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 第二章 「空っぽのお腹」 3.  by 奈都

 今日もよく食べた。そして、よく吐いた。
 ああー。疲れた。
 吐くという行為は思った以上に体力を消耗する。
 もう、ぐったりだ。
 二リットルのペットボトルの水を飲み、便器の中に嘔吐を繰り返す。
 右手の人差し指と中指の二本を口の中に突っ込み、喉の奥の方を刺激する。すると堪らず急激な吐き気が襲う。
 勢いよく食べ物が逆流していく。
 苦しさに涙が込み上げる。
 短い息を数回繰り返し、嘆息する。
 そのあと、吐物量を覗き込み、ちょっとほっとする。
 また喉に水を流し込み、指を突っ込み嘔吐する。胃に食べ物がなくなったと感じるまで執拗に繰り返す。
 気がすんだあと、トイレから出てふらふらと歩く。
 今すぐに目をつぶってしまいたい。すぐ横になり眠ってしまいたい。
 けれど、そんなことはできない。
 だるい重〜い身体を奮い立たせ、疲れていようが、歯磨きをしないと一連の行動に終わりはこない、と自分に言い聞かせる。
 食べること二時間。吐くこと三十分。歯を磨くこと十五分。
 トイレの掃除と食べた残骸を片付け、嘔吐で身体から失われたカリウムとナトリウムを摂取する。
 毎日、毎日、飽きもせず繰り返してる。
 わたしは一仕事終えた疲労感と達成感を抱え、フローリングの上にひっくり返った。
 今日は木曜日だっけ。考えるのもおっくうだ。
 美香は学校帰り、塾に寄る。帰ってくるのは夜の九時を回ってから。
 母もきっとそのくらいだろう。
 わたしは夕食作りのために一度、本家に戻り、母と美香とわたしの三人分のごはんを用意しなければならない。
 今日はなんにするんだっけ……。
 夕食のメニュー、なんだったっけ?
 ああ、かったるい。
 ……思い出せない。
 ああ。辛い。
 もう、やだ。
 こんなこと止めちゃいたい。
 誰かわたしを助けて――。

