top

 第三章 「胸に秘めた恋」 3.  by 奈美

『奈美。頼む! 離婚届に判を押してくれないか?』
 夫からの久々の電話に嬉々としていた気持ちが、たった一言で不安の細波が広がり暗転していった。
「どういうことなの? 離婚届って」
 声の震えが止められない。
『もうすぐ俺の子どもが生まれるんだ』
 ああ。なんていうことなんだろう。
 夫の晴海はあたしのことなんて最初っから見ていなかったのだ。
 ダイニングの椅子に座って食卓を囲んでいた夕食時にとった電話だった。
 あたしは、双子たちを前に動揺を上手く隠すこともできずに一方的にまくし立てる相手に言葉をなくしていた。
 何かを言っている音がしているのに、言葉が入って来ないのはどうしてだろう?
 あたしの手から携帯電話をとったのは娘の美香だった。
「とうさん? わたし、美香。久しぶり……」
 深刻そうな顔の美香と、何が起こっているのかわからないという顔の奈都が箸を止めていた。


 どうしてなの?
 離婚、とか。
 若い女がいいのなら、浮気くらい許そうと思っていた。
 いつかこの家に帰って来ると信じていたから、取るに足らないことと思っていた。


 晴海のことが好きだった。
 小さい頃から、ずっと。
 初恋は晴海だ。
 ほかの誰とも比べられないくらい、ぞっこんだった。
 晴海のことなら、なんでも知っていた。
 晴海の兄である勝海の嫁のゆりが好きだったことも。
 でも、ゆりはあたしが晴海に片思いしていたのを知っていたから、お見合い相手が勝海でよかった、と笑っていた。
 勝海とゆりが結婚した時は、晴海はかなり落ち込んだし、隣同士の家に住むことは苦痛だったと思う。
 お見合いだったけど、勝海とゆりは愛し合っていたし、それを肌で感じて晴海は辛かっただろうが、あたしはうれしかった。
 晴海の失恋決定にあたしにもチャンスが巡ってくるのではないか、と思えたから。
 その後、勝海が海で亡くなり、ゆりは再婚のため都会に出て行った。
 ゆりが手に入らず、晴海が大きなため息を何度も吐き出すのをそばで見てきた。


 ゆりがこの土地を去った後。
 両親から懇願されて晴海は漁師を辞めた。そして、地元の自動車工場に働き始めた。
 その頃のあたしは保険会社に勤めて十年以上経っていて、特定の男と付き合うこともなく、「キャリアウーマンを気取ってる」とよく言われたものだ。
 けど、そんなあたしも32歳の時、双子を妊娠し無事に出産した。
 行きずりに近い男との間にできた双子の名前は、奈都、美香という愛らしい女の子だ。
 「父親のない子は可哀想だから、双子の父親になってもいい」と言ってくれたのが晴海だった。
 念願叶っての結婚だった。
 夢のような暮らしができると胸を熱くした。
 好きな男といっしょに居られる。
 そんな幸せなことはない。
 そう思っていた。
 あたしは何も見えないまま有頂天になっていたのかもしれない。
 晴海の心を掴むことができず、双子の娘に真実を話せず、見る人は滑稽に映っていただろう。
 何もかもが嫌になる。
 晴海は自分の子どもができて、家族を作るのだろう。
 こんな砂のような家族なんて跡形もなかったように暮らしていくのだろう。
 目の前が真っ暗になり、体の力が抜けていった。

(2016/12/19)


 目次へ 

top


inserted by FC2 system