早春の海に来ていた。
海面は穏やかなイメージとは違ってどこか荒々しさが垣間見えている。
冬に家のリフォームを終えて、母を呼び寄せた。
自分の足では歩けなくなった母を車椅子に乗せて海まで散歩するのが日課だ。
なにを思うのか時間を忘れて海の彼方を眺めている。
目的のものがあるのかないのか彷徨うように探している視線はひどく切ない。
優しい波が寄せていたかと思えば、不意に予想以上の大波が奈都の足を襲った。
「キャー! キャー!! 冷たっ!!」
騒いでいるのは元気なことだけど、とぼくはため息交じりに噴出した。
「奈都!」とすこし離れたところにいる彼女に呼びかけた。
「さっきから、危なっかしくて見てられないよ。奈都、こっちに戻っておいで」
彼女は動く素振りを見せない。
テトラポットに立ち、海の波打ち際を覗くように見ている。
「ここって、砂浜がない海だからつまんない。昔っから南の島のエメラルドグリーンの海が憧れだったんだ、わたし」
どこの島を思い浮かべて言っているのか。単純に遊べなくてつまらない、というのか。
「奈都。こっちにおいで。風が強いから落っこちるといけない!」
それでも、ぼくの言うことを聞いているのかいないのか、奈都は海の水面から視線を上げなかった。
白い菊の花がふわりふわりと海を漂う。
花の行方を見守るように奈都は動かなかった。
彼女の母である奈美さんが、真冬の海で帰らぬ人となった。
酔っぱらって誤って海に落ちたのだ。
溺死だった。
不注意の事故とは思えない状況だったが、誰も何も言えなかった。
奈美さんが命を落としたのは、離婚届を出したその日の夜だったから。
「かあさん。……冷たかったよね。なんにもしてあげれなくってごめん」
奈都の悲しみはとても深い。
学校の行き帰りを海で過ごすようになって、二ケ月が経つ。
奈美さんに連れて逝かれないか、ぼくは心配でたまらない。
「奈都。そろそろ帰ろう。お腹が空いた。夕ごはんは何を作ってくれるの?」
たいしてお腹は空いていないのに、平気で嘘が出てくる。
「今夜はね、……鰆のホイル焼き。……帰ろっか」
奈都は踏ん切りをつけるように立ち上がると、反動をつけてテトラポットを蹴って上がってきた。
健気な姿に耐え切れず道路に戻ってきた奈都を抱きしめた。
「ほら、冷たくなってる。春になったって言っても、夕方は冷えるから」
小さくなってしまった華奢な肩を撫でて温めた。
「だいじょうぶ。そんなに冷えてないよ。……おばさんもお腹が空いたかな?」
奈都が身動ぎしてぼくから離れてゆくのを淋しく思いながら目を母に転じた。
車椅子の母は飽きずに先ほどより暗くなった海を眺めている。
「おばさん。うちに帰ろ」
奈都が母の膝掛けを直してから、車椅子を押して歩いていくのに付いていった。
ふいに海からの視線を感じて、ぼくは振り返った。
誰の姿もなく、ただまっ黒な空が広がるだけだった。
家までの五分の距離をすこし遠回りして帰った。
晴海おじさんが「本家を建て直したい」と言い出した頃から奈美さんの様子がおかしくなったらしい。
その頃、ぼくは東京で身の回りのことを片付けるためにここを離れていた。
浜北家の土地を本家と分家で分筆し、本家の土地を晴海おじさんが、分家の離れをぼくの母が財産分与すると取り決められていたことも後で知った。
その頃、離れはリフォーム工事の真っ只中だった。
本家は推定百年前に建てられた家屋で古すぎるから解体される、と奈美さんは奈都と美香ちゃんに説明して、本家から数分の距離にあるアパートに引っ越していた。
家二軒を取り囲んでいた鬱蒼と茂った木々が重機で根こそぎ抜かれ、本家が解体されたと聞いたのは、リフォームが終わったと連絡を受けた時だった。
ぼくが慌てて戻って見た奈美さんは、ひどくやつれた顔をしていた。
今、本家の土地に真新しい賃貸アパートが建ち、以前の面影は残っていない。
同じく分家の離れも、中二階の家の外壁を白く塗り、車椅子が動きやすいように玄関も作り替え、カーポートを設置し、フェンスで囲ってある。元あった建物とは印象をがらりと変えていた。
本家を賃貸アパートにしてそのうちの一室を奈美さん一家に与えようとしていた勝海おじさんの考えは、宙に浮いた形になった。
奈美さんが亡くなり、奈都と美香ちゃんは、ぼくといっしょに暮している。
「ほんとうの父親でないって知ってるし、アパートには入りたくない」
そう言って。
奈都と美香ちゃんは高校卒業の年でもある。
奈都は就職して、美香ちゃんは大学受験すると決めている。
すこしずつ前を向いていけるといい。
ぼくはできるだけの応援をしていくつもりだ。
「奈都。夕ごはん、手伝うよ」
ぼくたちの家をぼんやりと見ていた奈都は、振り返って笑顔で頷いた。
車椅子を押す後ろ姿に、もう暗さはない。
「おばさん。うちに入ろうか」
「奈都。ちがうよ? 来年の今頃は、ぼくのお嫁さんなんだから『かあさん』って呼ばないと」
ぼくは奈都の隣に並んで、頬を寄せた。
門扉の明かりに照らされた真っ赤な顔をした奈都が浮かび上がった。
「好きだよ」
その言葉に、さらに赤く染めた奈都は「おかあさんが見てる」と恥ずかしそうに小さく返して、ぷいっと顔を背けた。
(2017/01/12)