わたしの中のなにかが変わっていっているのだろうか。
さっきまでなにをしていたのか、思い出せない。
確かに、なにかをしていたはずなのに。
「いま、わたしは……」
そこまで言って、口を噤んだ。
なにを言おうとしたのか、わからなくなってしまったのだ。
ずっと同じことを繰り返しているような気がする。
わたしは、膝の上にあった自分の両手をかざして見た。皺だらけの手はおばあさんみたいだし、いつの間にかひとりでは歩けなくなって、車椅子が移動手段になっている。
「お袋、どうかした?」
「お袋」と、呼ばれて顔を上げると、記憶にはない人がいた。
首を傾げて「あなたは」と返す。
「……息子の航だよ」
明るく微笑み、わたしの肩をいたわるように撫でる。その手は優しい。
「ぼくのこと忘れないでよ」と、微かに呟く声が聞こえた。
「今日は、お天気がいいから海まで散歩しよう」
わたしは、「お天気」にも「海」にも反応できず、車椅子から笑顔の人をただ見つめた。
目の前でふわふわと青黒いものが揺れ動くのを不思議な気持ちで見ていると、笑顔の人が覗き込んできて、また微笑んだ。
「あなたは、よく笑う人ね」
反射的に出てしまう言葉に、自分でびっくりしていると、背中から笑い声が上がった。
「楽しいからね。お袋と散歩してると、ヤなこと忘れられる」
笑顔の人は、さらに声を上げて笑った。
だから、わたしも笑うのよ。
「海だよ。今日の海は穏やかだ。お袋、海だよ」
「海」という言葉を連呼するので「海」と反復して声に出してみた。
そうすると、笑顔の人が「そうだ」と深く頷いた。
「水面がキラキラと光っていて、キレイだね」
「ほんと、きれい」
息がもれ出た。
なぜだか、涙が出てきて頬を伝う。
うれしくて泣けてきた。悲しくても泣くのだけど。
「最近、涙もろくなったね。お袋は」
涙を拭かれて、さらに、洟まで拭かれた。
「今日はもう散歩はおしまいにしようか。うちに帰って、奈都のごはんを食べよう」
「ちがう。奈美でしょ」
笑顔の人は、ふと寂しそうな目で海を見てから、口を開けた。
「奈美さんは遠いところに行っちゃったから、もう会えないんだよ」
もう、会えない。
会えない?
「勝海さん」
会えないのは、わたしの夫だ。
「わたしの夫は勝海さんと言ってね。漁師なの。お酒が大好きで、とても優しい人なの」
「……お袋」
「昔のことは覚えてるんだ」と、呟いたその人は、悲し気に空を見上げて何かに堪える表情を見せた。
なにか楽しい話をしてあげたい。
「ひとり息子がいるの」
言葉が衝いて出た。
「息子」
「そう。わたるって言うの。わたるちゃんは甘えん坊さんで、わたしに抱っこされるのが好きなの。ラムネのアイスが好きでね。すぐにお腹を壊すのに、懲りずにまた、アイスをねだるの。可愛くってね。何でも買ってあげたくなるの」
わたしがそう言った途端、その人はしゃがみ込んで涙を隠しもせずに泣き出した。
わたしは、子どもみたいに声を上げて泣く人の手を、しょうがなく思いながら握りしめた。
「泣かないで。あなたの笑っている顔が一番好きだから、笑っててちょうだい」
ぐずぐずと洟をすすっている情けない顔を励ましたような……、それから笑顔が見られたような……。
それは、いつだったのか?
わたしの中のなにかが変わっていっているのだろうか。
幸せの記憶だったような、そんな気がして目を瞑った。
「お袋。……なんだ、もう寝ちゃったのか。近頃、よく眠るよね」
そんな言葉がうっすらと聞こえてきたけれど、わたしは抗わず深い眠りに入っていった。
(2017/02/01)