中から引き抜くと、ベッドから起き上がった。
 そのままベッドの端に腰掛け、たばこを煙らし、女の表情をぼんやり見つめた。
 瞼を落とす女の顔には満たされた笑みが浮んでいる。
 幸せそうな顔しちゃって。
 ほんのひと時を求めるだけの関係に、なんの意味があるというのだろう。
 そう考える自分が可笑しくて、くっと笑い、こめかみを押さえた。
 ぼくはいったい何をやってんだか。好きでもない女なんか抱いて。
 頭が狂っているとしか思えない。
 ああ、そうか。疲れが溜まっているせいだ。だから、おかしくなるんだ。
 毎夜、笑えない冗談を繰り返しているくらいの自覚はあり、それを止められないまま惰性的に日々を送る。
 こんなことをいつまで続けようというのか。
 意味のない行為を。
 いつからこんな風になってしまったのだろう。
 うまくやってきたはずなのに。
 もう考えたくない。これ以上。
 ベッドから降り、薄明かりを頼りに歩いた。
 バスルームに入り、スイッチを手探りし灯りをつけると、自分の裸体と驚いた顔が鏡に浮かび上がった。
 酷い顔。死んだような青い顔をしている。
 鏡を見ながら自分の顔を右手で叩き痛む頬を確認して、大きく息を吐き出した。
 シャワーコックを捻り、水圧を上げて、おもいっきり頭からかぶる。
 冷たい水が、体を虐めるように降り注ぐ。身震いが起こった。
 今は熱いシャワーよりも、こんな冷たさがぼくには似合いだ。
 なにもかもすっきりさせないとやっていられない。そんな気分だった。
 そして、今夜も思い通りにならなかった自身を扱き、ひとりで抜いた。
 なんのためのセックスなのか。女を抱いても達することができないなんて。
 まったく馬鹿馬鹿しい。
 性欲の処理くらいに思うからいけないのか。
 新しく女を変えてみても、いまだ満たされることのない自分はどこか病んでいるのだろうか。
 それか、そういう女とはいまだ巡り会っていないからか。
 いや、そんな女が本当にこの世の中にいるのだろうか。
 ふと冷静に考えている自分に気づき、笑い出しそうになった。
 ぼくは何を望んでいるのか、と。


 翌朝。
 会社のエントランスからエレベーターに乗り込み、壁にもたれて立つ。
 通勤と重なるこの時間、すし詰め状態だ。
 営業部企画課のある二十八階までは、だいたい各階で止まる。朝だけは降りる階の遅い順を考えてなるべく奥に乗り込むようにしている。
 浮遊感のあと、上っていくモーター音を無意識に聞き、いつもするように一日の予定を頭の中で確認していた。
「おはようございます」
 艶を帯びた挨拶に引き戻され、横を見る。
 ああ、昨夜の相手か。
 唇だけが笑っている。たっぷりのったグロスが異様な光を放っている。
 彼女は右奥角の壁に背を向けこちらを向いて立っていた。
「ああ。おはよう」
 意味あり気な顔で擦り寄って、大きな胸の存在を誇示するようぼくに密着させている。
 この女、逆セクハラ、そのものだな。
 不快な顔を隠すことなく彼女に向ける。
 けれど、混み合うエレベーターの中ではそれに気付く者はいない。
 小さく咳払いをして、持っていたかばんを胸の前に割り込ませた。
 一夜を過ごしただけで、女はこんなにも大胆になれるものか。
 エレベーターという小部屋には十数人が詰め込まれ、密着している。香水の臭いとそのほかの体臭や土埃が混じって、なんとも言えない臭いに包まれている。
 息を詰めているのは、きっとぼくだけじゃないはずだ。
 むせ返るほどの人工的な香りに空間を作ろうと、わずかだけでもずれることにした。
 鼻が曲がりそうな元凶に視線を当てると、自分の行為が成功しなかったことに気づく。
 照かった口唇を薄く開け、上目遣いで見上げる姿は色気全開でなおも微笑み続けている。
 なにがおもしろいのか。
  ぼくは彼女の視線から逃れると、口元だけで笑みを作った。
 その時。
わたる
 ぼくを呼ぶ、耳慣れた声がした。
 そちらに向けると、頷く顔があった。
 兄さん。
 ぼくといっしょでエレベーター奥に身を置き、隣ふたり分の位置にいる義兄の 水瀬 隆也 みなせたかや が、付いて来い、と親指で上を合図した。
 目だけで頷き返し、上階にある役員室に向かった。

(2009/10/14)


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