 玄関の引き戸が音を立てて開くのが聞こえた。
 古い家らしく、軋んだ独特の音がする。
 誰か、帰ってきた。
「ただいま〜。おなか空いたー。晩ごはん、なに〜?」
 美香か。
 わたしの双子の妹、美香が塾から帰ってきた。
「なー、ちょっとぉ? お弁当のブロッコリー、入れやんといてっていっつも言っとるやん? キライやって」
 遠くから文句が聞こえてきた。
 どうせ玄関で靴を脱ぎながら言ってるんだろう。
 また、美香のワガママが始まった、とわたしは台所でため息を吐いた。
「はいはい。キライやったら残せばいい、っていっつも言っとるやん」
 ちょっと離れた場所に聞こえるように声を張り上げる。
 キライなら食べなきゃいい。馬っ鹿じゃないの? 心の中で毒づく。
「だって〜、もったいないやん。なっちゃんは食べれるかもしれやんけど、わたしは見るのもいやなんやからな。あれがあると、ほかのおかずにまでブロッコリー臭が移ってしまうんやもん。イヤや〜」
 あ。そう。
 「もったいない」って。誰かにそっくり。
 美香は、ほんと、母親に似てる。
 あ。やだ、やだ。
 廊下を怒りに任せて歩く足音が、しだいに近づいてくる。
「でも、さ。見た目も大事やろ? 緑の野菜が入ってないと可愛くないやんか」
 わたしは言い返す。
 でも、本当はウソ。ブロッコリーなんかどうでもいい。
 単なる、お弁当の隙間埋めに入れているだけ。
「もう、いいよ。なっちゃんがお弁当作ってくれとる。文句言ったらあかんし」
 「そんなんわかっとる」と。美加がため息混じりにぼやくのが聞こえた。
 そのあとすぐ「お弁当ありがとう。美味しかった」と小さくだけどわたしの耳に入ってきた。
 あ。と思って振り返る。
 テーブルに置かれた美香のピンク色のお弁当袋と、台所から出て行く後ろ姿が見えた。
 美香は心得ている。
 お弁当を双子の片割れに作ってもらっている、という意識が強いのか、文句の後に感謝の言葉がくっ付いてくる。
 襖の閉まる音が聞こえて、わたしは短く息を吐いた。
 美香が可愛くて憎めない。
 薄い戸、一枚隔てた部屋から、かばんを置く雑多な音がひとつ聞こえてきた。
 姿は見えないけれど、美香は今、制服からスウェットに着替えているだろう。それから夕食をとりに戻ってくる。
 美香のお弁当袋から弁当箱を取り出し、フタを開けた。
 ブロッコリーは残されてなかった。
 あれだけ、文句を言ってたのに。
 空っぽ。
 ごはん粒ひとつも残されてなかった。
 こういうところ、美香はエライんだよね。わたしには真似できない。
 例えば、キライなものが入っていたとするなら、わたしなら迷いなく残すだろう。
 毎日作るのも大変だけど、毎日ひとつふたつキライなものが入っているのも苦痛だろう。
 美香は料理を作ったりはしないけど、作ってくれた人にはいつも感謝できる真っ直ぐな心をもっている。
 シンクに持っていって、ピンク色のお弁当箱を洗う。
 スポンジについた泡を滑らせて汚れを残さないように、丁寧に洗う。
 右手の親指の腹でキュッキュッと音が鳴るくらいに。
 ぜんぶ食べてくれて、ありがとう。
 けっして、そんな言葉をかけることはないけど。
 明日のお弁当は、美香の好きな鶏のから揚げでも入れてあげようかな。
「ねえ。晩ごはん、なに?」
 襖の向こうから、美香の声が聞こえてきた。
 離れたところから会話するのもいつものこと。
 さっき、わたしが答えなかったから、執拗に聞いてくる。こうなったら我慢比べになる。面倒だから、さっさと答えるに限る。
「んとね、コロッケ」
「え?またコロッケ。なっちゃん、最近手抜きっちゃう?」
 へい、へい、手抜きで、悪うござんす。
「なんかさ、かったるくって」
「え。なんで?」
「さぁ。なんでかな?」
 襖が開いて、美香がピンク色のスエット上下の格好でぺたりぺたりと台所に入ってきた。冷蔵庫にまっすぐ進む。
 わたしは言葉をそのまま繋ぐ。
「なんかさ、なんもする気が起きへん、っていうか、なんか不調?」
「ふ〜ん。一回、病院行ったら?」
 冷蔵庫を開けて、オレンジジュースを取り出す。
 なっちゃんも飲む? と視線を送ってくるので、いらない、と首を振る。
 重ねて、病院にも行かない、と首を振る。
 美香の持つグラスにオレンジジュースが注がれるのを横目で追う。
「美香は、病院、病院、それしか言わんな。わたしは病気っちゃうよ。ただのものくさなだけ」
 美香は、わたしの答えになにも見出さないと知って興味がそがれたのか、こっちを見ずにジュースを一気に飲み干した。
 空になったグラスに再びオレンジジュースを注ぎいれるのを見て、堪らず、
「あんまり、飲まんとき。夕飯、食べられへんで」
 小言を挟んだ。
 美香は、わかっとる、という表情で、それ以上何も言ってこなかった。
 今日の食卓は、キャベツの千切りを添えて牛肉コロッケを盛り合わせた。わたしと母のお皿にだけブロッコリーをプラスした。
 まだ帰ってこない母の分は付け合せとコロッケを別々のお皿にのせ、ラップをかけて母の席にセッティング。
 ここまでしてあると、帰ってきた母が勝手にチンして温めて食べる。食べない時は冷蔵庫に入れる。
 それがうちの食事のルール。
 あと、味噌汁も作った。
 美香のお椀には青ネギなしの味噌汁が入っている。
 今夜は、なめこと豆腐の具で、青ネギを入れる前の味噌汁をよそってある。
 双子でも好き嫌いの違いは普通にある。
 わたしはあまり好き嫌いはない方。
 ただ、あのドリアンには負けた。
 まぁ、南の国の果物は、そう好んでは食べない。パパイヤとか、マンゴーとか。
 その中でも、果物の王様という、ドリアンの芳香に顔を歪めたのが最初で、あんなものは滅多にお目見えしないだろうからいいんじゃない? 食べられなくてもどうってことはない、と思い込むことにした。
 けれど、美香の場合は外食できないくらいに偏食が激しい。
 ここに書いてみようか。
 まず、今日のお弁当で口論したブロッコリー。これは美香の天敵中の天敵で、ファミレスのハンバーグを注文すると、大抵ブロッコリーかインゲンが添えられてくる。
 このインゲンも大の嫌いときている。
 だから、ハンバーグを注文したくてもできないんだよね。
 見んのもやなんだから。
 お気の毒様。
 それから、甘いものが苦手ときている。
 ケーキから団子まで、ありとあらゆるスイーツは口にしない。
 甘ったるいものが大の苦手らしい。
 あと、生もんも駄目。薬味をのせた食べ物もキライ。だから、お寿司、ラーメン屋には行きたがらない。
 その辺は徹底してる。
 そんなことだから、好きなものを並べた方が早いかも。
 お肉なら全般好きで、外食に行くなら焼肉くらい。
 と、言うことで野菜はじゃが芋、火の通った玉ねぎ、にんじんは少々、きゃべつも少々。食べられるのはこのくらいか。
 人生舐めてる、と言われかねない偏食ぶりだ。
 文句は多い。料理はしない。
 呆れた妹である。
「このコロッケ、どこで買ったん?」
 それまで黙々と食べていた美香が、テーブルに着いてから初めて喋った。
「あぁ、それね、西条にあるお肉屋さんで買った」
「ふ〜ん。この間のより美味しい。具がしっとりしてるし」
 ああ。言われてみれば、もさもさしてないかも。
「美香が気に入ったんなら、ほかの種類も挑戦してみる? 肉じゃがコロッケもあったよ」
「う〜ん。でも、あんまり近い未来は嫌やな」
 なんて、嫌味な言い方。
 そりゃー、最近コロッケが続いてるけど?
 わたしは美香にむっとした顔を向けた。
 知らん振りして食べてる美香に、心の中だけで『あっかんべー』をしてやった。
「ね。お風呂どっちが先入る?」
 そんなの、どっちでもいい、と思う。毎日飽きもせずなんで聞くかな? 美香は。
「なに? ジャンケンして決めたいの?」
 美香の真意を聞くために、最後のコロッケを口に詰め込んで顔を上げた。
「べつに。わたし、早く入りたい。ただそれだけ」
 なら、そう先に言えばいい。
「いいよ。わたしは洗い物して、明日のお弁当の用意するから。美香、先に入んなよ」
「うん。わかった」
 美香は、食べた食器をひと重ねにするとシンクに運んでいった。
 さて、明日の夕食はなんにしようか。お弁当のから揚げに使う鶏肉を使いまわして何かおかずができないか。
 熱いほうじ茶をすする。
 食べたすぐから、次の献立を考える。
 まるで主婦みたいな発想。
 わたしは可笑しくて、笑いそうになった。

(2015/10/10)



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