その日のわたしは、なにをするにしても失敗していた。
それに、いろいろと運がなかった。
振り返ってみると、まず朝、いつもの時間に起きれなかった。
お弁当は辛うじて作れたけど、ものすごく手際が悪かった。
通学に使っている自転車が知らないうちにパンクしていた。
慌てていたことと、アクシデントに気が動転して自転車のカゴに入れたお弁当を忘れてしまった。
おまけにお財布には、往復の電車代がギリギリ入っているだけだったため、お昼を抜くしかなかった。
――ついてない!
ぼんやりと霞がかった今にも雨が落っこちてきそうな空の色は、わたしの心を映しているようだった。
家に帰って来た頃にはお腹が空きすぎてどうにかなりそうだった。
爆発しそうな食欲を抑えることもできなくて、冷蔵庫の材料ありったけを使って料理を作った。
本家の台所で食べるには憚れる大量の料理は、いつものように離れに運んだ。
さあ、食べようと箸をとったところに、離れのチャイムが鳴った。
離れには不意のお客さんが来ることはない。
本家に隣接しているが、覆われた木々のせいで離れの家は隠されている。家の存在すらわからない。
けれど、朝から起こった出来事から考えても、嫌な予感しかしない。
居留守を使って知らん顔しようかとも頭に過ぎったけど、リビングの明かりが外に漏れているだろう。
結局、放置できない性格が災いして、わたしは走った。
離れの玄関には履物が置いてなかったので勝手口から出て、外から玄関に回るしかない。
扉を開けて飛び出すと、冷たいものが頭に当たり振り仰いだ。
いつの間に降り出したのか。
背を丸めて足を運んで、まず、目にしたのは黒っぽくて大きい車だった。誰もがよく知っているエンブレムの高級外車が雨に濡れて古いだけの本家の目の前に停まっていた。
母の軽自動車しか停まるのを見たことのないわたしは、その光景がすごく不釣り合いに思えた。
本家の建物の陰から離れの玄関に視線をやれば、人影があった。
佇む黒くて背の高い背なかは男性で、一瞬動作を止めて警戒した。
父ではない。
いつから見ていないのか思い出せないくらいだけど、父よりも背が高いみたいだし、とわたしは声を掛けられないままじっと見つめた。
傘を持っていなくて雨に濡れたのか、ハンカチを肩や頭に当てて拭いている。
恰好からも中年には見えないし、母の知り合いでもなさそう。
首を捻っているところを、振り返った男性に見つかった。
「もしかして、本家の子?」
キレイなイントネーションで話す男性に、頷いて見せた。本家の軒先から離れの玄関まで走った。
「急に降ってきたね。ぼくは航っていうんだけど、この家に戻って来ようと思って挨拶に来た」
航? 歳からするとおばさんの息子だろうか。
「すこし濡れちゃったね」とわたしの頭にハンカチを当てて拭いてくれる。
「あの。わたし、ここの家を任されてる奈都です。あの、おばさんは?」
「母は今日は来てなくて……」
言い辛そうにして途切れた。
「あの、最近、連絡がないんですけど、おばさん、どうしてますか?」
ふだんは使わない敬語を、わたしはたどたどしく操ってみた。
「ああ。ちょっと調子を崩してて……」
航と名乗った人は、そう言うと小さく息を落とした。
「そうなんですか。それは心配です」
わたしは深刻な病気なのかどうかも聞けずに、見上げるだけだった。
「ありがとう。母なら大丈夫。家をリフォームして住みやすくしたら、母を連れてくるつもり。ここは変わらないね。海も見てきたけど、十数年前となにも変わってない」
感慨深げに辺りを見渡したあと、「ここの鍵、開けてもらってもいい?」と重ねられた。
そう言われて、しまった、と気づくが遅い。
ポケットから離れの勝手口と玄関の二つくっ付けたキーホルダーを取り出す。
嫌だとも言えず、玄関の扉を開けると、航さんは覗くようにして入って行った。
――ヤバい! どうしよう。
変な汗が噴き出してくる。
フローリングの上にピクニックシートを敷き、鶏の唐揚げや煮込みハンバーグ、エビフライ、ポテトサラダ、おにぎりにペットボトルのお茶とジュースが広げてある。
しかも、大家族が食べそうな量の料理だ。
シュールな様子を変に思われないだろうか。顔が強張る。
おずおずと離れのリビングに足を動かした。
「へえ。美味しそう。作ってくれたんだ。昨日、奈美さんに電話した時にはそんなこと言ってなかったのに。まるで歓迎パーティーだね」
え。母ったら何も言ってくれなかった。
昨夜、父からの電話で『離婚』の話になって、すごくびっくりしたのだ。
漁師と思っていた父が、じつは自動車工場で働いているとか、わたしと美香の父親は別にいるとか、初耳のことばかりで混乱した。
おかげでぜんぜん夜は眠れなかった。
母は『離婚』の話でそれどころではなかったのか。
「あの。母は残業で遅くなるって……。妹の美香は塾で夜遅いので、よかったら食べてください」
とりあえず、おかしく思われていないと見て、わたしは航さんに食事を勧めた。
取り皿におかずを盛り付け、割りばしといっしょに渡す。
航さんは、「遠慮なくいただくよ」と、スマートな仕草で食べ始めた。
わたしはその頃には冷や汗もひき、いっしょに食べ始める。
お昼を抜いていたのに、食事のペースが上がらない。
唐揚げを一個食べて、ジュースを飲んで航さんを見上げた。
「料理、上手いんだね」
航さんは、エビフライに手を伸ばした。
それに、中濃ソースとタルタルソースをかけてあげる。
「ほんとうに美味しい!」
おばさんに似た優しい笑みに安心する。
「ありがとうございます。よかった。美味しく食べてもらえて」
ホッとしたら自然と笑顔がこぼれ出た。
わたしは温かな気持ちで胸がいっぱいになっていた。
(2016/12/19)