1.

 まだ夜が明けきっていない時間。あまりの寝苦しさに目を覚ました。
 もう。暑すぎっ。
 汗がTシャツに移り、じっとりと身体にまとわりついて、気持ち悪い。
 やだなって思ったら、昨日のことを思い出した。もっと、嫌なことを。
 まだ、あたしの耳に残っている。
 昨夜の喧騒。
 早く忘れてしまいたい、母の罵声と、何かが壊れる音。
 玄関の扉が音を立てて閉まった時、あたしの心の扉も閉まった気がした。
 今度こそはって言ったのに、母は出て行ったのだ。
 ろくでもない母だけど、あの人はあたしを産んでくれた人だから。
 嫌だと思っても、ずっと耐えてきた。
 なのに、またおんなじことを繰り返す。
 とにかく。
 今夜までに、寝るところを探さないと。
 あたしの居場所を見つけなきゃ――。

 自室の扉を開けて、リビングにつながる廊下を行く。
 ガラス扉からリビングを覗く。……と、力の抜けた足を見つけた。視線を辿る先には、母のオトコが首を垂れて目をつぶっている。ワイシャツははだけ、着崩れた格好でその身体をソファーに預けている。
 オトコのそばには空らしい洋酒の瓶が転がり。テーブルにはグラスが倒され、お酒がシミを作って、お皿からは行儀悪くピスタチオが飛び出していた。
 昨夜の残骸。
 早く拭かないと、シミになっちゃう。
 音をさせないように扉を開けると、毛長な絨毯の上を静かに歩いた。
 痛っ!
 素足にチクリとなにかを感じて、見ると、ピスタチオがひとつ転がっていた。踏んづけたはずのピスタチオの形はそのままで、絨毯がクッションとなって潰れていなかった。それを摘んでグラスに棄てた。
 カラン、と。
 小さいけれど硬質な音が響き、肩を躍らせる。
 いけない! 静かしないと、起こしちゃうよね。
 両肩を竦めながらオトコに目を向けたが、変化はなかった。
 まだ眠っている。
 よかった。起きなくて。……さて、と。
 片付けようと、部屋を見渡した。いつ見ても無駄に広い部屋。
 ここはオトコが持つマンションのひとつで、高級な家具とシックな色合いの三十帖ほどのリビングは、最初に見た時には、まるでモデルルームのようだ、と思った。
 あとで、オトコはこう言ったんだ。
<ここは、実際、モデルルームだったところなんだよ>
 それから、くつくつ、と笑った。
 オトコは、母の男の中でも顔も体格も、裕福さもすべてに渡って秀でていて、とても五十を過ぎているようには見えない。――若くて、強くて、広くて、優しくて。
 綺麗な男。
 手には空のグラスが握られていて。そっと取り上げる。お酒を飲んでそのまま眠ってしまったらしい寝姿を、心奪われるように見つめた。崩れていても不快な感じがしない。それすらも美しく、オトコの色気さえ漂わせている。
 ああ、残念。髪の毛がほつれて目元を隠してしまっているね。
 涼しそうな眼差しが、オトコの身体の中で一番好きなところ。
 目をすこしだけ細めて静かに笑う顔はいつまでも見ていたいと思ったし、自分の体温をぐっと上げてしまうくらい魅力的で。
 今だって、そばにいると思うだけで熱い気持ちになってしまう。
 もっとオトコに近づきたい。
 最後だから、いいよね。
 内に秘めていた欲求を解き放とうと近づく。
 震えだしそうな自分を励ますように、息を詰める。
 そして、オトコの顔にかかっている髪の毛をそっとかき上げた。
 繊細で、男らしい、整った顔。
 規則正しい寝息を確かめて、掠めるようにキスをした。
 ドキドキと早く打つ胸の鼓動で、オトコが起きてしまわないだろうか。でも、止められない。
 もう一度だけ、と。唇を重ねる。
 力の抜けたオトコの唇は半開きで、眠っているあかし。
 もう少しだけ……と。
 大胆にも長く触れ合わせた。
 好き。こんなにも……。
 自分の想いの深さに、小さく震えてしまった。慌てて離れたけど、さらに震えは大きくなった。片恋なりにあたしの想いを成就させて満たされた。
 ……はずなのに、もう少しと、欲求が膨らんでゆき、離れられなくなりそうで、怖くなる。
 あたしが初めて恋をした人。
 母のオトコと知っていても、密かに想いを寄せていた。
 それも、今日で終わりだ。
 立つ鳥後を濁さず。
 そう思い切って、律儀にも片付け始める。三年もの間、お世話になった部屋だと思うと、適当にはできない。
 こんなに長く住んだ部屋は、ほかにはないんだもの。
 荒れた雑誌と、昨日の新聞を取り上げた。
 ああ、また。
 足の裏でピスタチオを踏んづけた。
 この痛み、母が残した想いなのか、まるであたしを戒めるようで、足裏からチクンと痛みが広がった。
 よく見ると絨毯のあちらこちらにピスタチオが転がっている。
 大方、母が投げつけたものだろう。
 まったく、節分の豆まきじゃないんだから……。
 一粒、一粒、残らないように、拾い上げた。
 母のこれまでの振る舞いを思い出し、溜め息が自然に漏れ落ちた。
 グラスをキッチンに運び、洗い、ピカピカに磨き上げ、サイドボードに仕舞う。
 テーブルを拭いて、キッチンを掃除して。
 整然とした部屋を見渡した。
 ああ、これであたしのすることがなくなっちゃったね。
 あとは、出て行くだけ、か。
 あたしは荷物をまとめてキャリーバッグに詰め込んだ。
 そんなに多くない荷物は、これひとつで収まってしまう。
 抱えるようにバッグを持ち、自分の部屋を出た。
 玄関先でバッグを下ろす。キャスターのコロコロ回る音が、物寂しげに聞こえた。空回りしている音のようで、あたしも寂しいんだよ、と心の中で呟く。
 本当は出て行きたくなんてない。
 でも、母が出て行く時は、あたしも出る時だと、経験上学んでいる。と、いうか、あたしと母のルールだ。都合よく例外があってはならないのだ。
 長い間、お世話になりました。
 部屋の扉を前に、オトコの眠っているソファーに向けてお辞儀をした。
 さよなら、あたしの居場所。
 さよなら、あたしの……淡い恋。


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