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 第一章 「満ち足りぬ顔」 2.  by 航

 社員たちはそれぞれの階でエレベーターを降りて行き、義兄とふたりだけになった。
「航、明日からだな?」
 そうだ。海外出張に行くことになっている。
「ええ。兄さん」
「一ヶ月だったか」
「そうです。一ヶ月で帰れるかどうかってところで、スケジュールはぎっしり詰まってますよ」
 かなり面倒で厳しい交渉になりそうな仕事が予想されていた。
 最上階で降り、大股で歩く義兄に続く。
 ここはほかの階とは違い気品のある空間が広がっていた。落ちついた壁紙が張られ床はリノリウムではなくカーペットが敷かれ、壁にはところどころに絵画が掛けられている。
 贅沢に造られているせいか、とても会社の中とは思えない。
 空気までも違って見えるのはインクや紙の匂いが感じられないからだろうか。
 このフロアーには限られた人間しか足を運ばない。いや、役職のない多くの平社員はこの違いさえ知らないだろう。
 本来、平社員であるぼくが通常来ることのない場所のせいか無性に落ち着かない。
 運ぶ足も自分の意思ではないものに感じ、前を歩く義兄の背中に視線を当てた。
 常務である義兄の 水瀬 隆也 みなせ たかや は、相変わらずの格好良さで女性社員の注目を常に集めている。
 品があり、すっきりとスーツを着こなしているあたり、男のぼくでもため息が出そうだ。
 自分とほぼ同じ背の高さだが、しっかりと鍛えられた体格は筋肉もよく発達し、力強さに加え風格さえ持っている。
 周りの者に目を向け、気配りも忘れない。さらに責任感もあるとなったら、将来は当然、会社の代表に就任するはずの人間である。
 頭も切れる。当然、仕事もできる人だ。
 それとともに真面目で温和な性格でもある。家族思いのとてもいい義兄は、ぼくのことを何かにつけて気遣いをみせる。
 弟であるぼくもそれに倣うよう、将来は義兄を補佐する形で会社を盛り立てていこうと思っている。
 まぁ、肩書きなんかより気楽でありたいっていうところが本音だけど。
 仕事もある程度楽しくやりながら成績を残し、女も困らないほどに寄って来て、今ある現実に不満などはひとつもなかった。
 あ、そうそう、と後ろにいるぼくを振り返った義兄は、
「航、母さんのことだけどな。なにか調子が悪いんだって。その話だと思う」
 取締役室に入る直前、声を潜めて義兄は言った。
 え? プライベートを会社で持ち出すのは珍しい。調子が狂う。
「お袋? ……調子が悪いって、どこが?」
「いや、よくは聞いてない」
 義兄は眉を寄せて首をゆるく振ってから、扉を短くノックした。

「やぁ、おはよう」
「「おはようございます」」
 ゴルフ焼けをした代表取締役の 水瀬 隆一郎 みなせ りゅういちろう は、にこやかにデスクから手を上げた。
 片手には書類らしいものを持ち、今まで目を通していたのだろう。眼鏡を素早く外すとデスクに置いた。朝早くから仕事の鬼だ。
 恰幅のいい黒光りした顔が義兄とぼくを見て頷き、立ち上がった。
 この代表取締役は、ぼくの母の再婚相手で、義父に当たる。
 ちょうど双方に息子がひとりずついるという、連れ子同士の結婚で、家族になった。
 ぼくが高校に入学する時だから、ちょうど十年前の春に。
「航君、朝から悪いね」
 どういうわけか、義父にいつもの勢いがない。
「いえ」
「まぁ、そこに座ってくれ」
 義父はデスクから応接セットの方に足を運び腰を下ろした。
 座ったのを見届けて、ぼくも向かい側のソファーに義兄と並んで座った。
「ゆりさんのことなんだけどね」
 目頭を押さえて切り出した。幾分ゆっくりとした口調で話し、義父は曇らした顔で言い淀む。
 ゆりさん、とは、母のことだ。
 結婚してからも、ずっとそう呼んでいる。
 仕事一筋で家庭向きではない義父だが、わりと夫婦仲は良かった。
 ぼくたち兄弟の仲も良好といっていいだろう。そして兄弟揃って独身で、家からは独立している。
 今、実家には夫婦ふたりだけが住んでいる。
「母が、なにか?」
 義父の手前、お袋と呼ぶのを控えた。
「……ああ」
 押しの強い義父にしては珍しく、歯切れが悪い。
「兄さんから、調子が悪い、と聞きました」
「ああ。……そう、なんだ」
 なかなか核心を突いた話をしない義父に、どうしたものか、と窺い見た。
「なんです?」
 はっきり言ってほしいと、ややキツイ問いを向けた。
「ああ、悪いね。……ゆりさん、どこか悪いのか、ここのとこ引き篭もっててね」
「引き篭もり?」
 思いがけない言葉だった。
「ああ、病院に連れて行こうとしたんだが、なかなか、うん、と返事をしなくてね」
 病院に行こうとしない? あんなに病院好きのお袋が?
 どこかちょっとでも気になるところがあると病院に行っては、薬をもらってくる。
 悪くなる前に早々と足を運ぶような人だ。
 病気が治ったと思っても、出された薬は最後まできっちりと飲む。
 そんな人なのに。
 不思議に思った。
「ただ、帰りたいって言ってね」
「え?」
「いや、ね……海を見たい、と言うんだ」
「海?」
 生まれ育った海のね、と義父は声を落とした。
「……なにを言って……いまさら、でしょう? そんなこと……」
 ぼくは地名を聞いて、動揺した。
 忘れたわけじゃない。
 ただ、本当に久しぶりに聞いた名前だったから。
 何年ぶりだろう。ぼくには思い出したくない過去が、母には忘れられない過去がそこにはあった。
「いや、いままでも定期的に向こうの家の様子を見に行っていたんだ。だから、正直……私にもよくわからない。いったいどうしたらいいのか……どうも様子が違って見えてね」
 途方に暮れた、と表現したらいいのか、義父は苦しそうに掌で額を拭った。
 そうだろう。再婚前のことはおおよそのことしか、義父は知らされてない。
 ここは、ぼくが動くべきだろう、と思った。
「わかりました。時間を見つけて一度家に帰ります」
「ああ、頼むよ。航君が言ってくれる方がゆりさんも聞くだろう」
 義父は弱く微笑むと、ほっとしたように息を深く吐き出した。
 心の内は分からない。けれど、少なからず母を想ってくれているのだ。
「航。明日から海外出張だろ」
 義兄が横から口をはさんだ。
「ええ」
「だったら、家にはいつ行くんだ?」
「え。それはまぁ、帰ってからになる、でしょうか」
「一ヶ月、だろ」
 顎に手を当てて義兄は唸った。珍しく目が怒っている。
「駄目、ですか?」
「駄目に決まってる。一ヶ月も母さんを引き篭もらせるつもりなのか? 今すぐに行けよ」
 合間なく言い放たれた。
「……そうします」
 渋々頷く。むくれそうになった。
 相変わらず兄さんは家族思いってことか。
 ぼくは忙しいスケジュールを頭に浮かべ、深いため息を吐いた。

(2009/10/22)


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