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 第二章 「空っぽのお腹」 4.  by 奈都

 帰ってきた母が、玄関先でゲロを吐いた。
 酔っ払いめ。
 もう。きたないんだから!
 べつにその辺を汚した訳じゃないんだけど。
 なぜか、傘立ての中にされてたってだけで、実害はゼロ。
 笑えることに、傘は傘立てから出され、玄関の隅に丁寧に立てかけられていた。
 そんな時間があれば、トイレに余裕で行けるだろうに。
 まぁ、酔っ払った人の考えなんて、一生わかんないんだろうけど。
 夜中の二時頃にゲームに飽きて、トイレに行ってから離れに帰ろう、と居間から出ると、玄関に母がいた。
 まさかいるとは思わなくて、どきり、とした。
 母が動かないのを、数秒確認して細いため息を吐いた。
 正座したままうつ伏せている。そんな丸まった格好じゃ絶対に足が痺れちゃうだろうって姿勢でいた。まるで猫みたい。
 ふ〜ふ〜、と身体が波打って、気持ちよさそうに眠っている。
 いつからそんな状態でいたんだろうか。
 知らないぞ。きっと急には立てないぞ。
 わたしは勉強しているだろう美香に遠慮してヘッドホンしてゲームをしていたから、母が帰ってきたのにぜんぜん気づかなかった。
 とにかく、こんなところに寝てたら風邪をひく。
 母の分厚い身体を揺すり起こした。
「お母さん、起きて! 玄関で寝たらあかん。ほら。起きてよ!」
 母からはアルコール臭が思いっきりした。
 だいぶ飲んでいるのか、なかなか起きてくれない。
 抱っこなんてぜったいに無理だし、負んぶなんかしたらこちらが潰れちゃう。
 そうこうしているうちに、美香が勉強部屋から出てきた。
「なに、騒いどんの? ああ。お母さんか。うわっ、くっさ〜。お酒飲んで来たん? もういややわ。なっちゃん、大丈夫? 手伝おか?」
「うん、頼むわ。このひと、ぜんぜん、起きへん」
「あー。もう。くっさぁ〜」
 美香は鼻を摘まんで眉をひそめた。
 玄関に来た時に、酸っぱい特有の臭いにすぐ気がついた。
 だけど、母の服を見ても汚れは見当たらなかった。
 母の口からだけにしては臭いがキツイとは思っていたけど。
 この時、まさか傘立ての中にゲロを吐いたとは想像がつかなかった。
 母はわたしたちふたりでも運ぶことができず、冷たいおしぼりを額に当てて目を覚まさせた。
 目をようやく開けた母は足の痺れですぐには動けず、唸り声を上げた。
 美香とわたしは顔を見合わせる。ぷっと吹き出した美香にわたしも合わせて声を上げる。
 ひとしきり笑って気が済んだわたしたちは、母に水をしこたま飲ませると、背中を押した。
 母は反応が鈍いながらものろのろと這って部屋に入って行った。
 美香に「おやすみ」の挨拶をして後ろ姿を見送った。
 わたしは今夜食べられることのないコロッケと付け合せのきゃべつのお皿を冷蔵庫に放り込むと、勝手口から出て離れに帰った。

 朝、目が覚めると起き出して、勝手口から本家へ戻り、お弁当を三人分作って、合間に朝ごはんの仕度をしてしまう。今朝もひとりで食べて、今はのんびりほうじ茶をすすっている。
 決まった時間にテレビをつける。この時間の気象情報を見た。
 ここまではいつも通りだった。
 そろそろ今日の占い。
 それを見終わると、美香を起こしに行かなくてはならない。
 美香はなかなか起きて来ない。
 昨夜も寝るのが遅かったんだろう。深夜二時に見た時も勉強部屋の方に入っていったから、
 あれからまた勉強をしたんだろう。
 母はもっと遅くに起きるから放っておいてもかまわない。
 美香だけは徹底的に起きるまで起こし続けなければならない。
 放っておくと、昼まで眠り続けてしまうだろう。
