塾までの時間を図書室でつぶし、下校時間よりも一時間遅く、校門をくぐり抜けた。
カバンからスマホを取り出し、電源を立ち上げたその時。小さな声ともつかない呟きがわたしの耳に届いた。
「遅いよ」
トゲを含んだ音にハッとして顔を上げると、無表情の顔があった。
「高木くん」
まさか彼が待っているとは思いもしなかった。
学校の中では目が合うことも、しゃべったことも、クラスで関わったこともなかった。ましてや少しでも繋がりがあるとほかの誰も思わないくらい接点がなかった。
彼は学年で一番賢い。秀才を絵に描いた完璧な人物で、他人と自分を比べたこともなさそうな一歩も二歩も先を歩いている人で、友だちも多く、人当たりのいい笑みを浮かべて、悩みなどひとつもなさそうな、姿勢のいい後姿を目で追ってしまうくらい人気のある人だ。
だから、わたしは彼に劣等感を感じないではいられない。
彼に「ついて来いよ」と言われて、辺りを見回す。
「今日は、塾があるから……」
暗に行けない、と断ったつもりでわたしは彼の顔辺りに視線を彷徨わせ、自信なく俯いた。
「知ってる」
彼の表情はわからないけど、硬い声だった。
当然だ。彼もわたしと同じ塾生だから。
誰かが言った言葉が浮かぶ。
『美香。人と話す時は目を見て話しなさい』
分かってはいても目を合わせられず、制服のスカートとローファーがぼんやりと映っていた。
ここは学生には不釣合いなホテルの一室。
わたしはゆっくりと目を開けた。焦点が合うまで少しかかった。
頭を使ったわけでもないのに思考がはっきりしない。身体を動かすのも億劫だ。
天井の鏡に映ったわたしと、隣に並ぶ彼の姿は、なんと目に痛いことか。
わたしの隣で目をつぶる彼を鏡越しにまじまじと見た。
寝ている時だけだ。彼がどんな顔をしているのかはっきりと見ることができるのは。
筋肉質で男らしい身体。眠る顔はやや幼く、今なら躊躇なくおしゃべりができそうだな、と思うくらいに穏やかに見えた。
わたしと彼。恋人繋ぎされている手。
握りしめているのは、どっちだろう。
さっきまで繰り広げていた痴態を思い出し身体が再び熱くなった。
恐ろしく性技に長け、わたしを狂わせる彼のような男のことを世間一般では何と呼ぶのだろう。
時間をかけて彼の手と舌が余すところなく這いずり回ったわたしの身体は、昂ぶりきっている。シーツがすこし擦れただけでもどうにかなりそうなほど敏感になっていた。
これで、まだ彼とはひとつに繋がっていないなんて、嘘みたいな話だ。
鏡の中の男性は、露を零さんばかりに上を向いている。
「俺が欲しい?」
静かだった部屋に割り入った声に瞠目した。眠っていたのではなかったのか。いきなり投げつけられた言葉にわたしは身体を震わせた。
言葉だけで達するとか絶対におかしい。
身体の芯でふつふつと滾るものを押さえ込もうと、わたしはギュッと目をつぶった。
頷かないわたしに、彼は「相変わらず強情」と苦笑してベッドから起き上がった。
背中と膝裏に回された太い腕にすくわれて浮遊する。わたしは軽々と抱き上げられていた。
「ふん。大洪水」
彼の嘲笑う口調にハッとし目を向けると、わたしがいたシーツのお尻辺りにシミが広がっていた。
恥ずかしかった。快楽に溺れてしまったことが。彼には太刀打ちできない自分が。
それだけじゃない。どんなに勉強をがんばっても彼を追い越せやしない自分に。
お風呂の湯船に浸かる間に、体力を回復させなければ帰るのに困るほど足腰が自分のものではなくなっている。立ち上がろうとしても股関節が自由に動かない。そんな状態になるほど彼にいいようにされたことに納得がいかないと思う。
わたしが何をしたっていうの?――
湯の中の温かさにうとうとする。疲れているはずなのに、なんとも言えず気持ちがよかった。
「そろそろ時間。いい加減に出ろよ」
バスルームの扉越しに彼が急かしてきた。
気力をふりしぼってお風呂から出て足を運ぶわたしに、すでに制服をきっちり着た彼が甲斐甲斐しく手伝ってくれた。男らしい大きな手が、器用に下着から制服までを滑らかに着せていく。それまでも、恥ずかしくて羞恥に染まった。
ホテルの外はとうに暮れていた。
街路灯のある歩道。彼はわたしの右側を歩く。会話はない。
ときどき自分の意志なく力が抜けるわたしの足を気遣う視線を送ってくるほかは。
彼はわたしを家まで送り届けると「バイバイ」の言葉すらなく去っていった。
だから、わたしも無言で後ろ姿を見送った。背中が見えなくなるまで。
彼とわたしの関係は、何と言うのだろう。
たとえ恋人繋ぎをしたとしても、恋人ではない。
身体までは繋げていないのだから、セフレでもない。
好意を寄せられることもなく、笑顔すら向けられない存在は何というのだろう。
ただ分かるのは、わたしは彼が好きで好きで堪らないってこと。
「高木くん。……好き」
真っ暗な空に熱い吐息が溶けていった。
空に大きな月が昇っていた。
鬱蒼と生い茂る木々が家を覆い隠してしまっている。
足元の砂利を踏みしめ歩くと、台所の電気が灯って見えた。中では、なっちゃんが夕食を作って待っているだろう。
母はまだ帰っていないだろう。
父はきっと別の家庭に帰るのだろう。
「なんか、もう、疲れちゃった」
自然と零れ落ちた言葉に、愕然と立ち尽くした。
塾をすっぽかしてしまった。
勉強しなきゃならないのに。
いい子でいると誓ったんだから。
あの約束は遠くおぼろげな記憶。
『美香。いい子にしてるんだぞ。かあさんの言うことをよく聞けよ』
そうすれば、父は帰ってくると信じていた、小さかったわたしは、もうどこにもいない。
(2015/11/13)