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 終章 「海の声抱けば」 2.  by 美香


 母が突然姿を消したのは真冬の凍てつくほど寒い日だった。
 家族に一言の別れもないまま母は逝ってしまった。


 その日の朝。
「午後から半休をとって離婚届を出してくる」と、母は言っていた。声は淡々として悩んでいる様子はなかった。
 なっちゃんがいつも通り、ベーコンを添えた目玉焼きを焼いてくれて、わたしには硬め、母には半熟だった。
 「炊き立てのごはんが美味しい」と、母がお代わりをしたのがいつもと違っていて、なっちゃんは目を丸くして、よそったごはんを母に渡していた。
 わたしは朝から食欲旺盛な母を眠気眼の半分開いていない目で見たように思う。
 それくらいで、取り立てて変わったところのない日常を過ごしていると思っていた。
 今日は塾のない日で、真っすぐに家に帰るから家族でいっしょに夕食を食べられる、くらいのことを考えて、先に出勤する母を背中で見送った。
 「行ってきます!」と、玄関の方から声がした後、引き戸の開閉音がしていたとうっすらと記憶している。
 至ってふつうの日になると疑わなかった。


 高校には電車を乗り継いで通っていた。
 なっちゃんに作ってもらったお弁当を下げ、校門をくぐる。
 カバンから携帯電話を出し電源を切り、教室に向かった。
 一限目から体育の授業で「嫌だな」と、ため息を吐いたことも覚えている。
 更衣室で体操服に着替えてから、日直だったことを思い出し、慌てて職員室に向かったことも。
 その途中で高木くんを見かけた。
 同級生に囲まれた高木くんを意識しながら、すれ違うはずだった。
 気づかないふりをして、さり気なく通りすぎようと思っていた。
「美香。おはよう!」
 爽やかな挨拶がして俯けていた頭を上げると、高木くんが目の前にいて日直日誌をわたしに掲げて見せた。
 まさか今、声を掛けられるとは思ってもみなかった。
「お、おはよう」
 上ずる声はどうしようもない。
 高木くんってばカッコいい。見惚れてしまう容姿に、ほ〜、と桃色のため息を吐きそうになった。
 最終学年で、高木くんと同じ理系クラスになった。
 男子の割合が多いクラスで、少ない女子のグループの中でそれなりに楽しく過ごしていた。
 昨年まで会話がなかったのに、どういう訳か高木くんは積極的に話し掛けてくれて、それも、苗字でなく名前で呼ばれるから、うれしいやら恥ずかしいやら。
 高木くんはみんなに好かれているけど、女子を親しく呼ぶのは聞いたことがない。
 それだけのことで、わたしは心の中で喜んでいた。
 いっしょにいたらしい他の男子から「甘酸っぺ〜」と揶揄われ、わたしは居たたまれず日直日誌を抱きしめて俯いてしまった。
 高木くんとは約束していた。
「いっしょの大学に行きたいって思ってる。ふたりで住んでふたりで卒業して。そんなこと考えてる」
 そう言った高木くんの言葉を、夢ではなく現実に変えるために、わたしはより一層勉強に身を入れていた。
 今思えば、自分のことばかり考えていたな。
 母が帰って来なかった夜を疑いもせず、朝までどこかで飲んでいるのかな、くらいで母を真剣に心配することもしなかった。
 何度携帯電話に掛けても出ないことに、おかしいと気づくのは翌日の昼頃で、それから本格的に探し始めた。
 行きそうなところには電話をかけ、母の職場の同僚、友人にも連絡をとった。
 夕方、父に捜索願を出してもらうことになった。
 結局、二日経った隣町の砂浜で母は見つかった。
 もっと母のことを注意して見ていればよかった。
 思い出して、後悔しては、涙が零れて止まらなくなる。
 この先もずっと、胸にある悲しみの塊がどっしりと居座り続けるのだろう。
 それでいい。
 母を忘れないためなら。


「美香。お昼は焼きそばでいい?」
 不意に聞こえた声に、もうそんな時間なんだ、と振り返る。
 お腹は減ってないんだけど、と思いながら「うん」と、頷いた。
 大学生になって、高木くんといっしょに暮している。
 わたしの料理下手のせいで高木くんの手料理率が断然に高かった。
 面目ない。
「また、そんなしょぼくれた顔して。気にすんなよ」
 後ろから抱きしめられ、頭にキスを落とされた。
 つき合い出してからの高木くんは、ものすごく甘くて困る。
 溺れそうなほどだ。
「夕食は、高木くんの大好きなハンバーグを作るから!」
 空元気だろうと、声高に振る舞って笑って見せた。


「これ、塩とスパイスを入れ忘れたんじゃない?」
 「焦げてもなく、今までで一番の出来なのにな」と高木くんは意地悪な顔でわたしを揶揄った。
 テーブルの上の見た目だけ美味しそうなハンバーグを前にため息を吐く。
 どうして失敗しちゃうんだろう。
 わたしが、なっちゃんみたいに料理上手だったらよかったのに。
 なっちゃんだったら、絶対にこんな失敗しないはずだ。
「ほら、顔を上げて! 俺がとっておきの方法を考え付いたから、ちょっと待ってて」
 高木くんはハンバーグのお皿を持ってキッチンの向こう側に姿を消した。
 何やら、冷蔵庫を開け閉めしてゴトゴト音が響いた後、スマホのシャッター音がした。
 高木くんの「待ってて」に待てず、コソコソ歩いて行くと、ハンバーグがお好み焼きに変身していた。
 すこし小さめのそれは、ソースの上にマヨネーズ、青のり、かつお節がふわふわと踊っている。
 ――美味しそう!
 確かにお好みソースをたっぷりかければ味のないハンバーグでも食べられそうだ。
「高木くん。すごい! 美味しそう!!」
 感嘆して喜びを表現すると、高木くんはスマホを片手に掲げて見せた。
「なに?」
 さっき、写真撮ってたよね?
 スマホを覗き込むと、なっちゃんとやり取りしていたのだと知る。
 時々、こちらの暮らしぶりをなっちゃんに知らせる目的で料理の失敗写真を送っているのだけど、やめてほしいと言えないでいる。
 怒りたいのに怒れない微妙な感情で高木くんを見上げると、引き寄せられた。
 すっぽりと高木くんの大きな体に包まれると、なんでもないような気になってくる。
 怒りの度合いも徐々に薄まっていくから不思議だ。
「好きだよ」
 ちょっと掠れた声が頭にジンと響き渡る。
「うん。わたしも、好き」
 大好きだよ、と心の中で、もう一度繰り返した。

(2017/01/25)


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