 向こうもわかっている。こっちのタイムリミットなんか承知の上だ。
 美香が起きたのは、わたしの登校二分前のこと。
 よろよろと台所に歩いてくるとテーブルの前にどすんと座って、ぼ〜、と眠い眼を擦っている。
「美香、昨日遅かった? 大丈夫? ごはん、食べたらそのまま置いとき。帰ったら洗うで。わたし、そろそろ行くわ」
 答えるのを待ってはいられず、床から通学用のリュックを掴み背負った。
 振り返って見ると、美香は死んだような目をしている。学校ではぜったいに見られない崩れた顔だ。
「行ってきます」
 答えが返って来ないのはわかっているけど、一応言ってから、勝手口から出て鍵をかけた。
 ドアのそばに停めてあった自転車のカゴにお弁当の入ったトートバッグを入れる。ヘルメットを髪型が崩れないように注意してかぶってから腕時計を見た。七時八分を差していた。
 ああ。時間がない。
 ハンドルを掴みサイドスタンドを上げ一方の脚で地面をけり出した。サドルに跨ると勢い良くペダルを漕ぎ出す。一こぎ二こぎしてスピードを上げて行く。
 気持ちいい。
 髪をなびかせ、顔に風を感じて、目を細めた。
 テレビの予報通り、いい天気だった。降水確率二十パーセント。この分なら帰りも崩れそうにない。
 交差点。ミラーで車の来ないことを確認して右折した。そのまましばらく真っ直ぐ。ひたすら漕ぐ。
 駅前の商店街を抜けると、国道二十三号線へ出る。そのまま突っ切って、真っ直ぐ走った。
 学校までは自転車通学。
 できるだけ美香といっしょにいたくない。そんな理由から自転車を選んだ。
 もちろん、美香には言ってない。
 美香が電車と歩きを選択した時でも、わたしは考えを変えなかった。
 美香は、そのことが不満で、ぶ−ぶー言ったけど、自転車にするとは言わなかった。
 なにしろ、自転車だと四十分もかかるから。
 骨が折れる。その時間、漕ぎ続けなければならないのだから。
 距離には慣れたけど、雨の日がすごく辛い。
 傘を差して運転はできない。ちょい乗りの距離ではないから。
 雨の日は、おじさんの使うようなレインコートのズボンを穿き、その上から全身をすっぽり覆うレインコートを着込み、誰も来ない朝の早い時間を目指してペダルを漕ぐ。
 早く行かなくてはならない。レインコート姿も、脱ぐところも誰にも見られたくないから。
 下駄箱で脱ぐ時の格好は、とても滑稽だから。
 レインコートの下は、制服のブレザーに下はジャージのスタイル。
 ジャージのズボンを脱ぐまでは気が抜けない。下駄箱の死角でスカートを穿くまでは。
 こんな時、今日くらいは電車とバスにしておけばよかった、と毎回思う。
 学校に着くと、携帯を取り出した。
 母を起こすために、母の携帯にかけた。
 切ってやろうかと思うくらい長いコールの後、やっと母が出た。
 「おはよう。二度寝したらあかんよ」
 いつも決まった言葉を言って切る。
 教室に入ると、リュックを下ろし机の側面のフックに掛けて、中から文庫本を取り出した。
 いつものように、イスにもたれて読み始める。
 クラスの部屋は、わたしただひとり。
 わたしが一番乗り。
 ほかには誰もいない。
 この時間がとても好き。
 静寂を楽しむ。
 微かに机の横に掛けていたリュックから音が漏れてきた。
 ああ。電源を切り忘れていた携帯からだ。
 とくに急がずに取り出し、誰からか見た。
 美香だった。
 急いで電話に出ると、ひどく慌てた声で叫んでいる。
「どうしたん? いま、どこ? 美香? ん? どうしたん?」
『なっちゃん、なっちゃん、なっちゃん! ――玄関が、玄関がめっちゃ臭い』
 美香は、玄関が臭い、と大騒ぎしているようだ。
 泣き声も聞こえ、パニックに陥っている様子。
「美香、まだ、家?」
『うん。それどころじゃなくって。めっちゃ臭い』
 は? なに。
『なっちゃん、なっちゃん、家に戻って来て! いいから来てよ? わかった?』
 はぁ? わたしはもう学校に居る。
「なぁ。美香、わたしはもう学校に居るん。いま、本読んどる。な?」
 邪魔しないでよ。
『なっちゃん! 家の一大事なんやって。そんな本なんて悠長に読んどる暇ないんやから! わかっとる?』
 そんなん、わからんわ!――とは、答えなかった。
 美香は、洟を啜っているようで、完璧に咽び泣いている。
「わかった。わかったから。美香、ちょっと落ちついて。玄関のどこから臭ってくるのかわかる?」
  しばらくは携帯を離さずに探している音が聞こえてきた。
 そのあと、すぐに「うわ!」という叫び声がわたしの耳を劈いた。
『なっちゃん、原因わかった。……傘立てにゲロが入っとる。くっさ〜!』
 鼻を摘まんでしゃべっているからか、しょぼくれた声が力なく耳に落とされた。
 アホか、とわたしは肩を落とした。
 その原因は、言われなくても母だ。
 母が犯人だ。
 そんなことをするのは、母しかいない。
 酔っ払いめ。
「美香、もう時間がない。遅刻する。そんなモノ放っておいて、学校においで! わかった?」
『でもこれ、どうする?』
 頼りなく細い声が辛うじて聞こえてきた。
 ゲロの状態を想像したくもないけど、相当ひどい臭いがするんだろう。使い捨てのビニール手袋が必要だろう。
「放っとき。帰ってから掃除するから。美香は顔を洗ってから学校に来るんよ! わかった?」
『うん。わかった』
 言わされたような情けない返事だったけど、とりあえずホッとする。
 こういう予期せぬことがあった場合、美香は自分の意思では動けないから。
 ほんとうはそばにいてあげたいけど、離れた場所にいるんだから、しょうがない。
「担任には、身体の調子が悪いから遅れる、って言っとくから。慌てずゆっくりおいで」
 わたしは美香の泣き顔がヒドイことを想像しながら、言葉を繋いだ。
 それとともに、母も同じような状態になって電話をしてくるのがわかっているから、こっちから母の携帯に電話をかける。もう切ってしまおうかと思うくらい待った。
 ようやく繋がって、やれやれとため息を吐く。
『……なつ?』
 いかにも二度寝してました風の母の声が聞こえてきた。
「今日、会社行くよね?」
『ううん。行かん、行かん。今日は休み。有給とったから』
 ははん。それで昨日は、たらふく呑んだってわけ。
「お母さん、よく聞いて。玄関の傘立てにゲロが入っとる。かあさんは触らず今日はわたしが帰るまで寝とき!」
『ゲロぉ? なんでそんなとこに吐いたん? 美香か?』  
 よう言うわ。あんたや。  
 言っても、納得しないだろうから、わたしはそれ以上言うのを諦め携帯の電源を落とした。  
 母は、ときどき考えられないことをしでかす。  
 今回のは、カワイイもの。  
 いつだったかは、酔った勢いで若い男を連れ込もうとした。  
 玄関先で、肩を組んだ知らん男と大声で当時流行った歌を合唱してた。  
 それも、おもいっきり調子っぱずれで、でたらめな。
 ふたりとも、ぐてんぐてんで埒があかず、美香と困り果てた。
 あの時は、ふたりとも小学生だったっけ。
 それだけじゃない。
 人だけじゃなく、道路工事によく使われている三角の赤いポールを両手に持ち帰ってきたこともある。
 母は酔うとどうしようもない。
 記憶を失くすくらいなら、飲まなければいいのに。

(2015/10/10)



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